第二十三話「衣装と振付と照明と、ステージの裏側にいる人間たちについて」
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第二十三話「衣装と振付と照明と、ステージの裏側にいる人間たちについて」
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ステージには裏側がある。
当たり前のことだ。しかし客席から見ている限り、裏側は見えない。照明が当たっているのは表だけだ。衣装を誰が作ったか、振付を誰が考えたか、照明をどのタイミングで切り替えるか——そういった裏方の仕事は、完璧であればあるほど、存在を意識されない。
見えないところで支えている人間がいる。
大切なものは目に見えない、というのは、こういうことでもあるのかもしれない。
五月の第二週から第三週にかけて、裏方の準備が一気に加速した。
*
衣装係は、放課後の被服室を占拠していた。
白石美月が中心になって、第三部ポップスステージの衣装を製作していた。全員分ではない。全員分は時間的にも予算的にも不可能だ。基本は制服ベースで、そこにアクセントとなるアイテムを加える方式。ネクタイの色を揃える、スカーフを巻く、というレベルの話だが、白石は細部にこだわった。
「ネクタイの色、パートごとに変えない?」
白石が提案した。見本のリボンを何色か持ってきていた。
「金管が赤、木管が青、打楽器が緑。三部構成に合わせて三色」
「いいじゃん!」と金城が反応した。
「でも赤って目立ちすぎない?」と小野すずが小さな声で言った。
小野は照明係だが、衣装の打ち合わせにも参加していた。「照明と衣装の色が喧嘩しないか確認したいので」と言っていたが、実際には白石と一緒にいたかっただけかもしれない。小野と白石は一年の時からパート練習が一緒で、仲がいい。あやのと小野も仲が良く、木管の三人——あやの、白石、小野——は昼休みに一緒にいることが多かったらしい。僕が知らなかっただけだ。
「赤が目立つなら、えんじ色にする?」と白石が言った。
「えんじいいね。かっこいいし」と金城。
「あたしえんじ好き」とあやのが小さく言った。
あやのが好みを主張するのは珍しい。
衣装の話し合いは、放課後の被服室で連日続いた。萩原千夏も手伝いに来ていた。「両方やる」と宣言した通り、練習もこなしつつ衣装も手伝っている。ミシンの扱いは白石に劣るが、手縫いの丁寧さでは負けていなかった。
「萩原って意外と器用だよね」と白石が言った。
「意外ってなに」
「いや、楽器の印象が強いから」
「楽器も手仕事でしょ。指先の繊細さは同じ」
萩原のその返しに、白石が「確かに」と笑った。
衣装係の周辺で、人間関係の編み目が少しずつ見えてきた。
一年生も手伝いに来ていた。七瀬あおいも含めて、数人の一年生が糸の始末やアイロンがけを担当していた。七瀬は不器用だった。全国レベルのトランペット奏者は、針と糸の前では普通の高校一年生だった。
「透先輩、糸が絡まりました」
「自分で解いて」
「解けないんです」
「……貸して」
糸を解いてやりながら、妙な気持ちになった。楽器では僕より遥かに上手い七瀬が、裁縫では僕を頼っている。人間の能力は均等には配分されない。手袋が片方だけ失くなるように、才能も偏在する。
「透先輩って優しいですね」
「糸解いただけだけど」
「それが優しいんです」
七瀬がにっこり笑った。
視界の端で、奈央がこちらを見ているのが見えた。
*
振付係は体育館を使っていた。
金城凛が中心になって、第三部ポップスステージの動きを作っている。ポップスステージでは演奏しながら動く。マーチングほど本格的ではないが、立ち位置の移動、体の向きの変換、簡単なステップがある。楽器を持ちながら動けるかどうかは、楽器によって制約が違う。
「トランペットとサックスは動きやすい。片手で持てるから」
金城がホワイトボードに動線を書きながら説明した。
「クラリネットとフルートは両手使うから、移動は歩きだけ。トロンボーンはスライドがあるから、隣との間隔に注意。ユーフォとチューバは重いから基本据え置き。打楽器は動けない」
「えー、打楽器だけ動けないのー?」とのんが不満そうに言った。
「物理的に無理でしょ。ティンパニ持って歩けないよ」
「じゃあスティック振り回すとかは?」
「……検討する」
金城が真面目にメモを取った。
振付の練習は、合奏練習の後に行われた。楽器を持ったまま動く。最初はぎこちなかったが、回数を重ねるにつれて馴染んでいった。
奈央がトロンボーンを持ちながらステップの練習をしていた。トロンボーンはスライドが長いから、動くと隣の人間にぶつかる。実際、二回ぶつけていた。
「ごめん」と奈央が隣のサックス奏者に謝った。
「大丈夫ー」と金城が笑った。金城もサックスだから、奈央の隣にいたのだ。「石山のスライド危ないから、もう十センチ離れよう」
「十センチでいいの?」と奈央が心配そうに言った。
「二十にする?」
「二十にして」
「了解。二十センチ、マスキングテープで床に印つけるね」
金城は細かいところまで手を抜かなかった。床にマスキングテープで立ち位置を示し、一人一人の動きを確認し、ぶつかりそうな場所を調整した。
「金城って、すごいね」と奈央が帰り道で言った。
「振付?」
「うん。ああいうの、音無はできる?」
「無理。振付のセンスはゼロだと思う」
「あたしもゼロ。金城は百くらいあるよね」
「百はどういう単位」
「金城単位」
「それは金城にしか使えない単位じゃん」
「だから金城がすごいって話でしょ」
理屈は合っているのか合っていないのかわからないが、金城がすごいという結論には同意だった。
*
照明係は、ホールの下見に行った。
本番会場の豊中市立文化芸術センターに、放課後、照明の打ち合わせに行く。小野すずが照明係のリーダーだった。小野は普段は存在感が薄いが、照明に関しては別人のように饒舌になった。
「第一部はクラシックだから、基本は白とアンバーのウォッシュ。曲の展開に合わせてゆっくり変化させる。星の王子さまは青を基調にして、ソロの時だけピンスポットを入れる」
ピンスポット。一部だけを照らす光。
それが僕たちのメロディーラインの時に使われる。
「音無くんのメロディー、ちゃんと照明当てるからね」と小野が静かに言った。
「第二部の演劇は、シーンごとに照明変える。明転暗転のタイミングは台本に合わせて」
「第三部は?」
「ポップスは派手に。色ものも使う。金城の振付と合わせて、動きに照明を追わせる」
小野がノートに書いた照明プランを見せてくれた。細かい。タイミングが秒単位で書いてある。小さな字でびっしり埋まったノートを見て、小野すずという人間の内面の濃度を思い知った。
静かな人間は、静かなだけであって、空っぽではない。
むしろ静かな人間ほど、中に膨大なものを抱えている。
帰りの電車で、そのことを奈央に話した。
「小野さんの照明プラン、すごかった」
「へえ。小野さんって、あやのと仲いい子だよね」
「うん。あやのタイプというか、静かだけど中身が濃い」
「音無もそのタイプでしょ」
「僕はそこまで中身が濃くないと思うけど」
「そういうこと言うところが、そのタイプなんだよ」
奈央は時々、僕自身より僕のことをよく知っている言葉を放つ。
*
第二部の演劇は、三年生が脚本を書いた。
柚木先輩が原案を出し、堀先輩が構成を組み、水瀬先輩が台詞を書いた。三人の合作だ。
内容は、「音楽室の幽霊」という短い劇だった。
卒業した先輩の幽霊が音楽室に戻ってきて、現役の後輩たちの演奏を聴く。幽霊は声が出せないから、楽器で語りかける。後輩たちは最初は怖がるが、やがて幽霊の正体に気づき、一緒に合奏する。最後に幽霊は「もう大丈夫だね」と言い残して消える——という物語。
「これ、めちゃくちゃ泣かせにきてるじゃん」とのんが台本を読んで言った。
「そりゃそうでしょ。引退ステージだし」と金城が言った。
「わかってるけど、泣くわ。あたし絶対泣くわ」
「演奏中に泣いたら音出なくなるよ」とあやのが静かに言った。
「……がんばる」
演劇のリハーサルが始まった。
三年生が演じ、二年生が演奏隊として伴奏する。
幽霊役は柚木先輩だった。
ゆるふわの外見が、幽霊役には意外と合っていた。ふわふわしているから、現実感がない。浮いている感じがする。それが幽霊のリアリティになっている。
「ここで柚木が楽器を構えるから、二年生は合奏の頭を合わせて」と堀先輩が演出をつけた。堀先輩は演出も兼ねていた。「音は柚木が出した瞬間に合流する。遅れるな」
「柚木先輩の音、聴こえるかな」と僕は隣の奈央に小声で聞いた。
「聴こえるよ。クラリネットだから目立たないけど、柚木先輩の音は芯があるから」
芯がある。
柚木先輩のクラリネットは、見た目のゆるふわとは裏腹に、真っ直ぐな音がする。迷いがない音。部長としての意志が、そのまま音になっている。
リハーサルで幽霊が消えるシーンを通した時、のんが早くも泣いていた。
「まだ本番じゃないよ」と萩原が呆れた。
「だって」とのんが涙を拭きながら言った。「先輩たち、本当にいなくなるんだなって思ったら」
本当にいなくなる。
この定期演奏会が終わったら、三年生は引退する。柚木先輩も、堀先輩も、水瀬先輩も、林先輩も——もう一緒に演奏することはない。
「のん、今泣いたら本番で涙残ってないよ」とあやのが言った。
「涙は無限に出るから大丈夫」
「そういう問題じゃないと思う」
あやのとのんのやりとりは、いつも通りだった。いつも通りの中に、少しだけ湿った空気が混じっていた。
*
五月の第三週。
すべてが同時進行で動いていた。
朝練で第一部の合奏。放課後の前半で第二部のリハーサル。後半で第三部の振付練習。その合間に衣装の仕上げ、照明の確認、パンフレットの校正。一年生は椅子の搬入出、譜面台の準備、お茶出し。
七瀬あおいは、一年生のリーダー的存在になりつつあった。
楽器の才能は関係なく、持ち前の真っ直ぐさと行動力で、一年生をまとめていた。椅子並べの効率化を提案し、搬入の動線を図に描き、上級生に的確に報告する。全国レベルのトランペット奏者が、椅子を並べている。本来の力が発揮されるのは夏のコンクール以降だが、今はこの役割を全力でこなしていた。
「透先輩、荷物運び終わりました」
「ありがとう」
「他に何かありますか」
「今のところない。休んでいいよ」
「じゃあ見学していいですか。合奏」
「もちろん」
七瀬は合奏を一日も欠かさず見学していた。僕のメロディーを聴くたびに、何かを自分のノートにメモしていた。何を書いているのかは聞かなかった。聞かなかったのは——奈央のオレンジ色のノートと同じ理由だ。人のノートを読もうとしてはいけない。学習済みだ。
ある日の練習後、水瀬先輩が僕のところに来た。
「音無くん、あの一年生の子、七瀬ちゃんだっけ」
「はい」
「あの子、音無くんのこと好きなんじゃない?」
ストレートだった。水瀬先輩は、好きという言葉を遠慮なく使う人間だ。
「そんなことないですよ」
「えー、あの目は好きな人を見る目だよ。あたしにはわかる」
「先輩の主観じゃないですか」
「主観は大事だよ。客観だけじゃ見えないものがあるから」
大切なものは目に見えない。
しかし主観なら見える——と、水瀬先輩は言いたいのだろうか。
「でも音無くんは、別の子が好きだよね」
「え」
「あたしには見えてるよ。ずっと前から」
水瀬先輩はにっこり笑って、行ってしまった。
何が見えているのか。何がずっと前から見えているのか。聞く勇気はなかった。聞いたら、自分でも認めていないものを認めなければならなくなる気がしたから。
その夜、自室で星の王子さまのスコアを広げながら、ソロの部分をさらった。
息を吸って、吹いた。マウスピースだけで。音は小さいが、感覚は確認できる。
孤独に、しかし気高く。
奈央が言った定義を思い出した。
「孤独であることを、恥ずかしがらないこと」
僕は孤独だった。中学まで、ずっと。
その孤独を恥ずかしいと思っていた。陰キャであることを、人と話せないことを、一人でいることを——ずっと恥ずかしいと思っていた。
でも今は——少しだけ——恥ずかしくない。
孤独だった時間があったからこそ、今の音がある。奈央がそう言った。林先輩も、掘れ、と言った。
マウスピースに息を入れた。
さっきより、少しだけ——気高い音が出た気がした。
気がした、だけだ。確信はない。
しかし確信がなくても、方向は見えた。
本番まで、あと二週間。
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(第二十四話へ続く)
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