第三話「吹奏楽部員、男子一名」
第三話「吹奏楽部員、男子一名」
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吹奏楽部に入部した一年生の男子は、僕一人だった。
いや、正確には全学年含めても男子部員は三人しかいなかった。二年生と三年生に一人ずつ。あとは全員女子だ。
これが何を意味するかというと、僕は入部した瞬間から、ほぼ女子しかいない空間で練習する環境に放り込まれた、ということだ。
天国と地獄は紙一重だというが、この場合は素直に考えれば天国のように見える。しかし陰キャにとっては、それが即ち地獄でもある。
なぜか。
コミュニケーションが必要だからだ。
吹奏楽部というのは、合奏が前提のクラブ活動だ。一人でひっそりやっていられない。金管、木管、打楽器。セクションをまたいで意見を出し合い、音を合わせていく。つまり、話さなければならない。言葉が得意でない僕にとって、それは最初から壁だった。
しかし、楽器を吹き始めると、話せなくていいのだ。
音で話す。
それが吹奏楽の本質だった。言葉が苦手な僕でも、トランペットを口に当てれば何かを伝えられる。音程、強弱、アーティキュレーション。どんな感情で吹いているか、たぶん伝わっている。少なくとも僕はそう信じていた。
言葉を持たない感情が、音になる。それがトランペットだった。小学生の頃から、何度も、そう感じてきた。
最初の全体練習が終わった後、顧問の先生が「音無くん、音がいいですね」と言った。
たった一言だったが、胸の中で何かがほどけた気がした。
認められた、というのとは少し違う。確認された、という感じだろうか。ここで吹いていていい、という許可が下りたような。そういう感覚だった。
奈央のトロンボーンは、想像以上だった。
あの長いスライドを操りながら、深みのある低音を出す。トロンボーンという楽器は金管の中でも難しい部類で、音程がスライドの位置で決まるため、わずかなずれが音に出る。それを、奈央は自然にやっていた。中学から続けてきた、という積み重ねが音に出ていた。
ずっと聴いていたかったが、ずっと聴いていると不審者なので、ちゃんと自分のパートの練習をしていた。
「音無くん、うまいじゃん」
練習の休憩中、奈央が声をかけてきた。
「……そうですか」
「なんで敬語なの、タメで話しなよ」
「でも、えっと」
「一個上?」
「同い年です」
「じゃあタメでいいじゃん」
こういうところが奈央だった。
一切の躊躇なく距離を詰めてくる。陰キャの壁をまるで存在しないかのように通過してくる。失礼と言えば失礼だが、おかげで僕は奈央と普通に話せるようになっていた。こういう人間が世の中に存在するということを、それまで知らなかった。
「トランペット、いつから?」
「小学四年生から」
「長いじゃん。どして始めたの?」
「……なんか、音が好きで」
「わかるわかる。あたしもトロンボーン最初聴いたとき、これだって思ったもん」
これだって思った、という感覚はわかる気がした。
楽器との出会いは、言語化しにくい必然感がある。理屈じゃなくて、身体が先に反応する。説明しようとすると陳腐になるが、経験した者にはわかる話だ。
のんは打楽器、あやのはクラリネットだった。
四人のパートはバラバラだが、部活が終われば一緒に帰る。部室から駅まで、電車の中。そのルーティンが、気づけば僕の一日の核になっていた。
クラスでは、相変わらずぱっとしなかった。
仲が悪いわけではない。みんなとふつうに挨拶するし、授業中に孤立しているわけでもない。グループワークになれば参加するし、誰かに頼まれれば協力する。でも、誰かと特別親しいわけでもなかった。クラスの中の僕は、いてもいなくても大勢に影響がない存在だった。そういう立ち位置は中学の頃から変わっていなかったし、たぶんこれからも変わらないと、その頃の僕は思っていた。
吹奏楽部では、違った。
トランペットを吹けば、その音は空間に存在した。誰かの耳に届いた。どんなに地味でも、どんなにおとなしくても、音だけは確かにそこにあった。吹奏楽部の中では、僕は透明ではなかった。
それだけで十分だ、と思っていた。
その頃は、まだそれだけで十分だと、思っていた。




