第十三話「距離の単位が変わっていく」
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第十三話「距離の単位が変わっていく」
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夏祭りから帰って、次の週。
奈央から先にメッセージが来た。
「梅田行かない?映画」
映画。
映画を一緒に見る。
のんとあやのへの確認はなかった。奈央から直接来た。それが何を意味するのかを三十秒考えて、考えるのをやめた。考えすぎると行動が遅くなる。陰キャの悪癖だとわかっているので、珍しく早く返した。
「行く」
一文字返信だった。
奈央から「じゃあ土曜日」と来た。
土曜日に梅田に行った。
映画はホラーだった。奈央が「見たかった」と言ったので、奈央が選んだ。ホラーが得意かどうかを事前に確認するべきだったが、しなかった。結果として、奈央はホラーが苦手だと上映中に判明した。怖いシーンで小さく声を上げて、隣の僕の腕を掴んだ。
掴んだ。
制服の上から、しっかりと。
「怖いなら見なければよかったんじゃないですか」と言いかけて、言わなかった。こういう場面で正論は不要だと、この数か月で学んだ。奈央が腕を掴んでいる間、僕は画面を見ているふりをしながら、何も考えられていなかった。
映画が終わった後、奈央は「おもしろかった」と言った。
「怖かったんじゃないの」
「怖いのとおもしろいのは別」
「……それはそうか」
奈央は基本的に分けて考える人間だ。
怖いとおもしろいが別物であるように、嫌いと嫌だが別物で、好きと一緒にいたいが別物で、様々なことが奈央の中では分類されている。僕にはまだその分類法が完全に把握できていないが、少しずつわかってきていた気がする。
その後も、二人で出かける機会が続いた。
九月の終わりから十月にかけて、映画の他にも、本屋に行ったり、奈央が行きたいと言ったカフェに行ったり、部活帰りに少し遠回りしたり。のんとあやのを含めた四人で行くこともあったが、二人だけで行くことも自然に増えた。
のんは毎回何かを言いたそうにしていたが、奈央が先回りして「普通に遊んでるだけ」と言うので、のんはそれ以上言えなかった。ただ、目だけは何か言っていた。あやのは静かに笑っていた。
奈央が変わっていった、と感じ始めたのは、十月の中盤頃だった。
変わった、というと語弊があるかもしれない。
正確には、奈央が見せる範囲が広がった、という感じだ。
十月のある日の部活帰り、電車の中で奈央が無言だった。本も読まず、スマホも見ず、ただ窓の外を眺めていた。のんとあやのは別の話で盛り上がっていた。奈央は輪の外にいた。
「どうかしたの」と聞いた。
「んー」と奈央は言った。
「何かあった?」
「なんも、ないんだよね」
「……ない、のに」
「なんか、しんどい日ってあるじゃん」
しんどい日、ってある。
理由がない。原因が特定できない。でも何かが重い。
そういう日が、あることは僕も知っていた。
「あるよ」と言った。
「音無もあるんだ」
「ある。わりと」
「陰キャでもあるんだ」
「陰キャだからかもしれない」
奈央がようやく窓から視線を外して、こちらを見た。
「でも、今日はまあまあ大丈夫」
「それはよかった」
「音無と話してたら、少しましになった」
音無と話してたら、少しましになった。
さらっと言った。何の演出もなく、ただ事実として言った。
「それは光栄です」
「敬語」
「それは光栄だ」
「ぶっきらぼうになった」
「……中間が難しい」
奈央が笑った。
さっきよりも大きく笑った。
今日は、これでいい。それだけで、今日は十分だと思った。
ボディタッチが増えたのは、たぶんこの頃からだった。
映画の腕掴み事件は先行事例として存在していたが、その後も自然に増えていった。肩が触れる、歩きながら腕が当たる、それを奈央が特に避けない、そういうことが積み重なった。
ある日、本屋で立ち読みをしていたら、隣に来た奈央が当たり前のように僕の肩に顎を乗せて同じ本を読み始めた。
「……それ、しんどくない?奈央の方が背高いんだから。かがんでるでしょ」
「平気」
平気と言いながら、三分後に「やっぱりしんどい」と言って離れた。
僕はその三分間、本の内容が一ミリも入ってこなかった。
こういうことが積み重なっていく。
名前のつかない感情の残高が、少しずつ増えていく。
通帳に記録されているが、何の通貨かわからない。使い方もわからない。でも確実に、増えている。
夏が、終わりかけていた。
部活では、新しい目標が生まれようとしていた。
アンサンブルコンテスト、だ。




