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第二十八話「合宿、あるいは陰キャが密閉空間に投げ込まれる実験について」


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 第二十八話「合宿、あるいは陰キャが密閉空間に投げ込まれる実験について」

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 密閉空間、という概念について考えよう。


 密閉空間とは、外との出入りが制限されている空間のことだ。物理的な鍵がかかっている必要はない。「ここからは逃げられない」という状況的確信があれば、空間は密閉される。学校の教室は毎日逃げ場があるから密閉ではない。しかし三泊四日の合宿は密閉だ。施設の外に出ても行く場所がない。山だから。


 合宿施設という密閉空間に陰キャを投げ込むと、何が起きるか。


 答えは——案外なんとかなる、だった。

 案外なんとかなる、がどういう意味かは、この話を最後まで読めばわかる。




         *




 合宿一日目の夕方。


 パート練習が終わった。


 風呂の時間だった。


 施設の大浴場は、男女入れ替え制だった。一回目は女子から。女子が入っている間、男子は部屋で待つ。二回目が男子の番だ。


 「お先にー」とのんが言った。洗面用具入りのバケツを持って、嬉しそうに廊下を歩いていた。

 「楽しそうだね」と僕が言った。

 「お風呂は楽しいよ。広い湯船でしょ、ここ。部員全員で一緒に入る」

 「女子全員で」

 「当たり前でしょ」


 当たり前のことを確認した。当たり前の確認は無意味ではなく、確認によって現実が固定される。女子全員が今から大浴場に入る。それは現実だ。


 男子三人は離れの部屋で待った。


 「先輩方は合宿、何回目ですか」と僕が村田先輩に聞いた。

 「俺は三回目。引退してから来るのは初めてだけど」

 「なんで来たんですか」

 「後輩の面倒見るのが好きなんだ。一年生は初めての合宿で戸惑うから」

 「……そういう理由で引退後に来るんですか」

 「変か?」

 「変、というよりすごい」


 村田先輩は笑った。全体的に大きい笑い方だった。声量が音楽家のそれだった。チューバを吹いてきた肺は、笑い声にも反映される。


 「林も二回目だよな」と村田先輩が言った。

 「はい」と林先輩が答えた。

 「去年はどうだった」

 「去年のほうがきつかった。」

 「なんで」

 「去年のトランペット、ソロを一人で抱えてた。今年は音無がいる。」


 林先輩が横を見た。横、というのは、僕のことだ。


 「音無」

 「はい」

 「ソロ、覚悟しとけ」

 「覚悟、というのは具体的には」

 「しんどいってこと。合宿でソロをひたすら磨かされる」

 「今年のコンクール曲、ソロあるんですか」

 「ある。お前に回ってきた」


 一年生にソロが回ってくることの意味を、まだ理解していなかった。去年のアンサンブルコンテストで知ることになる重さを、この時点では予感だけしていた。予感だけで十分重かったが。


 三十分ほどして、浴場から戻ってきた女子たちが廊下を通った。


 湯上がりの女子たちが廊下を歩いていた。


 シャンプーの香りが、廊下を満たした。


 「行くか」と林先輩が言った。


 男子三人で大浴場に向かった。女子が使い終わった直後の浴場は、湯気がまだ残っていた。シャンプーとボディソープの残り香が漂っていた。洗い場には、シャワーの水が残っていた。さっきまで女子が使っていた空間に、今、男子三人がいる。


 湯船に入った。

 広い。女子全員が入った後でも、三人では持て余すくらい広かった。


 「思ったより気持ちいいな」と村田先輩が言った。

 「山の水は柔らかい」と林先輩が言った。

 「水質が違うんですか」と僕が聞いた。

 「軟水と硬水の違い。山の水は軟水で、肌に馴染みやすい」


 林先輩が意外な知識を持っていた。


 「先輩、そういうこと詳しいんですか」

 「母親が温泉好きで、昔よく連れて行かれた」

 「……先輩にも家族がいるんですね」

 「当たり前だろ」

 「当たり前ですけど、なんか意外で」


 林先輩は「失礼なやつだ」と言ったが、怒ってはいなかった。怒り方が、一年生への怒り方ではなく、呆れた先輩の言い方だった。


 裸の付き合い、という言葉がある。文字通りの意味で、服を着ていない状態で一緒にいることで、余分な武装が取れて、本音が出やすくなる、という概念だ。


 実際、そうだった。


 服を着ていると、人間は役割を演じる。先輩は先輩として、後輩は後輩として。しかし湯船に三人で浸かっていると、先輩も後輩もない。ただの人間同士になる。


 「音無、吹奏楽始めたのはいつだ」と村田先輩が聞いた。

 「小四になってからです。入部したのが最初で」

 「最初から楽器吹けたのか」

 「最初は全然。マウスピースで音出すのに一ヶ月かかりました」

 「普通だな。俺も最初はドとレしか出なかった」


 村田先輩がチューバの最低音域に言及した。ドとレしか出ない、という言葉の意味が、楽器をやっている人間にはわかる。楽器は、最初は一部の音しか出ない。全ての音が出るようになるには時間がかかる。


 「林は?」と村田先輩が聞いた。

 「俺も小学校の金管バンドから」と林先輩が言った。

 「みんな長いな」

 「長い。その割には、うまくなるのが遅かった。一番うまくなったのは、高校一年の合宿の後だった」

 「何かあったのか」

 「徹底的にしごかれた。先輩に。音が変わった」


 林先輩が、自分が変わった瞬間の話をしていた。


 その言葉は、後になって意味を持つ。一年後、今度は林先輩が僕をしごく側になる。そのループは、合宿という場所で生まれ、合宿という場所で続く。


 「音無も今年、変わるかもしれないな」と村田先輩が言った。

 「そうなるといいですが」

 「なるよ。林が目をつけてるんだろ」

 「……どういうことですか」

 「音がいいって言ってた」


 林先輩がこちらを見なかった。お湯を見ていた。


 「言ってたんですか」

 「言ってない」

 「言ってたじゃないか」と村田先輩が笑った。

 「言ったとしても、今は関係ない」


 林先輩の頬が、湯のせいか少しだけ赤かった。


 男同士の湯船での会話というのは、外側から見ると奇妙な光景かもしれない。しかし内側にいると、これが一番素直になれる時間だった。服がない。役割がない。お湯がある。音楽の話をする必要もない。でも音楽の話になる。


 そういう夜だった。




         *




 夕食が終わった後、レク係が動き出した。


 のんが満面の笑みで現れた。

 「みんなー、集まってー! レクリエーション開始でーす!」


 のんの「みんなー」と「でーす!」の語尾が伸びるのは、自然に伸びているのではなく、意図的に場の空気を温めている技法だ。陽キャの声掛けには技術がある。自分が盛り上がることで、周囲が盛り上がる許可が与えられる。


 食堂に全員が集まった。


 テーブルにトランプが配られた。


 大富豪。

 全員参加。一年生も二年生も、有志参加の三年生も。


 「大富豪のルールって統一されてるの」と誰かが言った。

 「されてない。ここではこのルール」のんがルールを読み上げた。革命あり。都落ちなし。階段あり。スペードの3で2を切れる。


 「のんって、こういうルール作るの上手だよね」と奈央が言った。

 「みんなが楽しめるルールを考えたの」

 「でも都落ちなしは、大貧民が不利にならない?」

 「大貧民に優しいのがポイント。気持ち良く上がれる人がいないと、全体が盛り上がらないから」


 奈央がわずかに目を細めた。

 「のんって、考えてるね」

 「あたしだって考えてるよ。見えないだけで」


 のんの「見えないだけで」という言い方は、陰キャへのさりげない連帯だった。見えないだけで、内側はある。外側の賑やかさだけがのんではない。


 トランプが始まった。


 一時間が経った。

 二時間が経った。


 施設の規則では、消灯は二十二時だった。しかし部員の誰も時計を見ていなかった。


 時間の感覚が消えた。


 合宿の夜というのは、独特の時間が流れる。日常の時間軸が切断される。学校でも自宅でも友達の家でもない、どこでもない場所で過ごす夜は、普段とは別の速度で動く。


 みんながトランプのテーブルを囲んでいた。一年生女子たちは大部屋から持ってきた布団の上に足を折り曲げて座っていた。二年生の一部はそのまま横になりながらカードを持っていた。部屋着で、パジャマで、ジャージで。


 日常ではあり得ない組み合わせだった。


 先輩も後輩も関係なく、同じ空間に同じ格好で存在している。これが合宿の特殊性だ。学校という制服によって均質化された空間を離れると、人間は人間に戻る。ジャージ姿の柚木先輩はゆるふわ度が増し、ジャージ姿の堀先輩は逆に貫禄が増し、ジャージ姿の水瀬先輩は普段より声が一段高くなっていた。


 僕は? ジャージ姿の音無透は、たぶん、普段より一段無害そうになっていた。


 奈央が隣に座っていた。


 「音無、今日の風呂、どうだった」と奈央が言った。

 「広かった」

 「あたしたちも広かった。全員入れた」

 「女子全員で?」

 「うん」

 「…………」

 「なに」

 「なんでもないです」


 奈央が「なんでもないです、って言う時は大体何かある」と言った。

 「何もない」

 「本当に?」

 「本当に」


 嘘だった。


 しかし嘘をついてでも守るべき内側がある。思春期とは、守るべき内側の面積が急拡大する時期だ。内側が増えるから、外側に出せる情報が減る。それが陰キャの構造的原因の一つだと、僕は考えている。


 ゲームが続いた。

 のんが大富豪を三連続で引いた。

 「また!」と誰かが叫んだ。

 「あたし大富豪向きなんだよ」とのんが宣言した。

 「何が向きなの」

 「読みが当たること」

 「カード運でしょ」

 「運と読みは似てるよ。読める人間に運が来るの」


 のんの人生哲学は、たまに鋭い。


 二十二時を過ぎた頃、先輩たちが「そろそろ明日の練習のために寝よう」と言い出した。


 しかし、誰も立ち上がらなかった。


 「ねー、もう少しいようよ」とのんが言った。

 「のん、消灯時間——」

 「あと十五分だけ!」


 あと十五分だけ、が三回繰り返された。結果として四十五分が追加された。


 その四十五分が終わる頃、事件が起きた。


 布団の上でだらだらしていた二年生の一人が、ふと言った。


 「ねえ、ちょっとだけ正直な話していい?」


 その「正直な話」という言葉が、話題の方向を決定した。


 名前のつかない、しかし確実に発生した出来事が、その後に起きた。


 詳細は次の話で述べる。




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            (第二十九話へ続く)

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