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第十九話「一月、二月、短い月ほど長く感じる法則について」


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 第十九話「一月、二月、短い月ほど長く感じる法則について」

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 一月は三十一日ある。二月は二十八日しかない。


 暦の上では二月が一年で最も短い月だ。にもかかわらず、体感では二月は長い。異様に長い。一月が「正月」という起点を持ち、三月が「年度末」という終点を持つのに対して、二月には何もない。節分とバレンタインデーがあるではないかと反論する向きもあるかもしれないが、節分は二月三日に終わるし、バレンタインデーは陰キャにとっては存在しない行事だ。存在しない行事をカウントに含めるのは統計学的に不誠実だ。


 つまり二月とは、何もないまま二十八日間を耐え忍ぶ月である。

 寒くて、暗くて、短いのに長い。

 短い月ほど長く感じる。これを音無の法則と名付けたい。名付けたところで誰も引用しないだろうが。


 しかしこの一月と二月の間に、一つだけ、事件があった。

 事件と呼ぶには静かすぎて、出来事と呼ぶには重すぎる、三十秒間の話だ。



         *



 一月は、特筆すべきことがほとんどなかった。


 冬休みが終わり、三学期が始まり、日常が戻ってきた。部活は春の定期演奏会に向けた練習が本格化していて、新しい曲のスコアと格闘する日々だった。


 四人の関係は変わらなかった。

 のんは相変わらずうるさくて、あやのは相変わらず静かで、奈央は相変わらず奈央だった。電車の中で文庫本を読み——二回目の読了を終えて、次の本に移っていた——、部活では真面目に練習し、たまに僕のら抜き言葉を矯正した。


 変わらないことの安心感を、僕はこの頃ようやく知り始めていた。

 毎日同じメンバーで練習して、同じ電車に乗って、同じ駅で別れる。その繰り返しの中に、穏やかな安定がある。安定を安定と認識できるのは、不安定を知っているからだ。中学時代の、誰とも話さなかった日々を知っているからこそ、今の日常の価値がわかる。


 ——わかる、のだが。


 わかることと、満足することは別だ。

 奈央の分類法を借りるなら、そうなる。

 安定に満足しているはずなのに、もう少し先が見たいと思ってしまう自分がいた。もう少し奥まで読みたいと思ってしまう自分が。


 この感覚が日に日に強くなっていることに、僕は気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていた。


 二月に入った頃から、奈央が部活に例のオレンジ色のノートを持ってくる頻度が増えた。


 毎日ではない。週に二回か三回。練習の前か後に、スコアの横にノートを開いて、何かを書いたり、何かを書き写したりしている。僕はそれを視界の端で捉えては、視線を逸らすことを繰り返していた。


 読んではいけない。

 そう決めたはずだ。決めたはずなのに、決めたことと視線の向かう先は別だ。決意が視線を制御できるなら、人間はもう少し立派な生き物だっただろう。



         *



 それは、二月の中旬のことだった。

 水曜日。平日。何の変哲もない日だ。


 その日の部活は五時に終わった。

 のんとあやのは先に帰った。のんが「今日はバイトの面接の下見がある」と言い、あやのが「私も」と言った。「あやのも下見に行くの?」と聞いたら「付き添い」と答えた。のんとあやのの距離感は、僕と奈央のそれとはまた違う種類の近さがある。


 奈央は「もう少し練習する」と言って残った。

 僕も残った。特に理由はなかった。いや、理由はあった。奈央が残るから残った。それだけだ。それだけの理由で行動を決める自分が、少し前の自分からは想像できなかったが、今はもうそういう人間になっていた。


 六時過ぎに、奈央が「帰るね」と言って楽器を片付け始めた。

 「うん」と言って、僕もトランペットをケースにしまった。


 奈央が鞄を持って部室を出た。

 僕も出ようとして——部室の机の上に、何かが置いてあることに気づいた。


 オレンジ色の、B6サイズのノート。


 奈央が忘れていった。


 部室には僕一人だった。

 窓の外は暗い。蛍光灯の白い光が、ノートのオレンジ色の表紙を照らしていた。


 拾い上げた。

 手に取った、というよりも、手が勝手に伸びた。意思決定のプロセスを経ずに、身体が先に動いた。手の中にノートがある。B6サイズ。手のひらより少し大きい。表紙はオレンジ色で、何も書かれていない。無地だ。裏表紙も無地。


 重さはほとんどない。

 薄い。ページ数は多くないのかもしれない。あるいは、まだ書き始めたばかりなのかもしれない。


 開けば、読める。

 開けば、奈央が何を書いているかがわかる。日記なのか、メモなのか、それとも別の何かなのか。スコアの余白に書き写していた内容が何だったのかも、わかる。


 表紙を見つめた。


 三十秒。


 三十秒間、僕はオレンジ色の表紙を見つめていた。


 三十秒は、短い。日常の中ではほぼ認識されない長さだ。信号待ちの三分の一。深呼吸三回分。あくびをして伸びをする間に消える時間。


 しかしこの三十秒は、長かった。

 二月のように、短いのに長かった。


 その三十秒間に、僕の頭の中では以下のことが起きていた。


 一、開きたい。

 二、開いてはいけない。

 三、でも、誰も見ていない。

 四、誰も見ていなくても、開いてはいけないものは開いてはいけない。

 五、でも、開けば奈央のことがわかる。

 六、わかりたいのか。

 七、わかりたい。

 八、わかりたいことと、勝手にわかることは違う。

 九、違う。

 十、これは招待状のない侵入だ。


 十の思考を、三十秒に詰め込んだ。

 一秒に三つ。高速だ。しかし感覚的には、一つ一つがゆっくりと、引き延ばされたように流れた。


 十一番目の思考は、こうだった。


 ——奈央が「秘密」と笑った顔。


 文化祭の夜、キャンプファイヤーの前で、「何書いてるの」と聞いた時の、あの顔。いたずらっぽくて、でも本気の、「秘密」という一言。

 あの「秘密」は、奈央が自分の意思で僕に対して引いた境界線だ。その線を、奈央の不在中に、無断で踏み越えることは——


 できなかった。


 ノートを机の上に戻した。

 開かなかった。


 ポケットからスマホを出して、奈央にメッセージを送った。


 「部室にノート忘れてるよ」


 送信した。

 送信してから、椅子に座った。足の力が少し抜けていた。三十秒間の攻防が、思ったよりも体力を消耗させていたらしい。


 三分後、奈央から返信が来た。


 「えっ まじで」

 「戻る!待ってて」


 待った。

 部室で一人、オレンジ色のノートと向かい合って待った。

 ノートは机の上にある。僕は椅子に座っている。距離は一メートルもない。しかし、もう手を伸ばそうとは思わなかった。三十秒間の戦いは終わった。勝ったのか負けたのかはわからない。開かなかったことが勝利なのか、開きたいと思ったことが敗北なのか。


 十分後、奈央が息を切らして部室に戻ってきた。

 「ありがとう、助かった」

 奈央はノートを手に取って、安堵した顔をした。大事なものを取り戻した時の顔だった。


 「大事なノートなの?」

 聞いてしまった。

 聞いてはいけない質問ではないが、聞くべき質問でもなかった。しかし口から出てしまった。


 奈央は一瞬だけ考えるような間を置いて、「うん、大事」と言った。

 「中は見てない」と僕は言った。

 言う必要があったのかはわからない。しかし、言わなければいけない気がした。


 奈央がこちらを見た。

 「見てないの?」

 「見てない」

 「……ありがとう」


 奈央の「ありがとう」は、二回目だった。

 一回目は「助かった」に付随するありがとうだった。二回目は——見なかったことに対するありがとうだった。


 その二つのありがとうの間にある温度差を、僕は正確に感じ取っていた。


 「じゃあ帰ろっか」と奈央が言った。

 「うん」と答えた。


 二人で部室を出て、二人で駅まで歩いて、二人で電車に乗った。

 電車の中で奈央は新しい文庫本を読んでいた。オレンジ色のノートは鞄の奥にしまわれていた。

 石橋駅で奈央が降りて、「また明日」と言った。


 いつもと同じ別れ方だった。

 いつもと同じはずだった。


 しかし、池田の自宅に帰って、夕食を食べて、風呂に入って、ベッドに横になった時——いつもと同じではないことに気づいた。


 三十秒間のことを、誰にも言えなかった。


 のんに言えるわけがない。のんに言ったら大事件になる。あやのに言っても困らせるだけだ。奈央本人には——論外だ。


 開かなかった。それは事実だ。

 しかし、開きたかった。それも事実だ。


 開かなかったという結果と、開きたかったという過程。

 奈央は結果しか見ないタイプだと言っていた。僕は過程にこだわるタイプだ。


 奈央にとって、僕は「開かなかった人間」だ。

 僕にとって、僕は「開きたかった人間」だ。


 どちらが本当の僕なのか。

 結果の僕か。過程の僕か。


 答えは出なかった。

 答えが出ないまま、名前のつかない感情の残高に、「読みたかった」が——また一枚、加算された。


 夏の終わりから始まったこの通貨は、秋を越え、冬を越え、今も増え続けている。残高は膨らむ一方だ。利子がついているのかもしれない。複利で。


 天井を見つめた。

 眠れない夜ではなかった。しかし、目を閉じるたびに、オレンジ色が瞼の裏にちらついた。


 二月は、短いのに長い。

 名前のつかない感情の残高は、短い月ほど、長く重くなっていく。



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            (第二十話へ続く)

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