85.二人で作る日々に、祝福を
窓辺の鏡の前に座ると、朝の光が白く床に落ちていた。まだ冷えの残る空気の中で、マルタの指が、黙々と髪をすくい上げていく。引かれるたび、頭皮がわずかにきゅっとして、その感覚が、今日が特別な日なのだと静かに教えてくれた。
鏡に映る自分は、もうすっかり花嫁の姿をしているのに、どこか他人のようでもある。
ノックの音が明るく響く。返事をすると、扉が開いた。
「わ、素敵! 似合ってる!」
ソニアの声と一緒に、花の匂いが流れ込む。白い花を束ねた腕の中に、淡い色がいくつか混じっていた。
「きれい。アストンくんと並んでるところ見るの、楽しみ」
そう言って笑ってくれるのが気恥ずかしくて、けれど、胸の奥には春の風が溜まってゆく。
マルタは花を受け取り、迷いなく手を動かした。編みかけの髪の間に、花をひとつ、またひとつ。指先が触れるたび、やわらかな重みが増していく。
「おばさま、編むのとっても上手。誰かに教わったの?」
「昔ね。料理を教えた、お礼に。忘れないように、たまに夜中にこっそり編んだりなんかしてたんだけど」
——料理を。
その言葉と、忘れても尋ね直せない理由とが、はたと結び付く。鏡越しに目が合うと、マルタは目を細めた。
「だから、今日編めてとっても嬉しいよ」
花輪は、髪と一緒に、いつの間にか形を成していく。祝福というものは、言葉より先に、こうして頭に載るのだと知った気がした。
窓の外で、朝の鐘が鳴る。マルタの手が、最後にそっと髪を整えてくれた。
教会へ向かう道は、冬の終わりを告げるように、あたたかな風がふくらんでいた。ゆるんだ空気に誘われるようにして、石畳の隙間から、小さな花があちらこちらで顔を覗かせ始めている。
辿り着くと、扉の前には、人の気配が集まっていた。その中に、ひときわ見慣れた背中があった。
コートを着たアストンが、参列客に声をかけ、行き先を示している。肩に落ちる光の具合まで、いつもの彼そのままだったのに――こちらを振り返った瞬間、息を呑んだのが分かった。
どきんと心臓が跳ね上がる。思わず隣のソニアに視線で縋ってしまうと、背を軽く押してくれた。
小走りで、アストンの元へ駆ける。レースを含んだ裾が春風に揺れる。こちらを見詰めたままでいた新緑色の瞳は――ほのかに潤み、瞬くたび、光がその中で星のように滲んだ。アストンの手が持ち上がり、目頭に押し当てられる。
「結婚してくれ……」
言葉は水滴の代わりに零れ落ちるようで、思わず笑ってしまう。
「今からするんだよ」
そう返すと、アストンは一度、言葉を失ったように瞬きをして、それから気恥ずかしそうに笑った。つられて、胸がくすぐられる。
随分前からもう、夫婦になるために、一緒に歩み始めていた。近所の人は気が早く、アストンの嫁として見てくれている。
だから昨日と今日では、名前を並べて記されるようになる、ということが変わるに過ぎない。
それでも、そのことがとても、心の中をやさしく撫でてくれた。
客が揃ったのだろう、促されて中へと入ると、扉の内側でアストンがコートを脱いだ。厚い布地が肩を滑り、整えられた正装姿が現れる。この姿が、これから自分の――夫、になるのだと思った瞬間、胸の中に熱が広がって、足元が少しだけ頼りなくなった。
視線が吸い寄せられるのに、見詰めていれば頬まで熱くなりそうで――胸ポケットから垣間見える、丁寧に折りたたまれた白いハンカチばかり、眺めてしまった。
ティア、と。
やわらかい声と一緒に差し出された腕を取る。
教会の中は、午前から昼へ移る白い光で満ちていた。高い窓から差し込む光が、床に淡い矩形を落とし、肩や背にそっと触れていく。
歩くたび、髪に挿した花の影が、床に揺れる。それを踏まないようにして進む感覚が、なぜか可笑しくて、けれど、ひどく大切だった。
隣に立つアストンの横顔は、光に縁取られて、いつもより静かに見える。視線を向ければ、同じようにこちらを見ていて、何も言わずに、目を細め返してくれた。自分たちを、見守る眼差しがあることを――今この瞬間だけではない、ずっとそのあたたかな眼差しがあったことを、背中で感じる。
誰かが、そっと息を呑んだ気配がした。それは祝福と同じ意味なのだと、もう、わかっている。
あとは、言葉が交わされ、手が重なり、光が、そこに留まっていただけだった。
長くもなく、短くもなく。気がつけば、肩に落ちていた光の向きが、少し変わっている。
――終わったのだと分かったとき、胸の奥にあったのは、安堵よりも、あたたかさだった。それはきっと、二人だけのものではないのだろう。
教会を出ると、空気の色が変わった。
白く澄んでいた光は、ほどよく緩み、人の声がそこかしこから重なってくる。
宴のために連れ立って宿の一階へ足を踏み入れた途端、鼻先をくすぐったのは、焼き立ての香りだった。煮込みの湯気、焼き目のついた肉の匂い、刻みたての香草。それらが混じり合って、胸の奥に、ほっとする重さを落としてくる。
椅子が引かれ、皿が置かれ、誰かが笑う。さっきまでの静けさが、嘘のようだ。
「はいはい、こっちね。冷めないうちに」
いつの間にかエプロンをかけたマルタの声が、食堂をきびきびと行き交っていた。大きな皿に料理をよそい、次々と運んでいく背中は、いつもと同じで――それが、なぜかひどく心強い。
思わず、袖に指をかけた。
いつもの癖で、きゅっと捲ろうとして――その動きが、途中で止められる。
「何してるんだい」
誰かが笑い、別の声が重なる。
「今日は働く日じゃないだろ」
「花嫁さんは、座ってなさい」
はっとして手を下ろすと、周囲からやさしい笑いが広がった。そのまま椅子を勧められ、肩を押されるようにして座らされる。
「恥ずかしい。つい……」
小さく呟くと、マルタが振り返り、にっと笑った。
「今日はね、食べる係だよ」
皿が目の前に置かれる。
湯気の向こうでは、いつもの料理が、少しだけ晴れやかな顔をしていた。
皿が行き渡ると、あちこちで椅子が引かれ、食器が触れ合う音が重なる。誰かが演説めいた祝辞を言いかけるのを、ロドリクが乾杯で遮って、笑いが起きる。そんな始まり方だった。
湯気に顔を近づけると、見慣れた匂いがふわりと鼻先をくすぐる。
――ああ、これだ。口に運ぶ前から分かる。自分の好きな味だった。
思わず頬が緩み、隣を見れば、アストンも同じように皿を覗き込んでいる。その横顔を見て、ふと、胸の奥に浮かんだことがあった。
ね、と小さく声をかけると、アストンがこちらを向く。
「マルタさんの料理で一番好きなの、なに?」
実は今までも、好きな食べ物をそれとなく聞いたことが、何度かあった。そのたびに答えが違っていたものだから、ひょっとするとあまりこだわりがないのかもしれない。それでもこればかりは、今のうちに聞いておかなければならなかった。
アストンは首を傾げるようにして少し悩む。それから、ぽつりとつぶやいた。
「魚の……トマトのやつ……」
「魚のトマトのやつ?」
思わず繰り返してから、マルタの方を見遣る。苦笑いと一緒に、ほかにヒントはないのかい、という声が飛んできた。
「野菜が入っていたな」
「そりゃ手掛かりになりやしないよ。スープかい? 煮物?」
「どちらだったかな……どちらでも、美味いと思う」
曖昧な返事と、今まで食べたことのある料理をあれこれと結びつけるうちに、気付けば黙ってしまっていた。ふと隣を見ると、アストンは困ったような顔をしている。不服そうな表情をしていただろうか、と慌てて口元を隠した。
「今のうちにね、マルタさんの料理をそのまま作れるようにしておきたくて……」
「なぜそのまま……?」
ティアが作る料理も美味いが、と讃辞がしれっと挟み込まれて、指先がもじもじとテーブルクロスの端を弄ってしまう。けれど流してしまうわけにはいかず、ぱっと顔を上げた。
「アストンのお母さんって、マルタさんから料理を習ったんでしょ。お母さんの味を作ってあげられるようになりたいと思って」
「ティア……」
名を呼ばれただけで、続きはなかった。言葉を探しているのか、それとも、見つからなかったのか。アストンは目を伏せ、まばたきを一つ多くしてから、またこちらを見る。目が合うと、言葉の代わりに、微笑みを浮かべてくれた。
それからふと、視線が皿の上を一度だけなぞる。ゆっくりとパンに手が伸び、言葉を選ぶような間を空けながら、端を小さくちぎった。
「でもマルタさんと母さんの料理は、結構違うところもあるぞ。うちの粥は甘かったが、マルタさんのは塩辛いし……」
「えっ、そうなの?」
「そういや結婚当初は塩辛かったな。俺が甘いのがいいって言ったんだよ」
加わったロドリクの声に、あちらこちらと顔を見比べる。
「最初に教えたのは私だけど、ロドリクとアストンに合わせて変えていったんだと思うよ」
「そうなんだ……」
思わずがっくりと肩を落としてしまえば、マルタの笑い声が降った。アストンはおろおろとしながら、でもマルタさんの料理は美味いから有り難いことだ、と慰めてくれている。
机の上には、まだ習得も道半ばの料理たちがたくさん並んでいる。それを未練がましく見つめていれば、マルタはふっと笑った。
「ティアちゃんも一緒。私の味そのままを作ろうとしないで、アストンや、ティアちゃん自身の好きな味にしていったらいいんだよ。それが家庭の味になるんだから」
手元のスープに目を落とす。金色の湯面は、やわらかな湯気を立てながら、静かに揺れていた。
何度作っても、どこか違う仕上がりになる味。それでも、アストンはきっと、美味しいと言ってくれる。
——同じには、ならないのだ。
マルタの味にも、母の味にも。けれど、だからこそ。
スプーンでひとさじ掬うと、口の中で芋がほろりとほどけた。肉と塩の旨味に、野菜の甘さが重なる。
きっとこの味も、これから少しずつ、変わっていく。自分たちの暮らしに合わせて。
それでいいのだ。それがいいのだと、思った。
一日を終える頃にも、湯で洗い流したはずなのに、髪にはまだ、かすかに花の香りが残っていた。櫛で梳いた髪を背に流しながら、鏡の前で、小さく息をつく。
机の上には、昼に身につけていた花輪と、外した髪飾り。布の上に並べてみても、どうにも、すぐにしまう気にはなれなかった。
結局、ドレスは軽く畳んだだけで、椅子の背にかけてある。皺にならないように、と気をつけたつもりでも、きっと完璧ではない。それでも――今日は、それでいい気がした。
視界の端に、白い布が揺れているのを確かめてから、寝台に腰を下ろす。目を閉じても、ふと開けば、まだそこにある。薬指にはめてもらったばかりの指輪をかざし、唇を寄せれば、日中の鼓動がまだよみがえるようだった。
今日だけは。もう一晩だけ、こうして眺めて眠ろう。
そう思ったところで、控えめなノックが響いた。
「ティアちゃん、まだ起きてるかい?」
マルタの声だ。今までも、急な仕込みの手伝いや、もしくは客には内緒のココアのお誘いや――来訪はあったものだから、すぐに返事をする。今夜はどちらかと思えば、その手には小さな紙包みがあった。
「これはね。私とエドガーから、結婚のお祝い。これからきっと、何かと物入りだろうから」
少ないけれど、と足すのを聞きながら、包みの端を開けてみる。中は紙幣で――思わず、取り落としかけた。自分の、ひと月の給与ほどの額が入っている。
「これ、こんな……」
「いつか出て行くときに渡そうと思って、ティアちゃんが宿代を払ってくれる中から、少しずつ抜いておいたんだよ。だから、元々はあんたの分。気にしないで、持って行って」
そんなはずはない。だってそもそも、払っていた額だって。
食事の手伝いをしているから。
宿のシーツやタオルも一緒に洗濯をしているから。
庭先の木の枝を払ったから。
そんな口実――ああそうだ、きっと理由ではなく、口実だった。口実をつけて、気付けば最初よりも随分値引いてくれていたというのに。
どうして、と問いかけた口を噤む。代わりに、手の中の包みにそっと額を当てた。
紙越しに伝わる温もりが、なぜかひどく重たく感じられて、息が詰まる。顔を上げられずにいると、寝台の軋む気配がした。
すぐそばに来たマルタからは、いつもの台所の匂いがした。煮込みと、石鹸と、薪の残り香が混じった匂い。そのまま、ぽつりと声が落ちる。
「……料理ね。おいしいって、何度も褒めてくれただろう」
言葉はそれきり、宙に置かれたままになった。近くの酒場からの笑い声と楽器の音が、春風に乗って窓の隙間から入り込む。
「息子たちも巣立ってしまったし、ここ最近まではエドガーもあんまり帰ってこなかったから。連泊する客がいなけりゃ、一週間同じ料理を作ることだって、あったんだ」
マルタは言いながら、エプロンの端をなぞる。その指の背に皺が出来ていることに、今頃になって気が付いた。
喧騒は遠い。けれど、ふっと、息を吐くような笑みが零される。小さく舞い込む音楽は、どこかで聞いたような旋律でいて――明るく飾り立てられていたものだから、それとしばらく気が付かなかった。
子守歌だ。母から子へ贈る、愛しい調べ。
「でもティアちゃんが、これが好き、また食べたいって、よく言ってくれてさ。また、誰かと食べるための料理を作れて、楽しかった……」
「マルタさん……」
指先が、無意識に紙包みの端を握っていた。
客の去った卓に二人で皿を並べ、夕飯を囲んだ日々がよみがえる。
くだらない話に笑い転げたこともあった。噂話に目を丸くしたこともあった。愚痴をこぼしたことだってあった。その前にはいつも――マルタの手料理が、湯気を立てていた。
思い浮かべるたび、続く言葉は、瞼へ込み上げる熱に堰き止められた。
自分の座る食卓はもうじき、アストンと作るものになる。いつかは、二人の子供たちも加わってくれるのだろう。
そこに並ぶ料理は、昼間にマルタが話してくれたように、家族の好きな味にきっと変わってゆく。それはとても待ち遠しくて、胸の奥で灯りを育てるような心地すらした。
――それでも。味が変わることは、どこか怖い。台所で過ごしたあの時間まで、遠くなってしまう気がするからだった。
「私、もしかしたらたまに……味の変わっちゃうことが、寂しくなる時があるかもしれないんです。そんなの……それは……」
きっとマルタの望むことではない。けれどそれをどう言葉にすればいいのかわからず、引き絞られるような切なさだけを、手のひらの上で持て余す。滲む視界を誤魔化すように瞬けば、声が、やさしく背に触れた。
「そのときは、いつでも食べに帰っておいで。……理由なんてなくたっていい。いつでも、ここで待っているよ」
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。守らなければ消えてしまうものではなかったのだと、ようやく分かった。
喉の奥が熱くなって、視界が滲む。それでも、不思議ともう、怖くはなかった。
「……はい」
小さく答えてから、涙のまま、笑った。
窓の外には、街の営みを映すように、灯りが広くともっている。
いつか、またここから見下ろすとき。灯りには、どこか変わりがあるだろうか。それとも、今日と同じままなのだろうか。
どちらでもいいと思った。ここで過ごした時間は、もう十分に、この胸の中にある。
窓の外では、酒場の音楽がまだ続いていた。弦の音に混じり、低く長い笛の音がひとつ、夜に溶けていく。
それはまるで、いつか波止場で聞いた、出航の合図にも似ていた。




