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第二十五話「春の定期演奏会、あるいは音が終わった後に残るものについて」


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 第二十五話「春の定期演奏会、あるいは音が終わった後に残るものについて」

────────────────────────────────────────


 音は、鳴った瞬間から消え始めている。


 これは物理学の話だ。空気の振動として生まれた音は、発生した瞬間から減衰し、やがて沈黙に戻る。ホールの残響が長い場合でも、数秒もすれば音は消える。どれだけ美しい音であっても、どれだけ心を込めた音であっても、物理法則の前では平等に消滅する。


 しかし、耳に届いた音は——心に届いた音は——消えない。

 少なくとも、すぐには消えない。

 記憶の中で何度も鳴り直す。反響し続ける。ホールの残響よりもずっと長く、何年も、何十年も。


 音が終わった後に残るもの。

 それを確認するために、この日はあった。



         *



 五月最終日曜日。

 豊中市立文化芸術センター。


 朝八時に集合。本番は午後二時開演。六時間前から会場に入る。プロのコンサートならありえないスケジュールだが、高校の吹奏楽部には準備というものがある。楽器の搬入、椅子と譜面台の配置、音出し、リハーサル、着替え、最終確認。すべてを部員の手で行う。


 バスが校門前に止まっていた。楽器を積み込む。大きなものから順にトラックの荷台へ。ティンパニ、コントラバス、チューバ、ユーフォニアム。のんがスネアドラムを抱えて「重い」と言いながらトラックに滑り込ませた。あやのがクラリネットのケースを静かに胸に抱えた。


 七瀬が一年生を率いて、譜面台の積み込みを指揮していた。

 「一列に並んで、一台ずつ渡してください!」

 七瀬の声はよく通る。全国レベルのトランペット奏者は、声量も全国レベルだった。


 「透先輩、積み込み完了しました」

 「ありがとう」

 「今日、透先輩の音、客席で聴きますね」

 「うん」

 「絶対泣きます」

 「まだ聴いてないのに泣くって決めてるの」

 「だって透先輩の音、いつも泣きそうになるんです。本番はもっとすごいに決まってるから」


 七瀬の目が潤んでいた。本番前から泣くのは、のんだけかと思っていたが、七瀬もそのタイプだった。


 「泣くのは聴いてからにして」

 「はい。でも多分泣きます」

 「……好きにして」


 七瀬が「好きにします!」と元気よく言って、一年生の列に戻った。


 バスに乗り込んだ。

 奈央が隣に座った。自然に。何の相談もなく。去年なら「隣いい?」と聞かれていた気がするが、今年はもう聞かない。隣に座ることが、呼吸のように自然になっている。


 「緊張する?」と奈央が聞いた。

 「する」

 「珍しく正直だね」

 「本番前くらいは正直になる」

 「普段は正直じゃないの」

 「……普段も正直だけど、正直の範囲が狭い」

 「なにそれ」

 「全部は言えないってこと」

 「全部言ったらどうなるの」

 「……さあ。言ったことないからわからない」


 奈央は「ふーん」と言った。

 それ以上は追及しなかった。奈央は踏み込むが、踏み込みすぎない。


 バスが動き出した。豊中までは十五分ほど。窓の外を流れる五月の風景を見ながら、僕はスコアの最後のページを頭の中でなぞっていた。



         *



 ホールに着いた。


 搬入が始まった。一年生が中心になって楽器と機材を運び入れる。七瀬が先頭に立って動線を整理し、他の一年生に指示を出していた。二年生はステージの椅子配置を担当。三年生は最終確認と音出し。


 堀先輩がステージの端に立って、全体を見渡していた。腕を組んで、目を光らせて、問題がないか確認している。堀先輩の視線は、ホールの隅々まで届いている気がした。


 「堀先輩、椅子の間隔これでいいですか」

 僕がステージ上から声をかけた。


 堀先輩が客席からステージを見上げた。

 「トランペットとトロンボーンの間、もう少し開けろ。スライドがぶつかる」

 「了解です」

 「あと音無」

 「はい」

 「今日、頼んだぞ」


 堀先輩の「頼んだぞ」は、林先輩の「託す」と似ていた。三年生が二年生に何かを渡そうとしている。バトンのように。目に見えない、でも確かに存在するバトンを。


 小野すずが照明卓に座っていた。ホールのスタッフと最終打ち合わせをしている。照明プランのノートを広げて、タイミングを一つ一つ確認していた。


 「小野、照明大丈夫?」

 金城が声をかけた。

 「大丈夫。昨日までに全部確認した」

 「頼りになるわー。じゃああたしは振付の最終チェックしてくるね」


 金城がステージに上がって、マスキングテープで床に最終的な立ち位置のマーキングをしていた。一つ一つの位置を歩いて確認し、微調整している。


 白石美月がステージ袖で衣装の最終確認をしていた。第三部の衣装——えんじ色のネクタイと青いネクタイと緑のネクタイが、パートごとに仕分けされてハンガーにかかっている。


 「白石、ネクタイ全部揃ってる?」と萩原千夏が確認した。

 「うん。全員分ある。サイズも確認済み」

 「さすがアモーレ」

 「その呼び方やめて」

 「えー、かわいいのに」

 「かわいいけどやめて」


 白石は困った顔で笑った。清楚系美少女は、困った顔も清楚だった。


 十一時。音出しの時間。

 全員がステージに上がって、楽器を構えた。


 チューニング。B♭の音が全体から鳴る。少しずつ揃えていく。最初はバラバラだった音程が、一人一人の微調整によって、一つの響きに収束していく。四十人の息が合わさって、一つの和音になる瞬間。


 これだけは何度経験しても新しい。

 四十の個体が一つになる。それは音楽だけに許された奇跡だと、大袈裟でなく思う。


 音出しを終えて、昼食。

 楽屋でお弁当を食べた。緊張で食欲がない、という人間が半分くらいいた。のんは逆に食べすぎていた。


 「緊張すると食べちゃうタイプなの」とのんが言った。

 「太るよ」と萩原が言った。

 「演奏で消費するから大丈夫」

 「打楽器ってそんなにカロリー使うの?」

 「精神力で消費する」

 「それカロリーじゃない」


 のんと萩原のやりとりを、あやのが静かに見ていた。あやのはお弁当を半分だけ食べて、残りを包み直していた。


 奈央は隣で黙々と食べていた。

 「奈央は緊張してないの」と聞いた。

 「してるよ。でも食べないと吹けないから」

 「合理的だね」

 「合理的じゃなくて、怖がってるだけ。お腹空いてると余計怖くなるでしょ」

 「そういうものかな」

 「そういうもの。音無は食べなくていいの?」

 「……食べる」


 おにぎりを一つ食べた。母親が作ってくれたおにぎり。中身は梅。シンプルだが、胃に入ると少しだけ落ち着いた。


 水瀬先輩が来た。

 「音無くーん、緊張してる?」

 「してます」

 「大丈夫。あたしも緊張してるから」

 「先輩が緊張してると、余計不安になるんですけど」

 「あはは。でもこれが最後だからね、あたしにとっては」


 最後。

 水瀬先輩にとって、今日が最後のステージだ。


 「音無くん、あたしの音、覚えてってね」

 「覚えます」

 「うん。あたしも音無くんの音、覚えてく」


 水瀬先輩は八重歯を見せて笑った。

 最後なのに、笑っていた。笑えることが、水瀬先輩の強さだと思った。



         *



 午後二時。開演。


 客席が暗転した。

 一年生が照明を落とした。ステージだけが明るい。


 第一部。クラシックステージ。


 課題曲のマーチが始まった。

 明るくて、軽快で、力強い。去年の夏に汗だくで練習したこの曲が、一年の時を経て、今ここで鳴っている。去年と同じ曲なのに、去年とは違う音がしている。全員が一年分成長した音で吹いている。


 マーチが終わって、拍手。


 自由曲。

 こちらも去年のコンクール曲。しかし林先輩が言った通り、去年の再生産ではなかった。去年は「ミスなく吹くこと」が目標だった。今年は「何を伝えるか」が目標になっている。目標が変われば、同じ譜面でも出る音が変わる。


 ソロが来た。

 一箇所目。息を吸って、吹いた。

 ホールの空気が震えた。

 去年の自分には出せなかった音が出た。深くて、遠くて、光がある。


 二箇所目のソロ。

 さらに深く。肺の奥から、もっと奥から。


 音が客席に届いている感覚があった。届いているかどうかは聴こえないから確認できない。しかし身体が知っている。音が空間に受け入れられている感触がある。拒絶されていない。


 自由曲が終わった。大きな拍手。


 そして、「星の王子さま」。


 水瀬先輩のフルートソロで始まった。


 最初の一音が出た瞬間、ホールの空気が変わった。

 リハーサルよりも、練習よりも、はるかに澄んだ音だった。水瀬先輩の最後のステージ。その覚悟が、音に乗っていた。星空が見えた。比喩ではなく、本当に見えた気がした。暗いホールの天井の向こうに、星が。


 小野の照明が青に変わった。ステージ全体が青い光に包まれた。タイミングが完璧だった。小野は照明卓の向こうで、自分の全てを注いでいた。


 中盤の展開部。各楽器のリレー。

 白石のホルンが、ビジネスマンの星を冷たく描いた。練習では出なかった冷たさが、本番では出ていた。「演技だと思えばいい」という柚木先輩の助言が、本番で花開いていた。

 金城のサックスが、点灯夫の星を歌った。忠実で、孤独で、でも誇り高い音。金城の太い音色が、物語にぴったり合っていた。

 あやののクラリネットが、地理学者の星を描いた。知的で、静かで、しかし奥に情熱がある。あやのらしい音だった。


 奈央のトロンボーン。

 バラの場面。


 太くて、温かくて、少しだけ揺れている音。リハーサルの時と同じ揺れだった。しかし今日の揺れには、リハーサルにはなかったものが加わっていた。


 切なさだ。


 バラは王子さまを愛している。しかし素直になれない。わがままを言う。気まぐれを装う。本当は離れたくないのに、「行きなさい」と言ってしまう。


 その感情が——奈央の音に、出ていた。


 奈央がバラを理解している。バラの不器用な愛情を、奈央の音が語っている。


 ——なぜ奈央がバラの感情をこんなに理解できるのか。


 その疑問が一瞬浮かんで、すぐに消えた。今は演奏中だ。考えている場合ではない。


 クライマックス。


 トランペットの番だ。


 ピンスポットが当たった。白い光が、僕たちを照らした。


 息を吸った。

 深く。

 ホールの空気を、全部吸い込むように。


 目を開けた。客席は暗い。何も見えない。しかし——誰かがそこにいることは、わかる。奈央がステージの上にいることも、わかる。七瀬が客席のどこかで聴いていることも、わかる。林先輩が、水瀬先輩が、堀先輩が、柚木先輩が——みんながここにいる。


 孤独に、しかし気高く。


 吹いた。


 音が出た。

 今まで出したことのない音だった。


 孤独だった。中学まで一人だった。教室で一人、帰り道で一人、部屋で一人。その全ての孤独が、今、音になっている。


 しかし気高く。

 その孤独があったから、ここにいる。一人だった時間があったから、この人たちと出会えた。奈央と。のんと。あやのと。林先輩と。水瀬先輩と。七瀬と。全員と。


 孤独であることを、恥じない。

 それが気高さだと、奈央が教えてくれた。


 音がホールを満たした。

 天井まで昇って、降ってきた。星が降るように。


 ソロが終わった。

 全体合奏に戻る。エンディング。全員の音が重なっていく。フルートが星空を描き、トロンボーンがバラを歌い、クラリネットが風を吹かせ、サックスが大地を揺らし、打楽器が時を刻み——トランペットが、王子さまの帰還を告げる。


 最後の和音。


 全員の息が止まった。

 音が消えていく。ホールの残響が、ゆっくりと、ゆっくりと——


 沈黙。


 二秒。三秒。四秒。


 拍手が起きた。

 大きな拍手が。


 客席の照明が戻った。顔が見えた。拍手している人の顔が見えた。保護者の顔、卒業生の顔、知らない人の顔。全員が拍手していた。


 柚木先輩が立ち上がった。バンド全体が立ち上がった。礼をした。


 第一部が終わった。



         *



 第二部。演劇「音楽室の幽霊」。


 三年生が演じ、二年生が演奏隊として伴奏した。


 柚木先輩の幽霊が、音楽室に現れる。ゆるふわの立ち姿が、照明の中で本当に浮いているように見えた。小野の照明技術だ。柚木先輩の足元だけを少し暗くして、地面から浮いている印象を作っていた。


 幽霊は声が出せない。だから楽器で語りかける。柚木先輩のクラリネットが、台詞のように響いた。一音一音に意味があった。言葉よりも雄弁な音だった。


 後輩役は堀先輩と水瀬先輩が演じた。二人とも演技は素人だが、感情は本物だった。特に、幽霊の正体に気づくシーンで、水瀬先輩が「先輩、ですか」と言った時の声の震えは、演技ではなかった。


 二年生の演奏隊は、場面転換の音楽を担当した。短いフレーズを、場面に合わせて演奏する。僕はトランペットで悲しみのシーンの旋律を吹いた。奈央はトロンボーンで再会のシーンのベースラインを支えた。


 最終シーン。

 幽霊が「もう大丈夫だね」と楽器で語りかけて——消える。照明がゆっくりと落ちていく。最後に残るのは、音楽室のピアノだけ。ピアノの上に、一本のクラリネットが置いてある。


 暗転。


 客席から、鼻をすする音が聞こえた。

 のんは演奏しながら泣いていた。涙が頬を流れていたが、スティックを持つ手は止まらなかった。のんの涙は無限に出るらしい。

 あやのは泣いていなかった。しかし目が赤かった。


 僕は泣かなかった。泣かなかったが、胸の中で何かが激しく動いていた。喪失の予感が、もう予感ではなくなりつつあった。



         *



 第三部。ポップスステージ。


 衣装に着替えた。制服の上からえんじ色のネクタイを締めた。白石が作ったネクタイだ。締めてみると、サイズがぴったりだった。白石は全員の首回りを測って作ったらしい。その几帳面さに、静かに感動した。


 金城が振付の最終確認をしていた。

 「いい? 最初のAメロで前に出て、サビで左右に開く。トランペットは右、サックスは左。間奏で中央に戻る。いけるね?」

 「いける」と全員が答えた。

 「声ちっちゃい! もう一回!」

 「いける!」


 金城の声は、堀先輩に匹敵する迫力があった。ギャルの声量は侮れない。


 ステージに出た。

 照明が変わった。第一部の青と白から、第三部は赤と黄色と紫。小野が色ものを入れた。ステージが一気に華やかになった。


 一曲目が始まった。アップテンポのポップス。楽器を持って動く。金城の振付通りに。ステップを踏む。一歩、二歩。マスキングテープの立ち位置を確認しながら。


 奈央がトロンボーンを持って隣を移動した。スライドがぶつからないように、二十センチの間隔を保ちながら。リハーサルで何度も練習した動きだ。

 一瞬、目が合った。

 奈央が笑った。演奏しながら、目だけで笑った。文化祭の時と同じ——いや、あの時よりもっと楽しそうな笑い方だった。


 二曲目。バラード。動きは少ない。立ち位置を固定して、じっくり演奏する。萩原のユーフォニアムが旋律を歌った。太くて温かい音。萩原の気の強さの奥にある、柔らかさが出ていた。


 三曲目。最後の曲。アンコール用に用意していたが、客席の拍手が大きかったので、そのまま演奏した。全員が立ち上がって、楽器を掲げて、一番最後の音を客席に向かって放った。


 終わった。

 全演奏が終わった。


 拍手。

 スタンディングオベーション——とまではいかないが、前列の何人かが立ち上がっていた。


 柚木先輩がマイクを持った。


 「今日で、三年生は引退します」


 声が震えていた。ゆるふわの声が、また揺れていた。


 「一年間——いえ、三年間、ありがとうございました。後輩のみんなに、この部を託します。あたしたちの音は今日で終わりだけど、みんなの音はこれからも続いていく。だから——大丈夫」


 大丈夫。

 陰キャの口癖が、部長の口から出た。しかしこの「大丈夫」は、いつもの「大丈夫」とは重さが違った。三年間の全てを込めた「大丈夫」だった。


 堀先輩が前に出た。マイクを受け取った。


 「言いたいことは柚木が全部言った。あたしからは一つだけ」


 堀先輩はまっすぐ前を見た。


 「手を抜くなよ」


 それだけ言って、マイクを戻した。

 短い。しかし堀先輩らしかった。鋼鉄の責任感が、最後の一言に凝縮されていた。


 水瀬先輩はマイクの前で三秒間黙った。何かを言おうとして、言葉が出なかった。目が真っ赤だった。


 「……みんなのこと、大好き」


 それだけ言って、泣いた。

 マイクに泣き声が入った。客席にも聞こえた。客席の保護者も泣いていた。


 林先輩が、マイクの前に立った。


 「俺は不器用だから、うまいこと言えない」


 言えない、と言いながら、林先輩は僕の方を見た。


 「でも、後輩に恵まれた。音無、お前に会えてよかった。お前とぶつかれてよかった。お前の音が好きだ」


 全校放送で「好き」を言われた。

 いや、全校放送ではない。ホールのマイクだ。しかし客席には数百人がいる。


 恥ずかしかった。

 恥ずかしかったが、嬉しかった。嬉しさの方が勝った。


 三年生が花束を受け取った。一年生が用意した花束だ。七瀬が代表で渡していた。七瀬は泣いていた。入部してまだ二ヶ月の七瀬が泣いていた。


 「林先輩——先輩たちの音、あたしが受け継ぎます」


 七瀬は林先輩に向かってそう言った。林先輩は少し驚いた顔をして、それから笑った。


 「頼んだぞ」と林先輩が言った。

 さっきまで僕に言っていた言葉と同じ言葉を、七瀬にも言った。バトンが、また一つ渡された。



         *



 演奏会が終わった。

 片付けをして、楽器を積み込んで、バスに乗って学校に戻った。


 学校の音楽室で、最後のミーティングがあった。

 顧問の先生が「よくやった」と言った。短い言葉だったが、先生の目も赤かった。


 三年生が一人ずつ挨拶をして、教室を出ていった。

 柚木先輩が最後だった。


 「じゃあ、あとはよろしくね」


 ゆるふわの声。最後まで、ゆるふわだった。

 しかしその声が消えた後の音楽室は、今までより少し広く感じた。


 三年生がいなくなった。


 喪失は、失う前から始まっていた。

 しかし本当の喪失は、失った後に来る。今がその「後」だった。


 音楽室に、二年生と一年生だけが残った。

 誰も何も言わなかった。しばらく、沈黙があった。


 のんが泣いていた。もう何回目かわからないくらい泣いていた。あやのがのんの背中をさすっていた。萩原が目を赤くしながらも「泣いてない」と主張していた。金城が珍しく黙っていた。白石が静かに涙を拭いていた。小野がノートを膝に抱えて俯いていた。


 七瀬が一年生をまとめて、片付けの続きをしていた。泣きながら椅子を運んでいた。器用な泣き方だった。


 奈央は、隣に座っていた。

 泣いてはいなかった。しかし、手が少しだけ震えていた。


 「大丈夫?」と聞いた。

 「大丈夫。でも、もうちょっとだけここにいたい」

 「いよう」

 「うん」


 二人で、誰もいなくなった音楽室の椅子に座っていた。

 窓の外は夕焼けだった。五月の夕焼けは長い。オレンジ色の光が音楽室に差し込んで、床に長い影を作っていた。


 「音無のメロディー、すごかった」

 奈央が言った。

 「ありがとう」

 「泣きそうになった。演奏中なのに」

 「泣いてたら音出なくなるよ。あやのが言ってた通り」

 「泣かなかったよ。ぎりぎりで。でも——」


 奈央がこちらを見た。


 「あの音の中に、音無の全部が入ってた気がした」


 音無の全部。


 「全部は入ってないよ」

 「入ってたよ。あたしにはわかった」

 「……奈央にわかるなら、入ってたのかもしれない」

 「なにそれ、変な言い方」

 「奈央の耳を信頼してるってこと」


 奈央が一瞬黙って、それから少しだけ笑った。


 「音無って、たまにすごいこと言うよね」

 「前にも同じこと言ってた」

 「何回でも言うよ。事実だから」


 事実を言ってるだけ。

 それは僕の台詞だった。奈央がそれを返してきた。


 音楽室の中に、夕焼けの光だけが残っていた。

 楽器はもうしまわれている。椅子は元の位置に戻されている。音楽室は元の音楽室に戻っている。しかし、さっきまでここにあった音——三年生の音——は、もうどこにもない。


 ない、けれど——ある。

 奈央が言った通り、先輩たちの音は、僕たちの中に残っている。記憶の中で鳴り続けている。消えない残響として。


 「帰ろうか」と奈央が言った。

 「うん」


 二人で音楽室を出た。廊下を歩いた。夕焼けの中を歩いた。


 校門を出て、駅まで歩いた。いつもの道。いつもの帰り道。


 電車に乗った。

 奈央は文庫本を開かなかった。窓の外を見ていた。


 「音無」

 「なに」

 「来年は、あたしたちの番だね」


 来年は、あたしたちの番。

 三年生になって、最後の定期演奏会をやって、引退する。そういう意味だ。


 「そうだね」

 「あたしたちの音楽室の幽霊、だれがやるんだろう」

 「気が早い」

 「気が早くないよ。一年なんてすぐだよ」


 一年なんてすぐ。

 去年の四月から今日まで、確かにすぐだった。あっという間だった。その「あっという間」の中に、どれだけのものが詰まっていたか。名前のつかない感情がどれだけ積み重なったか。


 石橋駅に着いた。

 奈央が立ち上がった。


 「音無」

 「なに」

 「今日の演奏会、一生忘れない」

 「僕も」

 「忘れないでね」

 「忘れない」


 奈央が少しだけ微笑んで、降りた。

 扉が閉まった。


 電車が動き出した。

 池田までの数分間、窓の外の夕焼けを見ながら、考えた。


 音は鳴った瞬間から消え始める。物理法則の前では、どんな音も平等に消滅する。


 しかし——心に届いた音は、消えない。

 林先輩の「好きだ」は消えない。水瀬先輩の「大好き」は消えない。柚木先輩の「大丈夫」は消えない。堀先輩の「手を抜くなよ」は消えない。


 そして、奈央の音——バラの切なさを歌ったあの音は、たぶん一生消えない。


 名前のつかない感情の残高が、今日、一気に膨らんだ。

 しかし今日は、残高の重さが怖くなかった。

 重くていい、と思った。

 この重さは、大切なものの重さだから。


 大切なものは、目に見えない。

 でも、聴こえる。

 心の中で、ずっと鳴っている。


 高校二年の春が、こうして過ぎていった。

 先輩たちが去り、僕たちの季節が始まった。


 名前のつかない感情は、まだ名前をつけてもらえないまま——でも確かに、ここにあった。



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            (第二十六話へ続く)

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