84.愛した仕事たち、これから愛する仕事たち
仕事着のボタンを留めながら、そろそろ肌着を買い替えようか、と思った。
気付けばくたびれてしまっているから、新しく替えれば背筋が伸びる気がする。――これから先も、こうして働くなら。
それに、引っ越しの荷造りに合わせて、不要なものは処分もしてしまいたかった。
それ以上の意味は思考から掃き出して、姿見に自分を映す。くるりと回れば、ちゃんといつも通りの出勤姿だった。
「行ってきます」
厨房のマルタが、いってらっしゃい、と笑いかけてくれる。それに笑い返してから、きんと冷えた朝に飛び出した。
診療所への通い慣れた道を歩きながら、ここももう半月ほどすれば通わなくなるのだ、と思った。
収穫祭で世話になった肉屋の前を通る。祭りの後からは、主人はこちらの姿を見かけるたび――魔獣の肉を稀に入荷していれば、大きな声で呼び止めてくれるようになっていた。
主人と目が合う。
「おはようございます」
おはよう、と挨拶と笑みが返る。一瞬、店先へ視線をやったけれど、今日も目当てのものはやはりない。
そのときふと、店の奥から、奥さんの気配がした。帳場の向こうから、何かを並べ替える音がする。あの人は、毎朝こうして店を開け、客を迎え、昼には帳をつけ、夕方には売れ残りを片づけるのだろう。
自分も、いつかは。
診療所へ向かう代わりに、革の匂いのする店の中で、奥の作業場へ声をかけるようになるのだろうか。そう思うと、不思議な心地がした。
診療所の朝は、いつも同じ音から始まる。
薬草を刻む刃の響き、湯の音、布の擦れる気配。
診療が始まれば、測り、量り、話を聞く。患者の声に応じて、こちらの手も動く。
結婚式が近いことも、引っ越しのことも、仕事の最中には浮かんでこなかった。
午後の診療がひと段落し、薬棚を閉じる頃には、外の光はいつの間にか傾いていた。
日に日に、夕方が明るくなっていく。春がもう近いのだろう。
窓際で器具を洗えば、立ちのぼる湯気に、嗅ぎ慣れた薬品の匂いが混じる。何気ない片付けの中、帳面をめくっていたベネディクトが、ふと思い出したように顔を上げた。
「来週でしたね。挙式は」
「はい。来週が式で、次の週に引っ越します」
平日で、本来なら診療のある日だ。それでも式だけは顔を出すと、以前に言ってくれていた。
都合が悪くなったのかとそっと様子を窺ったけれど、あっという間ですね、としみじみとした声が続いただけだった。
「来週と再来週の出勤は、午前だけでよろしいですよ」
「いえ、まだ入れます。出来るところまでは……」
言い切る前に、穏やかに首を振って制される。
「普段と違う日は、思っている以上に疲れが溜まるものです。体を休めるのも、仕事のうちですよ」
声音はやわらかいけれど、譲らないときの音だった。
だから、ありがとうございます、と答えて、洗い終えたガラス瓶を籠に伏せていく。湯から上げても、まだガラスはあたたかく、湯気の気配を纏っていた。
「そういえば、向こうでのお仕事は? 旦那さんのお手伝いでしょうか」
「ゆくゆくは、それもいいのかもしれないんですけれど……」
いつか、アストンがまた、店を持ったならば。そのときはきっと、そばに子供もいるだろう。
父になったアストンは、作業の傍ら、上の子に仕事を教えてやるのかもしれない。自分は下の子を抱き、その光景を眺めながら、店の守りをしている。
それはとても、満ち足りていて、いつか夢に見た生活だと思った。
――けれど。
言葉を探すように、小さく息を吸う。本当の気持ちがいくつもあっても構わないのだと、マルタは教えてくれた。
「先生から沢山教えていただいたことを、折角ですから、誰かを助けるのに役立てたいと思っていて……また、薬局で勤められたらと思っています」
口にしてみれば、言葉は自分の胸の中へ、するりと納まった。
「経験年数も浅いので、うまく見つかるかは心配ですけれど……でも、街じゅうの薬局をあたるつもりです。私、しつこいので」
笑って見せると、ベネディクトは、そうですか、とそっと笑った。そうして椅子を引き、机の前に腰を下ろす。
引き出しの擦れる、控えめな音。
机の奥から取り出されたのは、一通の書状だった。
「では、私から結婚祝いです」
受け取った封筒の紙は、普段触れるものよりもずっと厚く、ほとんどたわまなかった。赤い封蝋は冷たく硬く、診療所で何度も目にしてきた紋章が、くっきりと刻まれている。
「推薦状です。これを持っていけば、どの医局でも薬局でも、まず断られることはないでしょう」
その言葉が、すぐには意味を結ばない。最初に浮かんだのは何故だか、薬草を煮すぎた光景だった。
患者に短慮な慰めの言葉をかけて、叱責された日もあった。
薬の説明が抜けて、診療所の外へ患者を追ったこともあった。
それでも――それなのに。
「よく働いてくださいました」
確かな、優しい声だった。
胸が熱くなる。
紙越しに伝わる重みが、これまでの時間そのもののように感じられた。そして同時に、それが終わりではないことも。
「ありがとうございます、先生……」
声が震えないように気をつけたつもりだったけれど、少し掠れてしまった。
ベネディクトはただ、どういたしまして、と微笑んでくれた。
封筒を胸元に抱えたまま、しばらく言葉が見つからずにいると、ベネディクトは視線を外し、背後の棚へと歩いた。古い背表紙が並ぶ薬棚は、長年に渡って触れられてきたせいか、ところどころ色が褪せている。
「それから、これも」
棚の端から取り出されたのは、薄手の本だった。革の表紙は柔らかく、角が丸くなっている。頁を開くと、紙は少しだけ潮の匂いを含んでいるように思えた。
「海辺の方で書かれたものです。港町でよく見る症例や、向こうで手に入りやすい薬についてまとめられています」
差し出しながら、言葉がその上に重ねられる。
「症例そのものには、それほど大きな違いはありません。ただ、手に入る薬が違いますから。参考にはなるでしょう」
お礼とともに両手で受け取り、そっと表紙を撫でる。自分の知らない土地の空気が、ここにも少し混じっている気がした。
「そういえば、ここでは、魔獣由来の薬をあまり見かけないですね。私の故郷では、熱が出たときなんかは、薬草よりも魔獣の肝を出されることが多くて……」
言いながら、あの独特の匂いと、苦みを思い出す。味は苦手だったけれど、効き目は確かだった。
「そうなのですか。仕入れ先で見かけることは、たまにありますが……こちらでは高価ですからね」
少し考えるように顎に手をやって、医師は続ける。
「扱うにも、運ぶにも手がかかるからでしょうかね。私自身も、煎じ方にそれほど詳しいわけではありませんし」
聞きながら、棚に並ぶ瓶をふと見やる。
発熱を鎮める薬草は、一番取りやすい場所に座っていた。頭の中でその隣に、肝の入った瓶を並べる。一日経ち、一週間経ち、ひと月経ち。そうする間に薬草は何度も補充をするけれど、肝の瓶はきっと、埃をかぶってゆくのだろう。
よく効いたとしても。
「土地が変われば薬も変わる。そして人は、手の届くものを使う」
独り言のような言葉が、胸の中で小さく反響した。
港町にもきっと、こことは違う棚があり、違う選択肢があり、まだ触れられていない知識があるのだろう。
「……勉強になります」
そう言うと、ベネディクトはわずかに口元を緩めた。
「ええ。まだ先は長いですから」
そう言われて、胸に抱えた二つの重みを、そっと抱え直した。
棚に並ぶ瓶の列は、いつもと変わらず、静かに並んでいる。煮沸した器具の湯気が、かすかに甘い薬草の匂いを運んでいた。
診療所を出て、宿への道をそのまま戻りかけてから、ふと思い出す。そういえば、肌着を買い替えようと思っていたのだった。
思い立ったうちにと考えて、角をひとつ曲がる。
石畳の上を渡る風は冷たいけれど、骨まで刺すような寒さではない。冬の名残を抱えたまま、どこか緩み始めた空気だった。
なめし工房の前を通りかかると、開け放した扉の奥から、作業の声が漏れてくる。革を打つ鈍い音と、湿った匂い。その合間に、ぶつ切りの会話が混じった。
「中は肉屋行きか?」
「ツラは猪みたいだが、食えるのかね。内臓はどうする?」
「わからんから、全部処分してくれ」
足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
けれど、歩みは緩めず、そのまま通り過ぎた。
──そういえば、と、胸の奥で記憶がひとつほどける。
秋の頃、ドンブク退治をしたあと、畑の主人はぼやいていた。ドンブク除けの薬が店に並んでおらず、自分では追い払えなかった、と。
あの薬の中身が腺だということを、彼は知らなかった。ただ効くから使っていただけで、どうして効くのかは、考えたこともなかったのだろう。
──分からないから、捨てる。
──分からないから、使われない。
工房の中で交わされた言葉と、あの畑の光景と──薬草ばかりの並ぶ薬品棚が、静かに重なる。
吐く息は白く滲み、茜色の光にほどけて消えた。
捨てられているものと、高価すぎて使われないものの間に、まだ誰も立っていない場所があるのではないだろうか。
それが仕事になるのか、どんな形になるのかは分からない。ただ――。
これまで未来を思い描くとき、頭に浮かぶ景色はいつも二つしかなかった。薬局の棚の前に立つ自分か、薬のことを忘れて、アストンの店で働く自分か。
けれど、なめし工房の奥から聞こえてきた声と、薬棚の光景が、胸の奥で重なっている。革の匂いと、薬の知識は、まったく別のものにはもう思えなかった。
隣で同じ棚を覗き込み、互いに分からないところを指差し合う――そんな光景が、形を持たないまま胸をよぎる。
もしかすると、自分の居場所は、今まで描いていたうちのどちらか一方ではないのかもしれなかった。
顔を上げれば、夕陽に染まる石畳の割れ目から、小さな黄色の花が顔を覗かせていた。初春の到来を告げる、鮮やかな色。その上を、軽やかに飛び越える。
まだまだ、知るには世界は広い。
弾むように駆けるのに合わせ、肩から掛けた鞄が揺れる。その革紐を握り直しながらながら、今夜は、貰ったばかりの薬学書を開いてみようと思いを馳せた。




