第二十六話「海遊館、あるいは定期演奏会が終わった後の水の中について」
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第二十六話「海遊館、あるいは定期演奏会が終わった後の水の中について」
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水族館、という言葉の定義について考えてみよう。
水族館とは、本来は海や川にいるべき生き物を、ガラス越しに人間が観察するための施設である。魚は水の中にいる。人間は水の外にいる。両者の間にはガラスがある。ガラスは薄いが、隔絶は絶対的だ。魚の側から見れば、人間は水の外で揺らぐ影のようなものでしかないだろう。人間の側から見れば、魚は別の世界の住人だ。
近いが、届かない。
見えているが、触れない。
同じ空間にいるように見えて、実は違う空間にいる。
——それは、人間同士にも、よくあることだった。
奈央のオレンジ色のノート。あの中身を、僕はいまだに知らない。
隣で同じ電車に乗り、同じ音楽室で吹き、同じ駅で降りて、同じ物語を読んでいて、それでも、ノートの中身という水槽の向こうには届かない。
ガラスは薄い。しかし、ある。
*
定期演奏会が終わって、一週間が経った。
六月の第一週。
音楽室の空気が、先週とは別物になっていた。三年生がいない音楽室は、物理的な人口密度は大して変わらないのに、密度そのものが変わっていた。空気の重さが違う。声の響き方が違う。誰かが不在であることは、残された人間の音を変える。
柚木先輩のゆるふわの「はーい」がない。堀先輩の鋼鉄の「手を抜くな」がない。水瀬先輩の「音無くーん」がない。林先輩の「出せよ」がない。
——その不在は、思っていた以上に、うるさかった。
静けさがうるさい、というのはおかしな日本語だが、実際そうだった。ないはずの音を、耳が勝手に探してしまう。探しても見つからないから、より一層、ないことが強調される。
「なんか、広いよね」
のんが休憩時間にぽつりと言った。
「音楽室の話?」と奈央が聞いた。
「うん。」
「三年生抜けただけで、こんな変わるとは思わなかった」とあやのも言った。
部全体では三十人以上いるのに、その五人がいないだけで世界の輪郭が変わる。人間は人数ではなく、存在の重さで計られる。存在の重さを計る単位はまだ発明されていないが、あるとしたら、柚木先輩は鉄骨単位、堀先輩は鋼鉄単位、水瀬先輩は八重歯単位、林先輩は「出せよ」単位で計られるだろう。計り方がパーソナルすぎて学術的には通用しないが、部員間の共通認識としては十分通用した。
コンクールに向けた練習が始まっていた。七月の北摂地区大会がひとまずの目標だ。自由曲は去年と違う曲。課題曲も新しい。三年生が抜けた穴を、二年生が埋めなければならない。トランペットパートのリーダーは、自動的に僕に回ってきた。自動的に、というのは、他に選択肢がなかったからだ。二年生のトランペットは僕と、もう一人おとなしいタイプの女子しかいない。消去法だった。
——陰キャがパートリーダー。
言葉の組み合わせとして、成立していない気がした。しかし成立していないことにも、そのうち慣れるのだろう。去年までの僕は、自分が先輩になることも成立していないと思っていたが、成立してしまった。人生はしばしば、自分の予想より強引に進行する。
*
奈央からメッセージが来たのは、演奏会の翌日の夜だった。
『今度の日曜日、海遊館に行く約束忘れてないよね』
その一文だけ。絵文字もない。句点もない。しかし四月の約束が、一週間遅れで回収されようとしていた。
『もちろん』と返した。
即レスだった。即レスというのは、即答したいという感情が文字になってしまう現象だ。考える時間を挟まないで送ったことで、奈央にこちらの速度が伝わってしまった気がして、送った後で少しだけ後悔した。
『じゃあ日曜、十時に天保山集合で』
『了解』
その後のやりとりはなかった。
会話はそれで十分だった。僕と奈央のメッセージは昔からこういう形だ。用件しか書かない。絵文字は奈央は使わない。僕も使わない。もともと僕は絵文字を使うような人間ではないし、奈央も僕に合わせているのか、それとも元々使わないのか、判別できないままここまで来た。
日曜日、六月の最初の日曜日。
大阪メトロ中央線の大阪港駅で降りた。地上に出ると、海の匂いがした。塩の匂い。油の匂い。港の匂い。そこに、観光地特有のファーストフードの匂いが混じっている。
天保山の観覧車が見える場所に、奈央が立っていた。
白いブラウスに、デニムのスカート。ハーフアップの髪はいつもよりきれいに巻かれていた。制服以外の奈央を見るのは、去年の文化祭以来だった。正確には他にも何回か見ているはずだが、制服以外の奈央は毎回新鮮に見える。制服は人を均質化する装置で、私服は人を個別化する装置だ。装置としての効能が逆向きに働く。
「お待たせ」
「待ってない」
このやりとりは何度目だろう。もはや様式美だ。様式美というのは、内容が空洞化しているのに形だけ残っている儀式のことで、つまり僕と奈央の「お待たせ」「待ってない」は、もう中身のない合言葉になっていた。合言葉は、合言葉であることだけが意味を持つ。意味が意味の外にある。
「先に切符買っとこ」
「わかった」
*
海遊館は混んでいた。
日曜日だから当然だ。家族連れとカップルが多い。その中に高校二年の男女が二人で混じっている。客観的にはカップルに見えなくもないが、カップルに見えないように見せるための努力も、カップルに見えるように見せるための努力も、どちらもしていなかった。努力の不在によって成立する関係性というのが、世の中には一定数存在する。
「ジンベエザメ、見たいんだよね」と奈央が言った。
「見たことないの?」
「あるけど、もう一回見たい。何回見ても飽きない」
水槽のトンネルを歩いた。頭上をエイが泳いでいく。青い光が水面から揺れて、奈央の横顔に影を落としていた。
「音無は好きな魚いる?」と奈央が聞いた。
「特にいない」
「えー、つまんない」
「水族館に好きな魚がいないと楽しめないルールはないでしょ」
「ルールじゃないけど、あった方が楽しい」
「じゃあクラゲ」
「なんでクラゲ」
「脳がないのに生きてるから」
「……それが好きな理由?」
「考えなくていいって楽そうじゃない」
奈央が笑った。
「音無って考えすぎだもんね」
「自覚はある」
「自覚あるならやめればいいのに」
「やめられないから考えすぎなんだよ」
「それもそうか」
ジンベエザメの水槽の前で、しばらく立ち止まった。巨大な魚体がゆっくりと目の前を横切っていく。点々模様が、水の青さの中に散らばっていた。水槽の照明が暗いせいで、奈央の横顔が青い影の中に浮かび上がっていた。
「ジンベエザメって、プランクトン食べるんだよね」と奈央が言った。
「そうらしいね。あんな大きい体なのに」
「大きいのに、ちっちゃいの食べる。不思議」
「大きい生き物ほど、食べ物は小さいっていう法則があるらしいよ」
「クジラとかもそうだよね」
「うん。象も草しか食べないし」
「肉食動物って、中くらいの大きさまでで止まる感じ?」
「そうかも」
そんな雑談をしながら、巨大な魚を見上げていた。
雑談というのは、本題ではない話のことだ。しかし雑談ができる関係性というのは、本題だけの関係性より、ある意味で深い。本題がなくても会話が続けられるというのは、沈黙が怖くない関係性だということだから。
「ねえ音無」
「なに」
「定演、終わったね」
「終わったね」
「あたし、まだ終わった気しないんだけど」
「わかる。耳の奥で、まだ音が鳴ってる感じ」
「それそれ。鳴り止まない」
鳴り止まない音。
物理的には鳴っていないのに、心の中で鳴り続けている音。あの日のホールの残響が、一週間経ってもまだ僕たちの中にあった。
「水瀬先輩、大好きって言って泣いてたの、ずるいよね」と奈央が言った。
「ずるい?」
「だってあれ言われたら、みんな泣くじゃん」
「奈央は泣かなかったでしょ」
「ぎりぎりで我慢した。みんなの前だったし」
「僕も我慢した」
「意外。音無、泣きそうだった?」
「林先輩のくだりで、ちょっと」
奈央が意外そうな顔をした。
「音無って、あんまり泣かないイメージだけど」
「中にしまうタイプ」
「しまいすぎじゃない?」
「しまわないと溢れる」
「溢れたら出せばいいのに」
「出し方を知らない」
出し方を知らない。
これは嘘ではなかった。陰キャは感情の出力方法を体系的に学んでこなかった。入力ばかり増えて、出力が詰まっている。詰まった感情は、どこに行くのか。たぶん、トランペットの音になる。それ以外に出口がないから。
「音無の音に出てるよ」と奈央が言った。
「何が」
「音無がしまってる感情、全部」
「……そうかな」
「そうだよ。だからあたし、音無の音、好きなんだよ」
好きだよ、と奈央は平気で言う。
水瀬先輩の「好き」は広範で射程距離が読めない「好き」だったが、奈央の「好き」は射程距離がもっと狭い。狭いが、その分、当たると深く刺さる。奈央は音に対して「好き」と言った。僕に対して、ではない。しかし音は僕から出ているので、境界線は曖昧だった。曖昧なまま、聞き流すことにした。深追いするのが怖かったから。
それを「逃げた」と呼ぶなら、今日も逃げていた。
*
クラゲのコーナーに来た。
暗い部屋の中で、青い光と紫の光に照らされたクラゲたちが、ふわふわと浮いていた。脳がないのに生きている。というか、脳がないから、ただ浮いているだけだ。流れに身を任せて、食べ物が近づけば食べて、近づかなければ食べない。思考していないのに、生きている。
「音無の好きな魚」と奈央が指差した。
「魚じゃない。クラゲは魚類じゃないよ」
「細かい」
「細かくない。生物学的な事実」
「じゃあ音無の好きな生き物」
「好きって言ったのは冗談だったんだけど」
「撤回は認めません」
奈央はクラゲの水槽に顔を近づけて、しばらく見ていた。青い光が奈央の頬に反射していた。
「音無ってさ」
「なに」
「先輩になってから、ちょっと変わったよね」
「変わった?」
「なんていうか、前より、人と話すようになった」
「……そうかな」
「そうだよ。金城とか、萩原とか、白石とか。前だったら絶対話しかけなかった相手でしょ」
「話しかけられた側だけどね、あれは」
「話しかけられても逃げなかったじゃん。前の音無なら逃げてた」
前の音無なら逃げていた。
その指摘は正しかった。一年の時の僕は、話しかけられても「あ、うん」とだけ言って、目を合わせずに立ち去る人間だった。それが今は——完全に逃げなくなった、とは言えないが、以前より逃げない頻度が上がった。逃げ残ることを覚えた、と言ってもいい。
「奈央のおかげかも」
口が勝手に動いた。
止める間もなかった。
奈央がこちらを見た。
「え」
「奈央が、話しかけてくるから。話しかけられることに慣れた」
「……そういう意味」
「どういう意味だと思ったの」
「なんでもない」
奈央は水槽に向き直った。クラゲが一匹、ふわりと上昇していた。
奈央の横顔の温度が、一度、上がった気がした。僕の顔の温度も、たぶん一度上がっていた。二度の合計で二度上がった空気を、クラゲだけが涼しい顔で——いや、クラゲには顔がないから、涼しいかどうか判別不能だが——泳いでいた。
脳がないって楽だな、と改めて思った。
*
帰り道、水族館を出て、天保山マーケットプレースでたこ焼きを食べた。
大阪で水族館に行ってたこ焼きを食べるのは、定番すぎて逆に新鮮味がないが、定番には定番の安心感がある。安心感というのは、裏切られない予定調和のことだ。予定通りの味。予定通りの熱さ。口の中を火傷する予定まで含めて、予定通り。
「あふ、熱い」と奈央がたこ焼きを口の中で転がしていた。
「火傷した?」
「する。必ずする。毎回する」
「冷ましてから食べればいいのに」
「冷めたたこ焼きはたこ焼きじゃない」
「哲学だね」
「哲学じゃない。食いしん坊の言い訳」
奈央は自分のことを食いしん坊とは言わないが、時々言う。去年の文化祭のたこ焼きでも、同じように火傷していた。たぶん来年もしている。再来年もしている。人間の学習能力は、たこ焼きの前では機能しない。
電車に乗った。
地下鉄で梅田まで出て、阪急宝塚線に乗り換える。日曜日の夕方の電車は、行楽帰りの人たちで混んでいた。
奈央が鞄から文庫本を取り出した。星の王子さまだった。
「まだ読んでるんだ」
「二周目」
「早くない?」
「一周目は音無と並走するために読んでた。二周目は、自分のために読んでる」
並走するために読んでいた。
その表現が、いくつかの意味を持っていた気がしたが、解読する余裕がなかった。解読しようとすると、きっと複雑になる。複雑になったら、単純だった時の心地よさが失われる。今日はまだ、単純なままでいたかった。
「音無ね」奈央が文庫本を閉じて言った。「バラのところ、どう思った?」
「バラ?」
「王子さまが旅に出る前、バラに『行かないで』って言われないで、『もう行って』って言われるところ」
「ああ」
「あの場面、読んでて苦しかった」
「苦しい?」
「本当は行ってほしくないのに、行きなさいって言うの。言わないと王子さまが困るから、本心じゃない方を言う。そういうの、わかる気がして」
奈央の声が、一段低くなっていた。
「奈央、そういう経験あるの」
「ないよ。想像」
「想像で苦しくなるの?」
「想像でも苦しくなるよ。文学ってそういうものでしょ」
そういうものでしょ、と奈央は言った。
その言葉は正論だが、正論の裏に何かが隠れている気配があった。奈央が本番で吹いたバラの音——あの切なさ——を思い出した。想像だけで、あの音は出ない。想像の中に、どこかで体験が混じっている。
聞いてみたかった。
何か、体験したの? 誰かに「行きなさい」って言ったことがあるの? それとも、言われたことがあるの?
聞きたい、という衝動が喉まで来た。
しかし、聞かなかった。
聞かない、ということを、選んだ。
聞けば、奈央の水槽のガラスを割ることになる。そして僕には、割る権利がない。誰かの内面を覗く権利は、本人からの招待がない限り、発生しない。
——それは一つの、敗北だった。
しかし敗北には敗北の形がある。尊厳を保った敗北というものが、たぶん、ある。
代わりに、こう言った。
「奈央の音、よかったよ。本番のバラの音」
「……そう?」
「うん。切なさが出てた」
「切なさ、か」
奈央は文庫本の表紙を指でなぞった。
「音無の音も、よかった」
「ありがとう」
「孤独であることを、恥ずかしがってなかった」
あの定義を、奈央は覚えていた。
ゴールデンウィーク中の、練習の帰り道、駅に向かう途中で、奈央が空を見ながら言ったあの定義を。奈央はメモしなくていいと言ったが、自分自身はメモするまでもなく覚えていた。自分の言葉を、自分で覚えている。
「奈央の定義、本番で役に立った」
「それは良かった」
「ありがとう」
「いいよ、そんなの」
奈央は微笑んで、窓の外を見た。日が長くなっている。六月の夕方は、遅い時間まで明るい。
*
石橋駅に着いた。
奈央が立ち上がった。
「今日、楽しかった」
「僕も」
「ジンベエザメ、また見に行こうね」
「また?」
「何回見ても飽きないって言ったじゃん」
「……うん。また行こう」
「次は、夏休みかな」
「コンクール終わってからだね」
「じゃあ八月」
「八月に、また」
八月に、また。
予定が、未来に伸びた。未来に予定があるということは、そこまでは少なくとも関係が続いているという前提が、双方に共有されているということだ。前提の共有は、関係の一形態である。契約書はないが、口頭の契約はある。口頭の契約は法的拘束力を持たないが、感情的な拘束力は契約書より強い場合がある。
奈央が扉の前に立った。電車が止まった。扉が開いた。
「音無」
「なに」
「今日のこと、ちゃんと覚えとくね」
「うん。僕も」
「忘れないでね」
「忘れない」
前にも同じやりとりをした気がした。
演奏会の日の帰りの電車で。
しかし、同じやりとりを二度するのは、悪いことではない。むしろ、同じやりとりが繰り返されるということは、その言葉が儀式になっているということで、儀式は共同体の最小単位だった。二人の共同体。二人だけの儀式。
奈央が降りた。
扉が閉まった。
*
電車が動き出した。池田までは次の駅だ。
窓の外を見ながら、今日のことを反芻した。
海遊館の青い光。
ジンベエザメの点々模様。
クラゲの脳のなさ。
たこ焼きの火傷。
バラの「行きなさい」。
星の王子さまの二周目。
奈央の「孤独であることを恥ずかしがってなかった」。
八月の約束。
全部が、目に見えていた。
全部が、目に見えるものだった。
星の王子さまは、大切なものは目に見えないと言った。サン=テグジュペリは、見えないものにこそ本質があると書いた。しかし今日の僕は、目に見えるものに包まれていた。奈央の横顔も、笑顔も、文庫本の表紙も、全部、目に見えていた。
目に見えるものが、これほどに大切なのだとしたら——星の王子さまの命題は、やはり半分嘘なのかもしれない。
もしくは。
目に見える奈央の奥に、目に見えない奈央がいるのだとしたら——見える奈央が大切であり、見えない奈央も同じくらい大切なのだとしたら——両方が大切なのだ、ということになる。
両方が大切なら、両方に手を伸ばしたくなるのは、人間として自然な衝動だ。
しかし、見えない方に手を伸ばすには、見える方から招かれなければならない。招かれないまま伸ばした手は、ガラスにぶつかるか、水を掴むかのどちらかだ。
——我慢しよう、と思った。
奈央から招かれる日まで。
あるいは、奈央が自分からガラスを割って出てくる日まで。
その日が来るかどうかはわからないが、来るかもしれない、という可能性だけを支えに、今日の僕は敗北を選んだ。
名前のつかない感情の残高が、今日も増えた。
しかし今日の増え方は、少しだけ、性質が違った。
水槽の向こうに見えていたものが、通貨の材質になっていた。
いつか、この残高が、名前を手に入れる日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
その両方の可能性が、同じ重さで、胸の中にあった。
池田駅に着いた。
電車を降りた。改札を抜けて、駅を出た。空はまだ明るかった。六月の夕方は長い。明るさがいつもよりずっと長く続く季節に、僕たちは突入していた。
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(第二十七話へ続く)
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