第十二話「浴衣と金魚と、名前のつかない感情の現住所」
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第十二話「浴衣と金魚と、名前のつかない感情の現住所」
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待ち合わせは池田駅の改札前、六時半。
池田の夏祭りは毎年九月の終わりに行われる。地元の神社を中心に屋台が並び、夜には花火が上がる。規模は大きくないが、地元の人間にとっては年に一度の行事だ。僕は小学生の頃から毎年来ていたが、誰かと来たことはなかった。一人か、家族かのどちらかだった。
時刻より少し早く着いて、改札の前で待った。
待ちながら、自分の格好を確認した。白のシャツと黒のパンツ。これ以上でも以下でもない。せめてきれいな方がいいかと思って、アイロンはかけた。それで限界だった。
六時二十八分に、奈央が現れた。
浴衣だった。
紺地に白い朝顔の模様。帯は白。髪はハーフアップではなく、緩く上でまとめてあって、後れ毛が少し顔にかかっている。普段の制服姿とも、私服姿とも、全然違った。
きれいだ、という言葉が頭に浮かんだ。
浮かんだが、口からは出なかった。口から出したことで何かが変わることが怖い、という心理が働いたのか、それとも単純に言葉が詰まったのか、自分でもわからなかった。
「待った?」
奈央が言った。
「全然」
「そっか。のんとあやのは?」
「来られなくなったって」
「そうなんだ」と奈央は言った。特に驚いた様子もなく。「じゃあ二人でいこうか」と続けた。
二人で、と奈央は当たり前のように言った。
その当たり前が、僕には少し眩しかった。
神社への参道に屋台が並んでいた。
焼きそば、たこ焼き、かき氷、射的、スーパーボールすくい、金魚すくい。並んでいるものは毎年同じだ。夏祭りというのは、形式が変わらないことで成立している行事だと思っている。毎年同じだから安心する。毎年同じだから特別に感じる。
「何食べたい?」
奈央が聞いた。
「たこ焼き?」
「いいね。あとかき氷も」
二つ返事で決まった。
奈央の意思決定は早い。選択に迷わない。それが羨ましいとも、怖いとも思う。僕は何を決めるにしても、選択肢を一度全部並べてから選ぶ癖がある。陰キャはたいがいそういう構造をしている。
たこ焼きを二つ買って、並んで食べながら歩いた。
浴衣を着た奈央が、串を持ちながら器用に歩いている。
「熱い」と言いながら、それでも食べる。
「ふーふーしてから食べたら」と僕は言った。
「わかってても食べたくなる」と奈央は言った。
「その発想、からあげ食べ放題の時と同じだ」
奈央が「言わないで」と笑った。
笑い方が、少し違う気がした。
学校で笑う時とも、電車の中で笑う時とも、少し違う。うまく言語化できないが、柔らかい感じがした。警戒がない、というか。普段から奈央は他者に対してほぼ警戒しない人間だが、それとも違う。もっと奥の方がほぐれているような。
「なんか、音無って違うね」
唐突に奈央が言った。
「どう違うの」
「制服じゃないから」
「奈央も違うよ、浴衣だし」
「そうか。お互いなんか違うんだ」
笑いもしないで、奈央はそう言った。
なんか違う。
その言葉が、空気の中に残った。
金魚すくいの屋台の前で立ち止まった。
奈央が「やりたい」と言ったので、二人でやった。
奈央は器用に三匹すくった。僕は一匹だけすくって、すぐにやぶれた。
「下手」と奈央が言った。
「初めてやったわけじゃないんだけど」
「なんで下手なの」
「すくい方の問題だと思います」
「タメで言えって何回言ったら」
「すくい方の問題だと思う」
「遅い」
「……すみません」
「それも敬語」
奈央が笑って、「まあいいか」と言った。
金魚は店員さんに袋に入れてもらって、奈央が持った。浴衣に金魚の袋を持つ奈央は、どこからどう見ても夏祭りの絵になる存在だった。
かき氷を食べながら、神社の境内の端に並んで座った。
木製のベンチ。花火が始まるまで少し時間があった。
「音無は、なんで誘ってきたの」
奈央が聞いた。
「夏祭り?」
「うん」
「……行きたかったから」
「あたしを誘って?」
「一緒に行きたかったから」
言ってしまってから、少し心拍が上がった。
一緒に行きたかったから、というのは正確な言葉だったが、その正確さが怖かった。
奈央は特に驚かず、「そっか」と言った。それだけだった。
「あたしも、楽しかったよ。来て良かった」
かき氷のスプーンを持ちながら、前を向いたまま言った。
「それはよかった」と僕も前を向いたまま言った。
花火が上がった。
最初の一発が夜空に咲いて、遅れて音が来た。
奈央が「きれい」と言った。
僕も同じことを思っていたが、口には出さなかった。
出せなかった、というのが正確かもしれない。
花火を見ながら、隣に奈央がいる、という事実を、静かに確認していた。
浴衣で、かき氷を持って、金魚の袋を膝に置いて、花火を見ている奈央が、隣にいる。
これを何と呼ぶのかはわからない。
恋愛と呼ぶには、まだ早い気がした。
友達と呼ぶには、何か足りない気もした。
名前のつかない感情は、今夜もまた、名前をつけてもらえないまま、僕の胸の中に住み着いた。




