第十七話「文化祭という名の、全員参加型供物、あるいは観客席から見た笑顔の所有権について」
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第十七話「文化祭という名の、全員参加型供物、あるいは観客席から見た笑顔の所有権について」
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文化祭という行事を一言で定義するなら、「全校生徒による合法的な狂騒」だろう。
もう少し丁寧に言い直すなら、「日頃の学校生活では抑圧されているエネルギーを、年に一度、組織的に解放するための儀式」だ。もう少し身も蓋もなく言えば、「陽キャが輝き、陰キャが隅に追いやられる、年間最大のイベント」だ。
三つ目の定義が一番正確であることは認めたくないが、認めざるを得ない。
桜塚高校の文化祭は十一月の第一週に行われる。正式名称は「桜華祭」だが、誰もそう呼ばない。文化祭は文化祭だ。名前を変えたところで本質は変わらない。
吹奏楽部のステージ発表は、二日目の午前の部に組まれていた。
体育館のステージ。パイプ椅子が並べられた客席。照明は業者が入っている本格的なものではなく、部員が操作するスポットライトが二台。プロの演奏会とは比べるべくもないが、それでも舞台に立つ緊張感は本物だった。
本番前日のリハーサルで、事件は起きた。
事件、と呼ぶほどのことではないかもしれない。しかし僕の中では、あの瞬間は小さな事件だった。
顧問の先生が「音のバランスを客席から確認したい」と言い出した。
全員がステージに上がって一曲通す間、先生は客席の真ん中あたりに座って聴く。それはいい。問題はその次だ。「音無、お前も客席で聴いてくれ。トランペットの音がどう聞こえるか、外から確認してほしい」と言われた。
つまり僕は、バンドの演奏を客席から聴くことになった。
ステージに全員が上がる。僕だけが客席にいる。パイプ椅子に座って、ステージを見上げる。奇妙な光景だった。いつもは中にいる場所を、外から見ている。
先生の合図で演奏が始まった。
音が来た。
当たり前だが、客席から聴く音は、ステージの中で聴く音とは全然違った。ステージの中にいると、隣の音が大きくて全体のバランスが見えにくい。しかし客席からは全体が聴こえる。トランペットがどこで突き出ていて、クラリネットがどこで埋もれていて、打楽器がどこで走っているか。外からだと、手に取るようにわかる。
そして——奈央が見えた。
トロンボーンセクションの一番手。ステージの中央やや左。スライドを構えて、真剣な顔で吹いている。
曲がサビに入ったとき、奈央の表情が変わった。
笑っていた。
演奏しながら、笑っていた。正確には、微笑みに近い。口は楽器に塞がれているから笑顔が見えるわけではない。目だ。目が笑っていた。音楽が楽しくて、ステージの上にいることが嬉しくて、その感情が目に出ていた。
僕は客席からそれを見ていた。
奈央の笑顔をステージの外から見るのは、初めてだった。いつもは隣にいるか、同じステージの上にいるか、電車の中で横にいるかだ。正面から、距離を置いて、奈央の全身を見ることは——なかった。
きれいだった。
その言葉がまた浮かんだ。夏祭りの時と同じ言葉だ。しかし今回は、夏祭りの時とは少し違う感触があった。夏祭りの時は浴衣という非日常が「きれい」を引き出していた。今回は制服で、楽器を持って、いつもと同じ奈央が、ただ演奏しているだけだ。なのにきれいだと思った。それが、少し怖かった。
演奏が終わった。
顧問の先生が「トランペットのバランスはどうだった」と聞いた。
「少し高音が突き出てました」と答えた。
正確な回答だったと思う。ただし、僕がステージのどこを一番見ていたかについては報告しなかった。トランペットのバランスを確認するためにステージを見ていたのは、時間にして全体の三割程度だった。残りの七割は——言わなくていい。
*
翌日、文化祭の本番。
ステージ発表は予定通りに進んだ。三曲演奏した。客席は保護者と生徒で埋まっていて、演奏後には大きな拍手があった。上手くいったかどうかの自己評価は難しいが、少なくとも大きなミスはなかったと思う。昨日のリハーサルで気になったトランペットのバランスも、本番では少し抑えた。
演奏が終わってステージを降りた後、のんが走ってきた。
「お疲れー!よかったよ!」
のんは打楽器セクションとして一番後ろにいたが、誰よりもテンションが高い。ステージを降りた瞬間にこの温度差だ。
「お疲れ」とあやのが静かに言った。あやのはクラリネットを丁寧にケースにしまっている。演奏直後でも手順は崩さない。
奈央がトロンボーンを片手に持ったまま近づいてきた。
「どうだった?」
「よかったと思う」
「音無のトランペット、今日ちょっと抑えてたよね」
「……わかった?」
「わかるよ。いつも隣で聴いてるんだから」
いつも隣で聴いている。
奈央は僕の音を聴いている。僕も奈央の音を聴いている。互いの音を読み合っている。それは許可された読書だと、先日の夜に結論を出したばかりだった。
「奈央、今日すごい楽しそうだったね」とのんが言った。
「え、そう?」
「うん、なんか笑ってた。演奏中に」
「笑ってたかなあ」
「笑ってた笑ってた。ね、あやの」
「笑ってた」とあやのが静かに肯定した。
のんとあやのが見ていたことに、少しだけ動揺した。
笑っていた奈央を見ていたのは自分だけだと、どこかで思い込んでいた。客席から見上げた奈央の目が笑っていたのを、自分だけが知っていると。
当然そんなわけがない。ステージは全員に開かれている。奈央の笑顔は、客席の全員に見えていた。
独占できるわけがない。
独占しようとしていた自分に、少し驚いた。
文化祭の残りの時間は、各クラスの出し物を回った。四人で回った。一年五組の喫茶店でコーヒーを飲み、一年三組のお化け屋敷でのんが本気で叫び、二年生の教室の脱出ゲームであやのが静かに全問正解した。奈央は何を見ても「おもしろい」と笑っていた。
「奈央、最近かわいくなったよね」
のんが唐突に言ったのは、二年生の廊下を歩いている時だった。
あやのも小さく頷いた。「うん、なんか変わった」
「変わってないよ、別に」と奈央は否定した。
「変わったって。ね、音無」
振られた。
のんが僕に振ってきた。これは罠だ。どう答えても何かが起きる。
「そう?」と返した。
最も無難な、最も何も言っていない、最も陰キャ的な回答だ。
しかし内心では、のんの指摘に異論はなかった。異論がないどころか、全面的に同意していた。そしてそれ以上に、のんやあやのが気づくよりも前に、僕が最初にそれに気づいていたという確信があった。
いつからだろう。
夏祭りの浴衣の時か。映画館で腕を掴まれた時か。アンサンブルの練習で帰り道に「うれしい」と言われた時か。
わからない。わからないが、奈央が変わっていくことを——あるいは僕の中の奈央の見え方が変わっていくことを——最初に察知していたのは、たぶん僕だった。
その確信は、誇らしさよりも、薄い不安に似ていた。
最初に気づいた人間は、最後まで気づき続ける責任を負うのではないか。そんな責任など存在しないのに、存在するような気がした。
*
後夜祭は校庭で行われた。
キャンプファイヤーを囲んで、有志がギターを弾いたり歌を歌ったりする。吹奏楽部の出番はもうないが、のんが「最後まで残ろうよ」と言ったので四人で残った。
火の周りは暖かかったが、十一月の夜風は冷たかった。四人でコンクリートの段差に座って、火を眺めていた。のんが何か喋り続けていて、あやのが相槌を打っていて、奈央は火を見つめていた。
「ねえ、あたし日記つけてるんだよね」
奈央が唐突に言った。
脈絡がなかった。
のんが「え、急に何」と笑った。
「いや、なんとなく。火を見てたら思い出した」
「火と日記に何の関係があるの」
「ないかも。でも、なんか書きたくなる時ってあるじゃん」
日記。
奈央が日記をつけている。
その情報が、僕の中で小さく光った。
「何書いてるの」と聞いた。
自然に聞けたと思う。不自然ではなかったと思う。少なくとも、声が裏返ったりはしていなかった。
奈央がこちらを見た。
キャンプファイヤーの火が、奈央の目の中でオレンジ色に揺れていた。
「秘密」
奈央は笑った。
いたずらっぽい、でも本気の、笑い方だった。
秘密。
それは「読んではいけない」という宣言だ。
読んではいけない本が、この世に一冊、確実に存在することが、今確認された。
「えー、気になるー」とのんが言った。
「秘密は秘密。のんには絶対見せない」
「なんであたしだけ名指し!」
「すぐ言うから」
「言わないよ!……たぶん」
「そのたぶんが駄目なんだよ」
奈央とのんが笑い合っている。あやのも小さく笑っている。
僕だけが笑えなかった。笑えなかった、というのは正確ではない。顔では笑っていた。しかし胸の中では、小さな棘のようなものが刺さっていた。
日記。秘密。読んではいけない本。
奈央は日記をつけている。そこには奈央の本音が書いてある。奈央が口では言わないことが、文字になって、ノートの中に存在している。
——あのオレンジ色のB6ノートが、それなのだろうか。
練習中にスコアの余白に何かを書き写していた、あのノート。日記の内容を楽譜に書き写していたのだとしたら、それは一体何だったのか。練習に関する感想か。曲への想いか。あるいは——
考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。
考えすぎだ。日記を持っている人間など珍しくもない。そこに何が書いてあるかを想像すること自体が、すでに「読もうとしている」行為だ。
キャンプファイヤーの火が、少しずつ小さくなっていった。
のんが「寒くなってきた」と言って立ち上がった。帰ろうか、という流れになった。
四人で校門を出て、駅まで歩いた。
奈央が隣を歩いていた。文化祭の余韻で、いつもより少しだけ足取りが軽かった。
「今日、楽しかったね」と奈央が言った。
「楽しかった」と答えた。
「来年も出たいな、ステージ」
「出れるよ、来年も」
「出られる、ね。ら抜き」
「……来年も出られるよ」
「音無って時々ら抜きになるよね」
「指摘されるまで気づかないんだけど」
「だから指摘してあげてるんじゃん」
奈央の言葉の矯正が、日記にも及んでいないことを祈った。
いや、日記のことを考えるのはやめよう。やめなければいけない。
石橋駅で、いつもの別れ。
「また明日」と奈央が言った。
「また明日」と僕が返した。
奈央の後ろ姿が改札の向こうに消えていく。
僕は電車に乗って池田まで帰った。
帰り道、一つだけ考えていた。
奈央の笑顔を、自分だけのものだと思いたかった。ステージの上で笑っていた奈央を、客席の誰よりも先に見つけたのは自分だと思いたかった。
しかしそれは、笑顔の所有権を主張するようなものだ。
笑顔に所有権はない。
ない、とわかっていても、欲しいと思ってしまうのが——たぶん、名前のつかない感情の、一番厄介なところだった。
残高が、また増えた。
通貨の種類が、少しずつ多様化している気がする。
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(第十八話へ続く)
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