第十五話「本番と、積み重なってきたものの話
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第十五話「本番と、積み重なってきたものの話」
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アンサンブルコンテストの本番は、十月の第二土曜日だった。
会場は府内のホールで、各校の代表グループが順番に演奏する。審査員がいて、点数をつけて、上位グループが上の大会へ進む。夏のコンクールとは規模が違うが、緊張感は似ていた。いや、緊張感は少し種類が違うかもしれない。コンクールは全体の一部として演奏する。アンサンブルは八人だけで舞台に立つ。密度が高い分、一人の責任も重くなる。
当日の朝、集合場所の部室で全員が少し硬かった。
林先輩は珍しく黙っていた。普段の練習では何かと意見を言う人間が黙っているのは、それなりの緊張の証だと思った。
のんとあやのはそれぞれのグループの出番があるため、別の時間に会場に来る予定だった。朝、部室で見送るとき、のんが「がんばれ!金管チーム!」と大声で言った。あやのが「がんばってね」と静かに言った。いつも通りの二人だった。
奈央は楽器のケースを膝に乗せて、文庫本を読んでいた。
「緊張しないの」と聞いた。
「してる。でも読んでると少し落ち着く」
「何読んでるの」
「恋愛小説。こういう時に限って感情移入しすぎる」
「大丈夫そう?」
「……泣いてない。今は」
今は、という留保が引っかかったが、聞かなかった。
会場に移動して、楽屋で音出しをした。
本番三十分前、顧問の先生が「いつも通りやってきなさい」と言った。いつも通りがどの回を指すのか、練習によって出来が全然違ったので一概に言えないが、言いたいことはわかった。
舞台袖で順番を待った。
八人が並んで立っている。誰も話さなかった。
その沈黙の中で、隣に奈央がいた。
「音無」
小声で奈央が言った。
「なに」
「緊張する」
「する」
「する?珍しい」
「珍しくない。いつもしてる」
「そうなの?知らなかった」
知らなかった。
奈央は僕のことをいろいろ知っているが、まだ知らないことがある。当たり前だが、当たり前なのに少し意外な感じがした。
「うまくいくといいね」と奈央が言った。
「うまくいくよ」と僕は言った。
「根拠は?」
「……ない」
「正直すぎる」
「でも、たぶんうまくいく」
「なんで」
「なんとなく」
奈央が小さく笑った。
ステージ係の人が「次の出番です」と言いに来た。
八人で舞台に出た。
ホールの客席に照明が落ちていて、ステージだけが明るかった。椅子に座って、楽器を構えた。
指揮者はいない。
八人で呼吸を合わせて、始める。
林先輩がアイコンタクトで合図を出した。
息を吸った。
吹いた。
音が出た瞬間に、わかることがある。
今日は、合っている。
八人の息が揃っていた。九月の練習で何度もずれて、何度も合わせ直して、それが今日の本番の一発目に出た。
旋律が進んでいく。
ホルンが歌い、トロンボーンが支え、トランペットが飛ぶ。
奈央のトロンボーンの音が聴こえた。深くて、太くて、安定している。あの音が土台にあるから、僕のトランペットが上に乗れる。音楽はそういう構造をしている。誰かが支えているから、誰かが飛べる。
ソロのフレーズが来た。
息を整えて、吹いた。
ホールに響いた。
上手くいったかどうか、演奏中に自己採点するのは難しい。ただ、音が空間に馴染んでいる感覚があった。拒絶されていない感じがあった。それで十分だと、演奏しながら思った。
曲が終わった。
八人が立ち上がって、礼をした。
客席から拍手が来た。
袖に戻ったとき、奈央が「よかった」と言った。
「全体的に?」と聞いた。
「全体的に。あと音無のソロも」
「奈央のトロンボーンも」
「ほんとに?」
「本当に」
奈央がわずかに目を細めた。
嬉しい時の奈央の顔だと、最近わかるようになった。この数か月で知ったことだ。
結果発表は少し後になる。
待ち時間に、全員で外のベンチに出た。
そこへのんとあやのが合流してきた。のんが「どうやった?どうやった?」と飛びついてきて、あやのが「お疲れ様」と静かに笑った。
「よかったと思う」と奈央が答えた。
「絶対金賞やって」とのんが言った。
「どんな根拠で」
「勘」
「勘かい」
四人でしばらく話した。
十月の空気は少し冷たくなっていて、制服の上から空気が入ってきた。
結果が発表された。
金管八重奏は、銀賞だった。
夏のコンクールと同じ結果だ。しかし感触は違った。夏は「惜しかった」という後悔が強かった。今日は「やり切った」に近い何かがあった。
のんが「えー銀!?めっちゃよかったのに!」と言った。
あやのが「よかったよ、ほんとに」と静かに言った。
そういう二人がいるのも、今の当たり前になっていた。
帰りの電車の中で、奈央が文庫本を開いた。
読みながら、途中でページを閉じた。
「やっぱり感情移入しちゃって読めない」
「どういう話なの」
「好きな人に気持ちが伝えられない女の子の話」
好きな人に気持ちが伝えられない。
「伝えられないまま終わるの?」と聞いた。
「まだわからない。最後まで読んでないから」
「読み終わったら教えて」と言った。
「なんで?」
「どっちの結末が来るのか、気になる」
奈央は少し考えて、「うん、教える」と言った。
電車は石橋に向かって走っていた。
奈央はまた文庫本を開いて、今度は読み続けた。
少し後で、目が赤くなっていた。
泣いているのか聞こうか考えて、やめた。
今は、そのままにしておく方がいい気がした。
奈央がどういう気持ちで泣いているかを、全部わかろうとしなくていい。
わからないまま、隣にいることができる。
それが今の、僕たちの距離だった。
名前のつかない感情の残高が、今日また増えた。
増えることには慣れてきたが、使い方はまだわからない。
いつか、使い方がわかる日が来るのか。
あるいは、使わないまま溢れてしまうのか。
今年の秋が、静かに終わっていく。
一年生の冬が、もうすぐ来る。




