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第二十七話「授業中、あるいは六月の窓から見える一年前の夏について」


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 第二十七話「授業中、あるいは六月の窓から見える一年前の夏について」

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 回想、という言葉の定義を試みよう。


 回想とは、過去の記憶が現在に侵入してくる現象のことだ。意図的に呼び出す場合もあれば、何かのきっかけで不意打ちのように蘇る場合もある。前者は「思い返す」、後者は「よみがえる」と日本語では使い分けられる。精密な言語だ、と思う。英語では両方 "recollect" や "recall" で済ませてしまうが、日本語はモードの違いを動詞に刻む。


 問題は、回想が現在の処理能力を占有することだ。過去のことを考えている間、現在はおろそかになる。授業中に回想すれば、授業は頭に入らない。これは失敗ではなく、人間の脳の仕様だ。


 六月の午後。二年生の六月。現代文の授業。教師の声が、エアコンの音に飲み込まれている。先週からエアコンが稼働し始めた。教室の空気が人工的な涼しさをまとっている。梅雨の合間で、窓の外の空が妙に青い。


 僕は窓の外を見ていた。


 空を見ていたのではない。空の向こうにある、一年前の夏を見ていた。


 去年の今頃。一年生の夏。あれは、高校生活でたぶん最初の——そして最も集約的な——体験だった。




         *




 高校に入学してはじめての定期演奏会が終わった直後の部会で、顧問の先生が言った。


 「七月の末に合宿をやります。例年通り、奈良の谷瀬荘。三泊四日」


 谷瀬荘。奈良県の山の中にある合宿施設だ。吹奏楽部が毎年使っている、という説明だったが、一年生の僕には何もイメージがわかなかった。奈良の山の中、という情報しかない。奈良、という言葉から僕が連想するものは、鹿と大仏と柿の葉寿司だった。山の中の合宿施設とは、どういう場所なのか。


 「嫌だなー」と、のんが隣で小声で言った。

 「なんで」

 「合宿って大変じゃん。朝から晩まで練習でしょ」

 「そりゃそうでしょ」

 「大変は嫌だよ」

 「でも行きたいんでしょ」

 「まあ行きたいけど」


 のんの「嫌だ」は、行きたくない、という意味ではない。行くのは前提で、その上で大変なことへの予防線を張っている。そういう言い方をする人間だ。のん——音無のん——は、陽キャとしての作法を生まれつき知っている。


 「係を決めます」と先輩が続けた。


 合宿の準備には複数の係が必要だ。施設との交渉・手配を担当する係。練習スケジュールを立てる係。移動や荷物の段取りをする係。そして、レクリエーションを企画する係。


 一年生と二年生の有志が係に入る。


 「レク係やるー!」とのんが真っ先に手を挙げた。陽キャの動体視力は速い。

 「スケジュール係」と奈央が、少し遅れて手を挙げた。真剣な顔だった。

 「手配係を手伝います」とあやのが静かに言った。


 僕は何も手を挙げなかった。


 挙げようとした。正確には、挙げようかどうか考えているうちに、全ての係の定員が埋まった。陰キャの宿命である。機会は常に、考え始めた瞬間に終わっている。


 「音無はどうする」と柚木先輩が聞いた。その時の柚木先輩はまだ二年生で、ゆるふわ感は今と同じだったが、部長の貫禄はまだ発展途上だった。

 「……係、全部埋まりましたよね」

 「埋まった。なら係なしでいい。当日、何かあれば動いて」

 「わかりました」

 「それと、荷物運び、よろしくね」

 「はい」


 係なし。

 何かあれば動く係。名前のない係だ。そして名前のない係の担当者は、名前のない感情と同様、残高が積み上がっていく。後でまとめて請求が来る形式だ。


 合宿の一週間前。


 レク係が企画書を出してきた。のんが中心になって作ったもので、トランプ大会、大富豪、ゲーム大会、花火(施設の許可範囲内)、交流会と称した飲み会の代替品としての駄菓子パーティが盛り込まれていた。


 「のんって企画書書けるんだ」と僕が言った。

 「バカにしてる?」

 「してない。むしろ感心してる」

 「ちゃんと感心してよ。徹夜で考えたんだから」

 「徹夜する必要はなかったんじゃないの」

 「楽しくするためには徹夜も辞さない」


 のんの「楽しくするためなら何でもやる」という姿勢は、一貫していた。それが陰キャとの根本的な違いだと思う。陰キャは楽しくなるかどうかわからないことに労力を使えない。のんは楽しくなると信じているから全力で準備できる。楽観性とは、先行投資ができる能力のことだった。


 スケジュール係の奈央は、練習のタイムテーブルを一人で作り上げた。朝六時起床から夜十時消灯まで、三十分刻みで何をするか書いてある。


 「奈央ってこういうの得意なの」

 「別に得意じゃないけど、やれば終わるから」

 「やれば終わる、は得意の定義だと思うけど」

 「違う。得意っていうのは、楽しくできること。あたしはこれが楽しいとは思わない」

 「じゃあなんでやるの」

 「誰かがやらないといけないから」


 その言い方が、奈央らしかった。「誰かがやらないといけないから、自分がやる」。義務感と行動力が直結している。感情を経由しない。それが奈央のやり方だった。


 そして施設の手配係をやったあやのは、谷瀬荘のパンフレットと地図のコピーを全員分用意してきた。


 「奈良の山の中って、どんな場所なの」と僕がパンフレットを見ながら聞いた。

 「涼しくて、静かで、練習するには良さそう」とあやのが言った。

 「良いところだけが書いてあるでしょ、パンフレットって」

 「……まあ」

 「実際は虫が出るとか、布団が薄いとか、ご飯が量多いとか、そういう情報がある」

 「なんで知ってるの」

 「想像」


 あやのがかすかに笑った。あやのの笑いは小さい。口の端が少し上がる程度だが、それが最大値だった。


 合宿前日。荷物をまとめた。


 三泊四日の荷物は、楽器は別として、着替えが最低四日分と、練習着と、パジャマと、洗面用具と、タオルと、部活のスコアと——思ったより多かった。僕のリュックに全部入り切らず、追加の袋が必要になった。


 母親が「合宿ってことは、夜も誰かと一緒にいるんでしょ。変なことしちゃ駄目だよ」と言った。

 「変なことって何」

 「知らないの?」

 「知らないふりをするのが適切な返答だと思う」

 「賢い子ね」


 賢いかどうかはわからないが、返答の仕方を間違えると厄介なことになるのは理解していた。これは陰キャの知恵ではなく、人類共通の生存戦略だ。




         *




 七月の末。月曜日の朝。


 学校前に集合。バスで奈良に向かう。山の中の合宿施設まで、バスで一時間半ほど。


 バスに乗り込んだ瞬間、空気が変わった。


 何が変わったか。緊張の種類が変わった。いつもの、部活での緊張ではなく、これから三泊四日を同じ空間で過ごす、という実存的な緊張だ。学校には毎朝終わりがある。授業が終われば帰れる。しかし合宿には帰れない。逃げ場がない。三泊四日、このメンバーとだけ過ごす。


 隣に奈央が座った。

 「緊張してる?」と奈央が聞いた。

 「してる」

 「珍しく正直」

 「合宿前は正直になる」


 後でわかることだが、この「合宿前は正直になる」というセリフを、僕は一年後の定期演奏会前日にも言っていた。発言の再利用である。僕の語彙と精神構造は、一年間でそれほど変化していなかった。


 バスが動き出した。大阪を出て、阪神高速から西名阪道に入る。奈良の山に近づくにつれて、窓の外の景色が緑になっていく。コンクリートジャングルからリアルジャングルへの移行。


 「男子、何人いる?」と奈央が聞いた。

 「……三人だと思う」

 「少ない」

 「うん」

 「部員三十人いて、男子三人」

 「なぜかこうなる」


 なぜかこうなる、が吹奏楽部の男子問題の全てを要約していた。全国的に見ても、吹奏楽部の男女比は女子過多だ。特に高校では顕著になる。男子三人というのは、むしろ多い方だという説もある。多いとは言えないが、ゼロよりはいい。


 三人の内訳。

 一人目は、当然、僕だ。音無透。一年生。トランペット。陰キャ。

 二人目は、林先輩。二年生。トランペット。厳しい。後に僕と衝突し、さらに後に信頼し合うことになる先輩だが、この時点では「怖い先輩」の域を出ていなかった。

 三人目は、村田先輩。三年生。チューバ。有志参加。引退しているのに来るのは、「後輩の面倒を見る義務がある」という個人的な信念からだそうだ。体が大きく、声も大きく、笑い方も大きい。要するに全体的に大きい人だった。


 男子三人で、一番狭い部屋。

 施設のパンフレットには「定員三名の和室」と書いてあった。なぜ一番狭い部屋が三人用なのか。定員と快適性は別物だということだ。




         *




 谷瀬荘に到着した。


 バスが砂利道を走って、木造の建物の前で止まった。山の冷気が扉を開けた瞬間に流れ込んできた。七月なのに、大阪より五度は低い。


 「涼しい!」とのんが叫んだ。

 「声でかい」と誰かが言った。のんの声量は標高に関係なく一定だった。


 施設の担当者が出てきた。部屋割りを説明する。


 一年生女子:大部屋(定員十五名)

 二年生女子:三班に分かれて、各部屋六名

 三年生(有志)女子:二名の部屋

 男子全員:三名の和室


 男子の部屋は「離れ」の一番奥にあった。離れ、という言葉がすでに文学的な孤立を示唆している。メインの棟から少し離れた場所にある小さな建物。独立した空間。陰キャに最適な配置だと思ったが、最適というのは快適とは違う。


 部屋の広さは、六畳だった。

 六畳に三人。


 「狭いな」と林先輩が言った。率直だった。

 「まあ、寝るだけですから」と村田先輩が言った。楽観的だった。

 「荷物、どこに置けばいいんですか」と僕が言った。実際的だった。


 三人の性格が、その一言ずつに出ていた。


 荷物をリュックごと壁際に積み上げた。布団は押し入れに折り畳まれて入っていた。三枚の布団を六畳に敷くと、ほぼ隙間がなかった。誰かが寝返りを打てば、隣の人間の布団に侵入する。それほどの密度だった。


 着替えを終えて部屋を出ると、廊下で一年生の女子たちがわいわいしていた。


 「大部屋! 超楽しそう」とのんが言っていた。

 「音無くんたちの部屋、どんな感じ」と柚木先輩が通りかかりに聞いた。まだ二年生の柚木先輩は、今より少し幼い顔をしていた。

 「六畳三人です」

 「それは大変ね」

 「大変です」

 「まあ、男子は少ないから仕方ないね」


 仕方ない、という言葉は、現実を受け入れるための呪文だ。仕方ないと言えば、不満は正式に取り下げられる。僕は「仕方ない」をやけに多く聞いた一日の始まりを、六畳の部屋の前の廊下で迎えた。


 昼食のあと、練習が始まった。


 最初の全体合奏が終わると、先輩たちが言った。

 「今日の午後は、パートごとに部屋で練習。明日の合奏に備えて、各自でさらうこと」


 パートごとに、部屋で練習。


 その言葉が、思わぬ問題を提起することになる。


 トランペットパートは、僕と林先輩の二人だった(村田先輩はチューバパートで別行動)。二人でどこでさらうか、という問題。林先輩が二年生の部屋を使う、と言った。林先輩の部屋、つまり二年生女子の部屋だ。


 「……入っていいんですか」


 僕が聞くと、林先輩は「何が問題だ」という顔をした。


 「部屋で練習するって話だろ。部屋は女子の部屋でも男子の部屋でも関係ない。練習の邪魔になるものは何もない」


 論理的だった。論理的すぎて、「でも」と言える余地が消えていた。


 二年生女子の部屋に、林先輩の後についてトランペットを持って入った。


 扉を開けた瞬間、香りが来た。


 シャンプーの香り。洗面用具の香り。制服ではなく私服や練習着に含まれる、人の生活の香り。女子六人分の荷物が広げられた部屋の空気は、音楽室とも教室とも、男子の部屋とも全然違っていた。


 「な、何か」と僕は言った。何を言いたかったのかは自分でもわからなかった。


 「何だ」と林先輩が言った。

 「いえ、なんでもないです」


 部屋の端に荷物が並んでいて、練習着のジャージが椅子にかけてあった。ポーチや洗面用具が棚の上に並んでいた。


 練習が始まった。

 音を出した。トランペットを吹いた。

 しかし、集中の五パーセントくらいが、常に「ここは女子の部屋だ」という認識に持っていかれた。


 陰キャであっても、思春期は思春期だ。思春期は、脳の一部を常時、関係のないことに使うように設計されている。これは進化の産物だから、僕個人に責任はない。そのはずだ。そう信じたい。


 「音無、集中しろ」と林先輩が言った。

 「はい」

 「音が散漫だ」

 「気をつけます」

 「何かあるか」

 「……いえ、何もないです」


 林先輩は鋭い。一年生の内面の散漫さを、音から読み取った。これが先輩の観察力というものだ。僕の動揺は、音に出ていた。音は、その人の内側を暴露する装置だ。これは一年後のソロで学ぶことだが、その片鱗は、この日の女子の部屋で既に経験していた。


 窓の外から、女子たちの笑い声が聞こえた。


 名前のつかない感情の残高が、合宿一日目にして、すでに増え始めていた。




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            (第二十八話へ続く)

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