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第二十二話「星の王子さまと、大切なものは目に見えないという命題について」


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 第二十二話「星の王子さまと、大切なものは目に見えないという命題について」

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 「大切なものは、目に見えない」


 サン=テグジュペリの「星の王子さま」の中で、キツネが王子さまに贈る言葉だ。柚木先輩に読んだ方がいいと言われて、翌日に本屋で買った。文庫本で百六十ページ程度。薄い。しかし薄い本ほど濃い、という法則があるとすれば、この本はその典型だった。


 大切なものは目に見えない。

 この命題が真であるかどうかを、僕はしばらく考えていた。


 目に見えないものが大切だ、ということは、目に見えるものは大切ではない、ということだろうか。それは言い過ぎだ。目に見えるものにも大切なものはある。楽器とか、スコアとか、弁当の卵焼きとか。


 ではこの命題はどう解釈すべきか。

 「本当に大切なものは、目に見えないところにある」——つまり、目に見える表面の奥にこそ、本質がある、ということだろう。表紙ではなく中身。結果ではなく過程。言葉ではなく感情。


 ——読みたい、という欲望と、よく似た構造をしていた。


 奈央の内面を読みたい。目に見える奈央の奥にある、目に見えない奈央を知りたい。あのオレンジ色のノートの中身を知りたい。


 星の王子さまの命題は、僕の欲望に理論的根拠を与えてしまった。

 大切なものは目に見えない。だから見えないものを見ようとする行為は——


 いや、やめよう。文学作品を自分の都合のいいように解釈するのは、読書の最も不誠実な形だ。



         *



 五月に入った。

 定期演奏会まで二週間。


 第一部の練習が本格化した。

 コンクール曲は去年やった曲なので、二年生は体が覚えている。課題曲のマーチは指が馴染んでいるし、自由曲のソロも去年の夏に吹き込んだ記憶が残っている。問題は、去年と同じ感覚で吹いてしまうと、去年の再生産にしかならないことだ。


 「去年と同じ演奏をしても意味がない」


 林先輩が合奏後に言った。三年生として、トランペットパートのリーダーとして。


 「去年は去年だ。今年のメンバーで、今年の音を出す。コンクール曲をもう一回やるのは、成長を見せるためだ。去年より上手くなったところを、客に見せる。わかったか」

 「はい」と僕は答えた。

 「お前のソロ、去年よりいい音出せよ」

 「善処します」

 「善処します、じゃなくて出すんだよ。言い切れ」

 「……出します」

 「声が小さい」


 林先輩は一年前と同じことを言っている。しかし語気が違う。一年前は「お前の解釈は違う」という対立だった。今は「お前ならできるから、やれ」という信頼だった。同じ言葉でも、関係性が変われば意味が変わる。言葉は、文脈に依存する。


 新曲「星の王子さま」は、最初の一週間で輪郭が見え始めた。


 この曲は、物語をそのまま音に変換したような構造をしている。冒頭は砂漠の静寂。フルートのソロから始まる。水瀬先輩のフルートが、星空の下の孤独を描く。澄んでいて、冷たくて、でもどこか温かい。水瀬先輩の音色は、こういう曲に合う。技巧で押すのではなく、空気を作る。


 中盤、王子さまが様々な星を旅する場面では、楽器がリレーのように受け渡される。クラリネットが酒飲みの星を、サックスがビジネスマンの星を、ホルンが王様の星を描く。


 白石がホルンでビジネスマンの星を吹いた時、堀先輩が「白石、もう少し冷たく」と指示した。

 「冷たく、ですか」

 「ビジネスマンは星を数えることしか頭にない。感情がない音にしろ」

 「感情がない音……」


 白石は困った顔をした。白石の音は基本的に温かい。ホルンという楽器の特性もあるが、白石自身の人柄が音に出る。感情がない音を出せ、というのは、白石にとっては自分を否定するような指示だったかもしれない。


 「白石、大丈夫。ここだけ演技だと思えばいいよ」

 柚木先輩が助け舟を出した。

 「自分じゃない誰かになるの。冷たい人になりきって」

 「……やってみます」


 白石が目を閉じて、もう一度吹いた。

 さっきより硬質な音が出た。完全に冷たくはないが、温かさの中に一筋の冷気が混じっていた。


 「うん、いいよ。そんな感じ」と柚木先輩が言った。

 堀先輩は黙って頷いた。堀先輩が黙って頷くのは、最上級の褒め方だ。


 クライマックスは全員のハーモニーが響き合う壮大なメロディーだった。

 王子さまが自分の星に帰ることを決意する場面。蛇に噛まれて、消えていく。肉体は消えるが、星は残る。夜空を見上げれば、王子さまの笑い声が聞こえる——


 僕は息を吸って、吹いた。


 たしかに音は出た。しかし、何かが足りなかった。

 技術的にはミスなく吹けているしかし気高さ——孤独であることを誇りに思うような、静かな強さ——が、まだ音に乗っていない。


 「音無」

 合奏後、林先輩が来た。

 「メロディー、技術は問題ない。でも感情が浅い」

 「……わかってます」

 「わかってるなら、掘れ。もっと深く」

 「何を」

 「お前の中にあるものを」


 お前の中にあるもの。

 抽象的な指示だが、林先輩が言いたいことはわかった。技術ではなく、感情を音に乗せろ。しかしどの感情を乗せればいいのか。孤独? それなら得意だ。しかし気高さは——


 「透先輩」


 練習後、七瀬が来た。七瀬は毎日見学に来ている。演奏はさせてもらえないが、片付けや椅子並べを一年生と一緒にやりながら、全ての合奏を聴いている。


 「透先輩のメロディー、すごかったです」

 「まだ全然だけど」

 「全然じゃないです。でも、あえて言うなら」

 「言って」

 「最後の四小節、もう少し息のスピードを上げた方が、音が遠くまで飛ぶと思います」


 的確だった。

 全国レベルの奏者の耳は、的確に問題点を捉えていた。


 「ありがとう」

 「えへへ。透先輩に技術的なこと言えるの、嬉しいです」

 「七瀬の方がうまいのに」

 「うまいとかじゃなくて。透先輩の音が好きなんです。あたしにはない音だから」


 あたしにはない音。

 七瀬は自分にないものを僕の音に見ている。それは謙遜ではなく、本心だろう。七瀬は嘘をつかない。透明すぎて嘘がつけない。


 「音無ー、帰るよー」

 奈央の声がした。教室の入り口に立っていた。


 「じゃあ七瀬、また明日」

 「はい!透先輩、明日も頑張ってください!」


 七瀬が手を振る。

 奈央のところに歩いていくと、奈央は何も言わなかった。何も言わないが、歩く速度がいつもより少し速かった。



         *



 ゴールデンウイークも目前、

 練習と並行して、各係の準備も動き始めた。


 昼休み、教室で奈央と弁当を食べていると、金城凛が来た。


 「音無、振付の相談なんだけど」

 「僕に?」

 「ポップスステージの金管の動き。トランペット隊の動線、どうしたらかっこいいと思う?」

 「金城に聞かれても……」

 「あんた演奏者目線で答えてよ。楽器持って動ける範囲とか」

 「トランペットは片手で吹けるから、わりと自由に動ける」

 「マジ? じゃあステップとか入れられるじゃん」

 「ステップは……」

 「やるの。全体の見栄えの問題。あたしが振付つけるから、文句言わないで」


 金城は強引だった。しかし強引なだけではなく、全体の演出を真剣に考えていた。ギャルの見た目に反して——いや、反して、という言い方は偏見だ。見た目と中身は一致しないこともある。大切なものは目に見えない。


 「金城って、ダンス経験あるの」

 奈央が聞いた。

 「小学校からヒップホップやってた。今は辞めてるけど、振付は好き」

 「じゃあプロじゃん」

 「プロではないけど、まあそこそこ」

 「そこそこって言う人は大体すごい」

 「……奈央って、たまに鋭いこと言うよね」


 金城が笑った。奈央も笑った。

 二人の間に、僕が知らない会話の回路があった。同じ二年生の女子として、部活の仲間として、僕が入れない領域。


 その日の放課後、萩原千夏が部室で声を荒げていた。


 「なんで譜読みしてきてないの」


 相手は同じ二年生の低音セクションの一人だった。名前は覚えていないが、練習にあまり来ない部員だった。


 「だって時間なかったし——」

 「時間がないなら作って。みんな同じ条件で練習してるの」

 「そんな怒らなくても——」

 「怒ってない。事実を言ってる。譜読みしてこないで合奏に来るのは、他の人に迷惑だよ」


 萩原の声は冷静だが、刃のように鋭かった。正論だ。しかし正論を正論のまま突きつけると、人間関係には摩擦が生じる。


 堀先輩が間に入った。

 「萩原、言いたいことはわかった。あとはこっちで話す」

 「でも堀先輩——」

 「あとは任せろ」


 堀先輩の一言で、萩原は口を閉じた。堀先輩には逆らえないのではなく、堀先輩が対処してくれることを信頼しているのだ。怖いけど信頼できる。堀先輩の評価は、部員のほぼ全員が一致していた。


 萩原が楽器を片付けながら、僕の近くを通った。

 「……言い過ぎた?」

 「僕に聞かれても」

 「音無は客観的じゃん。どう思った」

 「言ってることは正しいと思う。言い方はきつかったかもしれない」

 「正しくてもきつかったら駄目?」

 「駄目じゃないけど、伝わりにくくなる」


 萩原が少し考えて、「確かに」と言った。

 「音無って、たまにいいこと言うね」

 「たまに、が余計だけど」

 「ふふ。じゃあ、いいこと言うね」


 萩原は笑って行ってしまった。

 気が強いが、自分の非を認められる強さもある。萩原千夏という人間は、不器用だが、誠実だった。



         *



 ゴールデンウィークが来た。


 世間は休みだが、吹奏楽部に長期休暇は存在しない。定期演奏会まで四週間を切っている。ゴールデンウィークは追い込み期間だ。毎日練習がある。朝九時から夕方五時まで。普通の高校生ならどこかに遊びに行く期間を、僕たちは音楽室で過ごす。


 「ゴールデンウィークなのに学校来るの、冷静に考えると狂ってるよね」とのんが言った。

 「冷静に考えなくても狂ってるよ」と奈央が返した。

 「でもあたし、家にいるより楽しいからいいんだけど」

 「それ、狂ってる側の発言」


 のんは「えへへ」と笑った。狂気を自覚しつつ楽しんでいるのだから、もう救いようがない。しかし部活動とは本来そういうものだ。合理的に考えれば無駄な時間に、合理性を超えた意味を見出す営み。それが部活動の定義だとしたら、僕たちは全員定義通りの部活動人間だった。


 五月三日の午後。


 「星の王子さま」のクライマックスを重点的にさらった。林先輩の「感情が浅い」という指摘が、ずっと引っかかっていた。技術的には問題ない。七瀬のアドバイス通り息のスピードを意識してからは、音の飛びも良くなった。しかし「孤独に、しかし気高く」の「しかし」が出ない。


 合奏後、音楽室の隅で一人でメロディーをさらっていた。


 孤独は出せる。陰キャは孤独のプロだ。中学まで一人だった時間の蓄積が、そのまま音になる。しかし「気高く」の部分が出ない。気高さとは何だ。孤独の対極にあるものか。それとも孤独の延長にあるものか。


 マウスピースだけで音を確認した。息を入れる。唇を震わせる。出てくるのは、やはり孤独な音だった。深いが、気高くはない。


 水瀬先輩が横を通りかかった。

 「音無くん、まだ練習してるの?」

 「メロディーが完成しないんです」

 「完成、って思うと逆に出ないよ。自然に出てくるのを待つの」

 「自然に出てくるまで、待つ余裕が——」

 「あるよ。まだ三週間以上あるでしょ。焦らない方がいい音出るって、あたしの経験則」


 水瀬先輩はにっこり笑って、ペットボトルのお茶を一本くれた。毎回くれる。お茶のストックはどこにあるのだろう。先輩の鞄には無限にお茶が入っているのではないかと疑い始めている。


 「ありがとうございます」

 「がんばってね。あたし、音無くんの旋律楽しみにしてるから」


 水瀬先輩が行った後、お茶を飲みながらスコアを見つめていた。


 孤独に、しかし気高く。


 気高さとは何だろう。辞書的な定義は「品位が高く、けだかいこと」だが、それでは音にならない。品位を音に変換する方法がわからない。


 練習が終わった。

 奈央と二人で校門を出た。


 駅までの道を歩きながら、奈央が唐突に聞いた。


 「メロディー、どう? 完成した?」

 「まだ。感情が足りないって林先輩に言われた」

 「感情?」

 「孤独だけど気高い、みたいな音を出さないといけないんだけど」

 「孤独はできそうだよね、音無なら」

 「それは褒めてるの」

 「褒めてる。孤独を知ってる人の音は、深いから」


 孤独を知ってる人の音は、深い。

 奈央にそう言われると、孤独であったことが少しだけ肯定された気がした。中学まで一人だった時間を、否定しなくていいのだ、と。


 「気高さの方は?」

 「わからない。気高さって、何から来るんだろう」


 奈央が少し歩調を落とした。五月の夕方の空は、まだ明るい。日が長くなっている。


 「んー」奈央は空を見ながら考えた。「孤独であることを、恥ずかしがらないこと、じゃない?」


 足が止まった。


 「……それ、すごくいい定義だね」

 「え、そう?」

 「うん。メモしたいくらい」

 「メモしなくていいよ、恥ずかしい」


 奈央が少し照れた。

 照れた奈央は珍しくて、この一瞬のためだけに今日一日練習した甲斐があった。


 電車に乗った。

 奈央が鞄から文庫本を出した。新しい本だった。読み慣れた背表紙ではない。


 「何読んでるの」

 「星の王子さま」

 「え、奈央も」

 「音無が読んでるって言ってたから。あたしも読んでみようと思って」


 二人で同じ本を読んでいる。

 同じ物語を、同じ時期に、別々の目で読んでいる。それは——音楽で言えばユニゾンのようなものだ。同じ旋律を、別々の楽器で演奏する。音色は違うが、旋律は同じ。


 「大切なものは目に見えない、って本当だと思う?」と奈央が聞いた。

 「……半分本当で、半分嘘だと思う」

 「半分嘘?」

 「大切なものが目に見えないなら、見えるものは大切じゃないことになるでしょ。でも見えるものにも大切なものはある」

 「例えば?」

 「例えば——」


 奈央の横顔が見えていた。文庫本を片手に持って、こちらを向いている。窓の外の夕焼けが、奈央の目の中で光っていた。


 「——弁当の卵焼きとか」


 逃げた。

 本当に言いたかったことから、逃げた。

 しかし逃げた先にある言葉も、嘘ではなかった。弁当の卵焼きは確かに大切だ。大切なのだ。


 奈央が「何それ」と笑った。

 「音無の答えって、いつもちょっとずれてるよね」

 「ずれてるかな」

 「ずれてる。でもそのずれ方が、音無っぽい」


 音無っぽい。

 自分らしさとは何か、という問いに対する一つの回答が、「ずれ方」にあるというのは、なかなか哲学的だ。


 石橋駅に着いた。

 奈央が立ち上がった。


 「明日も練習だね」

 「ゴールデンウィーク中ずっと練習だよ」

 「ゴールデンウィークっていう名前、嘘だよね。全然ゴールデンじゃない」

 「練習がゴールデンだって考えれば名前通りになるよ」

 「……音無って、たまにポジティブだよね」

 「たまにね」


 奈央が笑って降りた。


 扉が閉まった後、電車の中で一人になって、考えた。


 大切なものは目に見えない。

 しかしさっき見た奈央の横顔は、目に見えていた。笑った顔も、照れた顔も、夕日に照らされた横顔も、全部目に見えていた。


 目に見えるものが大切なら、奈央は目に見えるだけで十分大切なのではないか。

 しかしそれでもなお、目に見えない部分を——奈央の内面を、奈央のノートの中身を——知りたいと思ってしまう。


 大切なものは目に見えない。

 だから見たくなる。

 見えないから、読みたくなる。


 星の王子さまの命題は、やはり僕の欲望に理論的根拠を与えていた。

 サン=テグジュペリに文句を言いたい気分だったが、相手はとっくにこの世にいなかった。


 名前のつかない感情の残高が、今日も増えた。

 ゴールデンウィークの日数分だけ積み上がる通貨だった。



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            (第二十三話へ続く)

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