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第二十一話「四月の終わりと、追いかけてくる後輩、あるいは先輩という生態系について」


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 第二十一話「四月の終わりと、追いかけてくる後輩、あるいは先輩という生態系について」

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先輩、という言葉の定義について考えてみよう。




 先輩とは、自分より先にその場所にいた人間のことだ。時間的先行者。ただそれだけのことで、能力が上とも限らないし、人格が優れているとも限らない。先に生まれたというだけで尊敬されるなら、世界中の老人が聖人でなければ辻褄が合わない。


 しかし日本の部活動という生態系においては、先輩と後輩の関係は絶対的だ。一年早くその部室に足を踏み入れた、というだけで、謎の権威が発生する。敬語を使われ、荷物を持ってもらえ、「先輩」という接尾辞で呼ばれる。当事者の実力とは無関係に。


 逆に言えば、後輩とは、自分より後にその場所に来た人間のことだ。


 来た、という事実だけで、荷物を持ち、敬語を使い、先輩を「先輩」と呼ぶ義務が発生する。




 去年までの僕は後輩だった。


 今年から僕は先輩になった。




 その変化に伴って何かが変わったかと問われれば——何も変わっていない。音無透は音無透のままだ。陰キャは陰キャのまま二年目を迎え、陰キャのまま先輩になった。先輩になったからといって威厳が生まれるわけでもなく、声が大きくなるわけでもなく、トランペットが格段にうまくなるわけでもない。




 変わったのは、周りだ。


 具体的に言えば、後輩が入ってきた。






         *






 四月の最終週。


 吹奏楽部の新入部員歓迎会が行われた。




 部室——正確には音楽室——に集まった一年生は、十五人ほどいた。緊張した顔、期待に満ちた顔、何も考えていなさそうな顔。様々だ。去年の自分もこの中にいたのだと思うと、一年という時間の重さを改めて感じる。一年前の自分は、まさか今こちら側に立っているとは思わなかっただろう。




 「はーい、じゃあ始めまーす」




 部長の声がした。


 柚木ひなた先輩。三年生。クラリネット。




 柚木先輩のことを、これまでの語りの中で一度も触れていなかったことを、ここで白状しなければならない。存在しなかったわけではない。僕が一年の頃からずっといた。いたのに語らなかったのは、僕の語りの視界が極度に狭かったからだ。奈央と、のんと、あやのと、林先輩と、楽器と、帰りの電車。それが僕の世界のほぼ全てだった。部長が何をしていようと、副部長がどう動いていようと、僕の視界には入っていなかった。




 陰キャの視野は狭い。これは物理的な意味ではなく、社会的な意味だ。自分に直接関係のある人間だけが見えて、それ以外はぼやける。背景になる。モブになる。




 しかし二年生になって、背景がくっきりしてきた。




 柚木先輩は、見た目だけならゆるふわ系と分類される人間だった。


 身長は低め。肩にかかる茶色い髪は毛先が少しカールしていて、目はたれ目で、笑うと小動物のようだった。声も柔らかい。「はーい」の語尾が自然に伸びる。いつも微笑んでいて、怒ったところを見たことがない——と、去年までは思っていた。




 しかし二年になって、柚木先輩の別の顔を見る機会が増えた。




 三月の部会で、翌年度の方針を話し合った時のことだ。一部の二年生(当時)が「練習時間を減らしてほしい」と言い出した時、柚木先輩はにっこり笑ったまま、こう言った。




 「減らしたいなら辞めてもいいよ? 部活は強制じゃないから」




 声は柔らかいままだった。語尾も伸びていた。しかしその一言で、音楽室の温度が二度下がった。ゆるふわの皮を被った鉄骨だった。芯が強いなんてものではない。芯そのものだった。




 その柚木先輩の隣に立っているのが、副部長の堀志保先輩だ。




 堀先輩は、柚木先輩と正反対の外見をしていた。


 背が高い。百七十センチはある。肩幅もある。目つきが鋭い。眉毛が太くてまっすぐで、表情が少ない。サックスを吹いている姿は絵になるが、楽器を置いた姿はさらに迫力がある。一年の時、廊下ですれ違うたびに背筋が伸びた。自動的に伸びた。物理法則のように伸びた。




 堀先輩は怖い。


 怖いが、理不尽に怖いのではなく、合理的に怖い。責任感が鋼鉄でできていて、その鋼鉄を他人にも要求する。サボる人間には容赦がないが、真剣にやっている人間には驚くほど面倒見がいい。一年の時に僕がロングトーンで唇を壊しかけた時、堀先輩が真っ先にリップクリームを持ってきてくれたのを、今でも覚えている。




 「じゃあ一年生、自己紹介お願いします。名前と、出身中学と、やりたいパートを」




 柚木先輩が柔らかく促した。


 一年生が順番に立ち上がる。




 トランペット希望が三人。クラリネットが二人。フルートが三人。サックスが二人。パーカッションが二人。ホルンが一人。チューバが一人。ユーフォニアムが一人。




 僕は二年生の席からぼんやりと眺めていた。隣に奈央がいた。のんとあやのはそれぞれのパートの席にいた。




 七番目の一年生が立ち上がった時、空気が変わった。




 「七瀬あおいです。池田市立池田中学校出身で、トランペット希望です。よろしくお願いします」




 声が、澄んでいた。


 声だけではない。存在そのものが、透明度が高かった。




 七瀬あおい。


 知っている。当然知っている。池田中学校のトランペット。全日本小学校バンドフェスティバルでソリストを務め、審査員特別賞を受賞した、全国レベルの奏者。そして——僕の、中学時代の後輩。




 「あ」と声が出そうになって、飲み込んだ。




 七瀬は小学4年生の時にトランペットを始めて、わずか一年半で全国大会でソロ演じきった。天才、という言葉を僕は軽々しく使いたくないが、七瀬に関しては天才以外の語彙が見つからない。唇の形、肺活量、音感、その全てが楽器に最適化されている。


 そして容姿に関しても、池田市内で「七瀬あおい」と言えば、知らない人間の方が少ないレベルだった。小さな顔に大きな目、黒髪のストレートロング、肌が白い。百五十五センチと小柄だが、立っているだけで周囲の視線を集める。




 ——なぜ桜塚高校にいるのか。




 七瀬の実力なら、吹奏楽の強豪校に推薦で行けたはずだ。実際、淀工やら明浄やら、いくつかの学校から声がかかっていたと聞いていた。




 自己紹介を終えた七瀬が、席に戻ろうとして——こちらを見た。


 目が合った。




 七瀬の顔が、ぱっと明るくなった。




 「透先輩!」




 音楽室の空気が、ぴたりと止まった。




 透先輩。


 名前呼び。


 しかも先輩つき。


 この学校で僕を下の名前で呼ぶ人間は一人もいない。奈央でさえ「音無」だ。のんも「音無」だ。全人類が「音無」と呼ぶ世界において、突然「透先輩」という呼称が音楽室に投下された。




 全員がこちらを見た。


 正確には、七瀬を見て、七瀬の視線の先にいる僕を見た。




 「知り合い?」


 隣で奈央が、低い声で聞いた。




 「中学の後輩」と小声で答えた。


 「へえ」と奈央は言った。「へえ」の温度が、普段よりわずかに低い気がしたのは、気のせいだろうか。気のせいだと思うことにした。




 翌日、授業を終えて昼休みに入ろうかというところで、二年生の教室に七瀬が駆け寄ってきた。




 「透先輩、桜塚にいるって聞いて、あたしも桜塚にしたんです」




 直球だった。


 あまりにも直球すぎて、周囲の二年生が驚愕の表情をしていた。




 「……七瀬、他の学校の方がよかったんじゃないの」


 「やだ。透先輩がいるところがよかったんです」


 「いや、でも実力的に——」


 「実力とかじゃないです。透先輩と同じ部活で吹きたかったんです」




 七瀬の目は真っ直ぐだった。


 曇りがない。裏がない。言葉と感情が完全に一致している。文庫本で言えば、表紙と中身が一切ずれていない。読むまでもなく、中身がわかる。




 ——この透明さは、正直、少しまぶしかった。




 「ありがとう。けど、先輩としてそこまでのことしてないと思うんだけど」


 「してましたよ。小学校の時、あたしが初めて部活来た日に、マウスピースの持ち方教えてくれたじゃないですか」




 覚えていなかった。


 正確には、覚えていたかもしれないが、記憶の優先度が低すぎて埋没していた。




 「覚えてないんですか」


 「……ごめん、うっすらとしか」


 「ひどい。あたしの人生変えた人なのに」


 「大袈裟すぎない?」


 「大袈裟じゃないです」




 七瀬はむくれた。むくれた顔もかわいかった。町一番の美少女は、むくれてもなお町一番だった。不公平だ。




 「音無」




 後ろから声がした。


 振り返ると、奈央が立っていた。弁当箱を持って。




 「お弁当、食べないの」


 「あ、うん。今行く」


 「……邪魔した?」


 「してないよ」




 「してないです」と七瀬が元気よく言った。「透先輩の先輩ですか?」


 「先輩じゃない、同い年」と奈央が言った。


 「同い年なのに『音無』って呼んでるんですか?」


 「うん」


 「あたしは透先輩って呼んでます」


 「……そうなんだ」




 奈央の「そうなんだ」には三層くらいの意味がある気がしたが、解読する余裕がなかった。




 「じゃあ七瀬、また放課後」


 「はい!透先輩!」




 七瀬が笑顔で手を振った。


 奈央と二人で教室に戻る廊下で、奈央は黙っていた。


 弁当の卵焼きを食べながら、ようやく口を開いた。




 「中学の後輩なんだ」


 「うん」


 「追いかけてきたんだ」


 「……みたいだね」


 「音無って中学の時からモテてたの?」


 「モテてない。断言できる」


 「断言するところが怪しい」


 「怪しくない」




 奈央は卵焼きの最後の一切れを口に入れて、「ふーん」と言った。


 「ふーん」の温度が、やはり普段より低かった。気のせいではなかった。






         *






 新入部員の歓迎が一段落した頃、もう一つの動きがあった。


 春の定期演奏会の概要が発表されたのだ。




 五月の最終週の日曜日。場所は豊中市立文化芸術センター。桜塚高校吹奏楽部の定期演奏会は年に一回、春に行われる。そして——三年生の引退ステージを兼ねている。




 柚木先輩が音楽室の前に立って、構成を説明した。




 「第一部はクラシックステージです。去年のコンクール曲——課題曲と自由曲——に加えて、新曲をやります」




 新曲。


 配られたスコアの表紙に書かれていたのは、「Le Petit Prince——星の王子さま」。作曲、樽屋雅徳。




 「第二部は三年生のステージです。演劇をやります」




 演劇。三年生が演じて、二年生が演奏隊として伴奏する形式だった。




 「第三部はポップスステージ。振付つきで、衣装も替えます」




 ここで堀先輩が前に出た。




 「係の話をする」




 堀先輩の声は、柚木先輩とは対照的に短く、硬かった。




 「衣装係、振付係、照明係、パンフレット係、ステージ係。それぞれ希望を出してくれ。二年生が中心になって動く。一年生は補助で入ってもらう」




 一年生は補助。つまり演奏には参加しない。入部したばかりで曲を仕上げるのは無理だから、裏方に回る。七瀬あおいのような全国レベルの奏者であっても、ルールはルールだ。




 「あと」と堀先輩が付け加えた。「これが三年生の最後のステージだから。手を抜いたら許さない」




 音楽室が静まった。


 堀先輩の「許さない」は、比喩ではなく事実だった。






         *






 係の振り分けが始まって、二年生の中で今まで僕の視界に入っていなかった人間たちが、急に立体的になり始めた。




 最初に目に入ったのは、白石美月だった。


 ホルン。二年生。そして、学年でたぶん一番きれいな人間。




 白石は、部内では「アモーレ」と呼ばれていた。由来はサッカー選手の妻、平愛梨に似ているから——というのがのんの説明だったが、実物を見ると確かに似ている。黒髪のセミロング、大きな目、すっと通った鼻筋。清楚、という言葉がそのまま立体化したような容姿だった。




 白石は衣装係に手を挙げた。「お裁縫得意なので」と、控えめに言った。




 「アモーレが衣装作るなら最高じゃん」


 と声を上げたのは金城凛だった。




 金城凛。サックス。二年生。ギャル。




 「ギャル」と一言で片付けるのは本来不正確だが、金城に関しては正確だ。金色のメッシュが入った髪、つけまつげ、制服のスカートは規定ギリギリの短さ。しかし楽器を持つと人格が入れ替わったかのように真剣になる。金城のサックスは音が太くて安定していて、堀先輩が「金城は信用できる」と言っているのを聞いたことがある。堀先輩が信用すると言うのは、この部において最上級の評価だ。




 「金城は振付やって。あんたダンスできるでしょ」と堀先輩が言った。


 「おっけー。てか振付やりたかったし」


 「なら決定」




 金城が振付係になった。三部のポップスステージの振付を担当する。




 照明係に手を挙げたのは、小野すずだった。


 クラリネット。二年生。あやのとは別のクラスだが、同じパートで仲がいいらしい。あやの以上に静かで、あやの以上に存在感が薄い。僕と張り合えるレベルの薄さだ。しかし裏方の仕事は黙々とこなすタイプで、照明の配線図を一人で読み解いていた。




 「衣装、手伝うよ」


 白石の隣に座ったのは萩原千夏だった。


 ユーフォニアム。二年生。目が大きくて、声が通る。一見すると明るい普通の女の子に見えるが、気が強い。非常に強い。練習をサボる人間には遠慮なく文句を言うし、パートリーダーに対しても間違っていると思えば意見する。一年の秋に、サボりがちだった同級生に対して「やる気ないなら帰って」と全体練習中に言い放ったのは、部内の伝説になっている。




 「萩原は衣装より演奏に集中した方がいいよ」と柚木先輩が柔らかく言った。


 「両方やります」と萩原は即答した。


 「無理しないでね」


 「無理してません」




 柚木先輩がにっこり笑った。その笑顔の裏で何を考えているかは読めなかったが、萩原の気の強さを認めている感じはあった。




 僕はどの係にも手を挙げなかった。


 挙げようとしたが、タイミングを逃した。陰キャの宿命だ。手を挙げるタイミングを窺っているうちに、全ての枠が埋まる。




 「音無はどうする?」と堀先輩が聞いてきた。


 「……空いてるところがあれば」


 「ステージ係が足りてない。搬入と転換」


 「それで」


 「声ちっちゃいな。もう一回」


 「それでお願いします」


 「よし」




 堀先輩は怖いが、話が早い。




 「あ、あたしもステージ係入る」と奈央が言った。


 堀先輩が奈央を見た。


 「……まあいいだろ」堀先輩は何か言いたげな表情でそう言った。




 奈央が僕の隣で「一緒の方が効率いいでしょ」と小声で言った。


 効率の話だろうか。効率の話ではない気がした。しかし効率の話だと受け取っておく方が、精神衛生上安全だった。






         *






 歓迎会と係決めが終わった翌日の放課後、部活に行くと、水瀬楓先輩がいた。




 水瀬先輩。三年生。フルート。




 水瀬先輩も、柚木先輩や堀先輩と同様に、一年の時から存在していたのに語られなかった人物だ。ただし語られなかった理由は少し違う。柚木先輩や堀先輩は「視界に入っていなかった」のに対し、水瀬先輩は「視界に入りすぎていて、逆に語りにくかった」。




 水瀬先輩は、僕のことを気に入っている。




 理由は正直わからない。一年の最初の合奏で「一年生なのにいい音出すね」と言われて以来、何かにつけて声をかけてくれた。練習後にペットボトルのお茶をくれたり、コンクール前に「大丈夫、いけるよ」と肩を叩いてくれたり。フルートパートとトランペットパートは練習場所が離れているにもかかわらず、休憩時間にわざわざこちらに来る。




 水瀬先輩は、客観的に見て、かわいい。


 ショートカットで、目がくりっとしていて、笑うと八重歯が見える。背は低い。百五十二センチ。声が高くて、話し方にどこか甘さがある。




 「音無くーん、新しい一年生見た? トランペットの子、すごくない?」




 水瀬先輩が練習前にやってきて、僕のパート椅子の隣にしゃがみ込んだ。




 「七瀬のことですか」


 「そうそう。あの子、全国行ってたんでしょ。音無くんの後輩なんだって?」


 「中学の後輩です」


 「えー、すごい。音無くんの中学、レベル高いんだね」


 「いや、七瀬が特別なだけで——」


 「謙遜しなくていいのに。音無くんも上手いよ。あたし好きだよ、音無くんの音」




 好きだよ、と先輩は平気で言う。


 この「好き」は音に対する評価であって、それ以上の意味はない——と、僕は認識している。認識しているが、言われるたびに少し困る。困る理由は、水瀬先輩の「好き」の使い方が広範すぎて、言葉の射程距離が読めないからだ。




 「水瀬、練習始まるよ」


 林先輩の声がした。




 林先輩。三年生。トランペット。


 一年のアンサンブルコンテストで散々ぶつかった先輩。あの時は意見が合わなくて苦しんだが、あれから一年以上が経って、今では一番頼りにしている先輩になっていた。




 「林、ちょっと待って。音無くんと話してるの」


 「いつも話してるだろ」


 「いつも話したいの」


 「……勝手にしろ」




 林先輩は呆れた顔をして、自分の席に戻った。


 林先輩と僕の関係は、一年の時とは別物になっていた。あの時は「意見がぶつかる先輩と後輩」だった。今は——何と言えばいいのか。兄と弟、とは違う。師匠と弟子、とも違う。同じ楽器を吹く人間同士の、言葉にしにくい信頼関係。アンサンブルで衝突して、衝突の末に音が合った経験が、二人の間に何かを残した。




 「透先輩!」




 七瀬が音楽室に入ってきた。一年生用の椅子に座らず、まっすぐこちらに来た。




 「今日から見学させてもらいます。よろしくお願いします!」


 「うん。よろしく」


 「あの、透先輩の隣で見学していいですか」


 「別にいいけど、演奏中は静かにしてね」


 「もちろんです!」




 七瀬が椅子を引いて隣に座った。水瀬先輩が反対側にいて、七瀬が隣にいる。トランペット一番奏者の両脇が、年上の可愛い先輩と年下の美少女後輩に挟まれている。




 客観的に見て、異常な光景だった。




 「音無、モテ期か?」


 林先輩が譜面の向こうから言った。


 「違います」


 「違わないように見えるけど」


 「見え方の問題です」


 「見え方は大事だぞ」




 林先輩は笑った。一年前のぶつかり合いが嘘のように、今の林先輩は僕に対して遠慮なく冗談を言う。僕もそれに——不完全ながら——返せるようになっていた。




 合奏が始まった。


 一年生は見学。二年生と三年生が楽器を構える。


 新曲「星の王子さま」の初見合わせだった。




 顧問の先生がタクトを上げた。




 最初の数小節で、この曲がただのコンサート・ピースではないことがわかった。


 音の層が複雑に重なっている。フルートが星空を描き、クラリネットが風を吹かせ、金管が地平線を広げる。




 星の王子さまが、砂漠で一人、星を見上げている——そんな音だった。




 初見はボロボロだった。当然だ。しかしボロボロの中にも、この曲が持つポテンシャルの片鱗が見えた。




 「いい曲選んだでしょ」と柚木先輩が合奏後に言った。ゆるふわの笑顔で。


 その笑顔の奥に、鉄骨の意志が見えた。この曲を、最後の演奏会で完成させる。その決意が。




 「いい曲ですね」と僕は答えた。


 「でしょ? 星の王子さまって、読んだことある?」


 「……ないです」


 「読んだ方がいいよ。大切なものは目に見えない、っていう話」




 大切なものは、目に見えない。




 帰り道、奈央と電車に乗った。


 奈央は新しい文庫本を読んでいた——のではなく、スコアを広げていた。星の王子さまのトロンボーンパート。余白に、何かを書き込んでいた。




 オレンジ色のB6ノートは、今日は見えなかった。鞄の中だろうか。




 「今日の新曲、難しかったね」と奈央が言った。


 「うん。でもいい曲だった」


 「音無のパート、かっこよくなりそう」


 「まだ全然吹けてないけど」


 「吹けるようになるよ。音無だから」




 音無だから。


 その言い方は、信頼なのか、期待なのか、それとも——




 「ねえ、あの一年生の子」


 「七瀬?」


 「うん。ずっと音無のこと見てたね」


 「見学だからじゃない? トランペットの先輩の演奏を」


 「……そういうことにしとく」




 そういうことにしとく。


 奈央の声のトーンが、また少しだけ低かった。




 石橋駅に着いた。


 扉が開いて、奈央が立ち上がった。




 「音無」


 「なに」


 「水族館、行きたい」


 「水族館?」


 「海遊館。定期演奏会が終わったら」


 「……いいけど。のんとあやのも誘う?」


 「二人で行きたい」




 二人で行きたい。


 奈央は何の躊躇もなくそう言った。




 「わかった」


 「じゃあ定演終わったらね。日にち、また連絡する」




 奈央が降りた。


 扉が閉まった。




 二人で行きたい、と奈央は言った。


 水族館に。定期演奏会が終わったら。二人で。




 名前のつかない感情の残高が、また増えた。今日だけで何枚増えただろう。七瀬の登場、水瀬先輩の「好き」、奈央の「二人で行きたい」。通貨の種類が多すぎて、為替レートがわからない。




 池田に着いて、電車を降りた。


 世界が、広くなっている。僕の視界に入る人間が増えている。




 しかし視界が広くなっても、真ん中にいるのはいつも同じ人間だった。






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            (第二十二話へ続く)


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