第二十四話「最後のリハーサル、あるいは終わる前に始まる喪失について」
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第二十四話「最後のリハーサル、あるいは終わる前に始まる喪失について」
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喪失は、失った後に始まるものだと思っていた。
人がいなくなってから寂しくなる。物が壊れてから惜しくなる。時間が過ぎてから懐かしくなる。失う→喪失、という順番が自然だと、ずっと思っていた。
しかし実際には、喪失は失う前から始まる。
三年生がまだここにいるのに、もういなくなることが確定している。その確定が、まだ一緒にいる時間の中に、影を落とす。いなくなった後の空白を、いなくなる前に想像してしまう。想像した瞬間に、喪失は始まっている。
失う前に失い始める。
これが、定期演奏会の一週間前に、僕が学んだことだった。
*
五月の第四週。
本番まで一週間を切った。
通しリハーサルが行われた。音楽室ではなく、本番会場の豊中市立文化芸術センターで。
ホールに入った瞬間の空気が違う。音楽室とは残響が全然違う。天井が高い。壁の反射が柔らかい。出した音が、ふわりと広がって、ゆっくり消えていく。
「やっぱりホールはいいね」と柚木先輩が言った。
「緊張する」と奈央が言った。
「緊張してない人いないでしょ」と林先輩が言った。
全員が椅子について、チューニングをした。
小野が照明卓に座っている。ホールのスタッフと一緒に、照明の確認をしている。小野の横には一年生が二人ついていて、指示を受けてケーブルを這わせていた。
七瀬は客席で見学していた。一人で座って、ステージを見上げていた。その姿が少し寂しそうに見えたのは、たぶん、演奏したいのに演奏できない悔しさが滲んでいたからだ。
通しリハーサルが始まった。
第一部。
課題曲のマーチ。去年より確実に成長している手応えがあった。音の厚みが違う。一年間の蓄積が、音に出ている。
自由曲。ソロを吹いた。去年のコンクールと同じソロ。しかし去年とは違う音が出た。去年の僕は「うまく吹くこと」を考えていた。今年の僕は「何を届けるか」を考えている。一年で変わったのは、たぶんそこだ。
「星の王子さま」。
冒頭、水瀬先輩のフルートソロが、ホールの空気を変えた。音楽室で聴くのとは別次元の響きだった。音が天井に昇って、降ってくる。星が降るように。
中盤の展開部で、各楽器がリレーする。白石のホルン。金城のサックス。あやののクラリネット。奈央のトロンボーン。それぞれが物語の一場面を音で語る。
奈央のトロンボーンは、バラの花を描く場面だった。王子さまが愛したバラ。気まぐれで、わがままで、でも本当は王子さまを愛していたバラ。奈央の音が、そのバラの感情を表現していた。太くて、温かくて、少しだけ不安定な音。完璧に安定した音より、少し揺れている方が、感情に近い。
——奈央の音に、心が揺れた。
比喩ではなく、物理的に胸の中が揺れた。
クライマックス。トランペットのメロディー。
僕の番だ。
息を吸った。
ホールの空気を肺に入れた。
目を閉じた——のは一瞬だけ。すぐに開けた。見えるものを見ながら吹く。客席は暗い。ステージの光だけが世界だ。小野がしっかり叩き込んだ一年生が操作するピンスポットが、僕たちを照らしていた。
吹いた。
孤独に、しかし気高く。
孤独は知っている。
中学まで一人だった。教室で一人、帰り道で一人、部屋で一人。その孤独の蓄積が、今、音になっている。
しかし気高く。
孤独であることを恥じない。奈央の定義だ。恥ずかしがらないこと。一人だった時間を否定しない。一人だったからこそ、この音が出せる。
音が、ホールの空気を震わせた。
響いた。
トランペットのメロディーが終わって、次のフレーズにうつった。エンディングに向かって音が重なっていく。フルートが星空を描き、トロンボーンがバラを歌い、トランペットが王子さまの帰還を告げる。
最後の和音が鳴った。
余韻が、ホールの中をゆっくりと漂った。
沈黙。
「……よし」
顧問の先生が、一言だけ言った。
その一言に込められた意味を、全員が理解していた。
柚木先輩が立ち上がった。
楽器を持ったまま、振り返った。全員の顔を見渡した。
泣いてはいなかった。でも目が潤んでいた。
「みんな、ありがとう。本番もこの音で」
声が震えていた。ゆるふわの声が、初めて揺れていた。
堀先輩が隣で腕を組んだまま、天井を見ていた。泣くのを我慢している顔だった。堀先輩が泣くのは、たぶん本番まで取っておくのだろう。
水瀬先輩がこちらに来た。
「音無くん、よかったよ」
「ありがとうございます」
「去年より全然いい。何が変わったの?」
「……奈央に、いいことを教えてもらったんです」
「石山さんに?」
「はい」
「そっか」
水瀬先輩はにっこり笑った。
「石山さんの力は大きいね」
「……かもしれないです」
「かもしれない、じゃなくて、そうだよ」
水瀬先輩の言葉は、いつも射程が長い。
林先輩が来た。
「音無」
「はい」
「メロディーライン、合格だ」
「ありがとうございます」
「来週の本番、俺の分も吹け」
「林先輩の分?」
「俺はサード、メロディーラインはお前に託した。だから、俺の分も含めて吹いてくれ」
林先輩の目が真剣だった。
一年前、アンサンブルで意見がぶつかった先輩。あの時は「お前の解釈は違う」と言った先輩が、今は「お前に託す」と言っている。
「……吹きます。林先輩の分も」
「よし。声は相変わらず小さいけど、目はいい」
林先輩は笑って、肩を叩いた。その手の重さを、しばらく忘れられなかった。
*
通しリハーサルが終わって、片付けをして、帰路。
のんとあやのは一年生の指導に残っていた。電車には僕と奈央の二人だった。
奈央は疲れた顔をしていたが、目はまだ興奮していた。
「今日の通し、よかったね」
「よかった」
「音無のメロディー、鳥肌立った」
「本当に?」
「嘘言ってどうすんの。鳥肌は自分の意思で立たないでしょ」
「それはそう」
「だからそれはそう。あと——」
奈央は少し間を置いた。
「あたしのトロンボーン、どうだった」
「バラの場面?」
「うん」
「よかった。すごくよかった。音が揺れてるのが、逆によかった」
「揺れてた?」
「うん。完璧に安定してるより、少し揺れてる方が、感情に近い気がした」
「……揺れてたのは、緊張してたからなんだけど」
「それでも。結果的に、あの揺れがバラの感情になってた」
奈央が黙った。
しばらくして、「ありがとう」と言った。
小さな声だった。
「奈央にしては珍しく小声だね」
「うるさい」
「それはいつも通りの音量」
「……音無って、たまに意地悪だよね」
「意地悪じゃない。事実を——」
「事実を言ってるだけ、でしょ。知ってる」
いつものやりとり。いつもの呼吸。しかし今日は、いつもの中に、少しだけ違う温度があった。通しリハーサルの余韻だろうか。本番が近い緊張だろうか。あるいは——
「ねえ音無」
「なに」
「先輩たち、いなくなるんだね」
「うん」
「柚木先輩も、堀先輩も、水瀬先輩も、林先輩も」
「うん」
「寂しいね」
寂しいね。
奈央がそう言った。
「寂しいね」と僕も返した。
奈央に合わせたのではない。本当に寂しかったのだ。
林先輩がいなくなる。一年間、ぶつかって、認め合って、信頼を積み重ねた先輩が。
水瀬先輩がいなくなる。意味もなくお茶をくれて、「好き」を連発して、笑顔で見守ってくれた先輩が。
堀先輩がいなくなる。怖くて、厳しくて、でもリップクリームを持ってきてくれた先輩が。
柚木先輩がいなくなる。ゆるふわの鉄骨が、いなくなる。
喪失は失う前から始まる。
今、まさに始まっている。
「でもさ」と奈央が言った。
「先輩たちの音は、あたしたちの中に残るよね」
先輩たちの音は、あたしたちの中に残る。
それは——読み終わった本の内容が、読者の中に残るのと同じだ。本は本棚に戻るが、物語は読者の中に生き続ける。
「残るよ」と僕は言った。
石橋駅に着いた。
奈央が立ち上がった。
「音無」
「なに」
「本番、最高の演奏しようね」
「しよう」
「タメ口でちゃんと言えた」
奈央が笑った。
いつもの笑い方だった。でもいつもの中に、ほんの少しだけ、泣きそうな成分が混ざっていた。
奈央が降りた。
扉が閉まった。
池田までの数分間、窓の外を見ながら考えた。
名前のつかない感情の残高が、膨大になっている。しかし今日感じた「寂しい」には、ちゃんと名前があった。寂しい、だ。名前がある感情は、名前がない感情より、少しだけ扱いやすい。
本番まで、あと六日。
あと六日で、何かが終わる。
終わった後に、何が始まるかは——まだわからない。
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(第二十五話へ続く)
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