86.カーテンコールの向こうへ
馬車が坂を上りはじめたあたりから、揺れが目に見えて大きくなった。
石畳の継ぎ目を拾うたび、車輪がごとり、と重たい音を立てる。身体が左右に振られ、無意識に、隣のアストンの袖をつかんでしまった。
「大丈夫か?」
うん、と頷く。その言葉通り、本当はもう、それほど揺られていなかったけれど――まだ不安定なふりをして、袖の端を摘まんだままでいた。そのせいで少し熱くなった頬に、アストンは気付いているのか、いないのか。目を細めて、もう少しだ、と言った。
坂道は長く、息を詰めるように続いている。けれど、途中から、空気がわずかに変わったことに気がついた。
――潮の匂いだ。
まだ遠いはずなのに、風に乗って、塩気と、どこか油のような匂いが運ばれてくる。耳を澄ませば微かに、低い汽笛の音も混じっていた。
「……見えてきたな」
ぽつりと、アストンの声が肩へ落ちた。聞き返すより早く、馬車は坂の頂へと差しかかる。
その瞬間だった。
視界が、ひらけた。
眼下いっぱいに広がるのは、白い帆と、林のように並ぶマスト。陽を反射する水面と、その周囲に重なる屋根、屋根、屋根。
港だった。
大きな船が何隻も並び、岸壁では人が行き交い、荷を運ぶ声が飛び交っている。遠くでは、海鳥が輪を描いていた。
「わあ……」
思わず、息がこぼれた。こんな景色は、これまで見たことがない。窓の隙間へ鼻先を寄せれば、潮風と一緒に、胸の奥へ何かが流れ込んでくる。
ここが、グランヴィエ。新しい生活を始める街。ふと振り向けば、アストンの顔が思いの外そばにあり、鼓動が跳ね上がった。それから、同じように身を乗り出していることに気が付く。
だから目が合うと、二人して、思わず笑ってしまった。
馬車は坂を下りはじめ、やがて、人通りの多い通り沿いで止まった。石畳へ降り立てば、大きな車輪はまたあっという間に去っていく。
「荷物は、夕方に届くんだよね」
「そうだな、それまで少し休むか。座り通しで身体が痛い……」
道の端で、アストンが少し伸びをする。ボタンを外したままだったジャケットの裾が揺れ、ベストとズボンの隙間から、白いシャツが垣間見えた。思わず、目が留まる。
「……すまない、行儀が悪かったな」
視線に気が付いたのか、慌ててボタンが留め直される。自分の眼差しが不埒だったような気がして、少し気恥ずかしかったけれど――。
べつに、少しくらい見てしまっても、きっと構わない。だって、もう夫婦なのだ。
「いえいえ……」
恥ずかしくて笑ってしまった口元を隠して、わざと芝居じみて言えば、アストンの動きが一瞬止まる。それから照れたのを隠すような顔で、軽く肘で小突かれた。
よく晴れているからか、風があたたかい。そのせいで、胸がずっとくすぐったい。
冗談を言ってアストンに軽く小突かれるなんて、半年前の自分が聞けば、どんな顔をするだろう。たったふた月ほど前でも、まだ信じられなかったかもしれない。
気の抜けた姿。気安い動作。それを意外に感じなくなってゆくことが、足取りを軽くさせる。
通りには、魚屋の呼び声、鍛冶の音、パンの焼ける匂いが混じっていた。どこもかしこも忙しそうな街は、通りのあちこちから息遣いが感じられる。
小さな荷物を持ち直し、並んで、坂道を歩きはじめた。
港から少し離れるにつれて、通りは静かになり、建物の背が高くなっていく。洗濯物が風に揺れ、窓辺には鉢植えが並んでいる。誰かの暮らしが、そこかしこに満ちている。
「ここだ」
立ち止まった先にあったのは、石造りの高い集合住宅だった。一階には、小さな雑貨屋と、管理人室らしき窓が並んでいる。見上げて、一、二、と階数を数え、五まで辿り着いて思わず瞬いた。今まで暮らしてきた街では、こんな高さは見たことがなかったのだ。
アストンについて行くと、一階の端に小さな窓口があった。声をかけると、奥から年配の男性が顔を出す。
「ああ、アストン君だったな。来たか」
そう言ってから、隣の自分へと視線が移る。
「で、こちらが奥さんだね」
「はい、妻のティアです。……家具の件も、ありがとうございました」
アストンが頭を下げるのを見て、自分も慌てて同じようにする。男性は軽く手を振り、いいさいいさ、と笑った。
「鍵だな。ちょっと待ってくれよ」
帳面を確かめているその奥から、幼い子供の歌うような声がする。子供にしては小さいけれど、孫と言うには早いような気もする。気になれば止まらず、つい尋ねてしまった。
「お子さんですか……?」
男性が二度ほど瞬く。その反応だけで間違いを悟り、頰が熱くなってしまった。そこに笑い声が追い打ちをかけてくる。
「子供! はは、そんなに若く見えるか。三階の子だよ。仕事に行ってる間、かみさんが預かってるんだ。賑やかだろう」
奥の方から、誰かの笑い声がかすかに聞こえてきた。それと混ざるようにして、金属の音がカウンターに乗る。鈍い金色に光る、鍵。
「何かあったら、すぐ言いなさい」
その声が、階段まで響く子供の歌声と混じって、長く耳に残る。まだ知らないはずの街が、急に少し、自分の手に触れたような気がした。
行こうか、とアストンが階段の方を示す。そうして一度だけ、窓口の奥を振り返ってから、並んで歩き出した。
張り切って階段を上れば、踊り場を通るごとに、窓からの視界が上がってゆく。
それにつれて、扉の向こうから子供の笑い声が聞こえたり、鍋の匂いが漏れてきたりした。知らない誰かの生活が、すぐそばにある。それが、不思議と心地よかった。
次の階まで上がれば隣の家の屋根を追い越す、と思ったところで、後ろを上っていたはずのアストンの姿が見えないことに気が付いた。慌てて戻れば、狭い壁に手を突きながら進む姿がある。
「ごめんね、つい……」
「早いな、流石……家、四階、だ……」
息を切らしながら上ってきたものだから、思わず笑えば、アストンも小さく笑った。
ようやく辿り着いた先で、アストンは鍵を取り出した。
「ここだ」
小さな扉の前で、深く息を吸う。
――ここが、これからの家。身を寄せる仮住まいではない、自分とアストンとの家。その言葉が胸の奥で、静かに形になっていく。
鍵が回り、小さく軋みながら扉が開いた。
差し込んだ光に、しばらく目を細めてから、そっと中へ足を踏み入れる。
室内は、思っていたよりも明るかった。正面には、大きな窓。その下には、使い込まれた食卓と椅子が二脚。壁際には、低い棚と箪笥が並んでいる。どれも年季は入っているけれど、手入れが行き届いていて、すぐにでも、暮らせそうだった。
「すごい、本当に全部揃ってるんだね」
「親父が使っていたままだからな。気に入ったものを見つければ、追々買い替えてもいい」
そう言いながら、アストンは荷物を壁際に置く。
床には、薄い絨毯。窓辺には、淡い色のカーテン。どれも派手ではないけれど、落ち着いた空気があった。
カーテンに手をかけ、そっと引く。
その瞬間、光が流れ込んだ。午後の陽が、床に長く伸びる。
そして、その向こうに――
「わ……!」
思わず、声がこぼれた。
坂の途中にある建物だからだろう。屋根の向こうまで視界が抜けて、その先に、青い海が広がっていた。
港に並ぶ船。きらめく水面。ゆっくり動く白い雲。
思っていたより、ずっと、近い。
「見て見て、すごい!」
思わず呼んでから、アストンはすでに一度来ていることを思い出して、恥ずかしくなった。けれども寄ってきたアストンは少し息を詰める。そうして、そっと吐き出すように呟いた。
「本当だ、きれいだな。……前はもっと、灰色だった」
その呟きに隠れた感慨の重さは、少しだけ、手に取れるような気がした。だから小さく、きれいだね、とだけ笑う。
開けた窓の先には、港の船影までがはっきりと見渡せた。陽を受けてきらめく水面の向こうで、白い帆がゆっくりと揺れている。
やわらかな風が、レースのカーテンの端を揺らす。振り返ると、室内は、光に満ちていた。
ふと、背後にある台所へと目を向ける。
小さな流しと、作業台。その壁に、濃い青の模様のタイルが並んでいるのに気が付いた。
「……可愛い」
思わず指でなぞる。長年使われてきたらしい、小さな欠けも混じっている。それなのに、不思議と温かい。
これから、ここで料理をするのだ。スープを煮て、卵を焼いて、時々失敗して――それでも、二人で食べるのだ。
続いて、奥の扉に目が留まる。
「……こっちは?」
何の部屋だろう、と首を傾げながら、そっと開けてみる。
次の瞬間、思わず動きが止まった。窓とクローゼット、簡素な棚。そして――中央に、ひとつだけの、大きな寝台。丁寧にも、二人分の枕がもう並べられている。
その背後から、ひょいと覗き込むように、アストンが顔を寄せてきた。
「枕まで手配してくれたんだな」
耳元に近い声。近すぎる距離。思い出したように、どきん、と心臓が跳ねた。
誤魔化すように部屋の中へ入り、見渡すふりをする。けれど、胸の奥はまだ少し熱い。寝台にそっと手を触れれば、シーツの冷たい感触が手のひらを滑った。
ここで、眠るのだ。そうして、二人で朝を迎える。これから先、何度も。
「……いい場所だね」
短い言葉に込めた気持ちは、きっと全部、伝わっている。
アストンは少しだけ照れたように笑って、俺もそう思う、と静かに答えてくれた。
そうこうしているうちに、衣類や姿見、本などの荷物が届いたけれど――そこからが大変だった。
アパートの前に降ろされた荷物を、すべて四階まで上げなくてはならない。出発のときのように自分がまとめて運ぼうと思ったものの、階段が急で、積み重ねてしまえば前が全く見えないのだ。
何往復もするうちに、たかだか四階と言っても息が切れてしまって――そしてどうやら四階は、たかだか、とは言わないらしいことを今日知った。上るのが大変なのに、ヒトはどうしてこんなに高い建物を作ってしまうのだろう。
「取り敢えず……これで今日はお終いだな……」
アストンは最後の荷を運び入れると、やり切ったという顔で見渡した。最初に羽織っていたジャケットはいつの間にか、椅子の背が着ている。
「蝋燭もマッチも残りがあるし……明日までは何とかなりそうだな」
だからもう出たくない、という気持ちが声に滲んでいて、つい少し笑ってしまう。けれどそれからすぐに、気が付いてしまった。
「でも、食べるものがないね」
うめき声が一つ。それから、ベスト姿がソファにふらふらと倒れ込む。私が行ってこようか、と声をかけるとふにゃふにゃの声は、一緒に行きたい、とこぼした。
アストンは目元に手を当てたまま、動けずにいる。けれどそれをみっともないとは、微塵も思わなかった。だって、知っているのだ。重いものも大きなものも、先に運んでくれていたことを。
絨毯に膝をつき、そっと傍に寄る。足音を立てないようにしたのは、途中で顔を上げられてしまえば、きっと羞恥に挫けてしまうからだった。
いつの間にか差し込む陽は赤く、自分の影が、アストンの上に長くかかっている。無意識に周囲を見渡してから、誰も見ておらず、何の邪魔も入らないことに気が付いた。
小さく息を詰め、思い切って、唇を寄せる。
「……お疲れさま」
軽く押し当てただけだというのに、唇のやわらかさに、鼓動が跳ねる。そうしてそっと目を開けると――丸く見開かれた瞳と、視線が絡んだ。
途端に、恥ずかしさがどっと込み上げ、慌てて離れようとする。けれどその背は、捕えるように引き寄せられた。
引き留めた手の早さに反して、アストンの視線は気恥ずかしげに落ちる。吐息だけが頬にかかり、うるさいほどの鼓動に耐える時間ばかりが重なってゆく。
「……ティア、」
かすれた声と一緒に、遠慮がちに唇が寄せられる。また距離が縮まり、やわらかな熱が触れた。
堪らず、ベストの胸元を、きゅっと掴む。まるで、ねだるような仕草をしてしまって——ような、ではない。知らず、欲しがっていた。
小さく息を呑む気配が落ちた後、さっきよりも少しだけ長く、少しだけ深く、唇がまた重なる。
今までは人目を避けて、一日の別れ際に、一度だけだったのに。今日だけで、これまでのすべてを追い越すように、何度も、何度も口付け合う。頭がぽうっとして、崩れかける身体を抱き寄せられる。そうしてまたもう一度、唇を寄せ合おうとしたとき——
低い鐘の音が、窓の外に響いた。
反射的に、外を見遣る。今までの街とは少し違う音。それでもこれも、夕刻の鐘だとわかる。
アストンも同じように、暮れなずむ空に響く音を、見詰めていた。その横顔を見ながらふと、いつかの言葉がよみがえった。
思いを告げてくれた日。アストンは微笑むように、切ないほどの心の内を手渡してくれた。
——本当は、夕刻になっても返したくなかった、と。
まだ鐘の音は続いている。それに構わず——構わなくてよいことを噛み締めるように、アストンの唇が、やわらかく食んだ。
ゆっくりと離れ、名残を惜しむ気持ちが生まれる前に、また触れられる。額が触れそうなほど近いまま、しばらく、どちらも言葉を失っていた。
静かだった。窓の外では、遠くの話し声と、風に揺れる洗濯物の音だけが聞こえる。
――そのときだった。
きゅるる、と。思いのほか、はっきりとした音が鳴った。一瞬、何が起きたのか分からず、次の瞬間、顔が一気に熱くなる。
「あっ、違っ……」
違わない。どう考えても、自分のお腹だった。恥ずかしさと、情けなさと、よりによってこんなときに、という名残惜しさが混ざって、思わず俯く。
けれど。
ふふ、と。小さな笑い声が落ちた。顔を上げると、アストンは、どこか嬉しそうに目を細めている。
「そろそろ、買いに行くか」
軽やかな声と一緒に、そっと額に口付けられた。
「……まずは、腹ごしらえからだな」
じゃれるようで、それでいて、優しい声だった。胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「……うん」
小さく頷いて、手を伸ばし、今度はこちらから、指を絡めた。
満月の浮かぶ頃には、部屋の外はいつの間にか静かになっていた。通りを行き交っていた声も、遠くの船の音も、今はもう聞こえない。
蝋燭の火が、小さく揺れている。
「……そろそろ、休むか」
アストンの声は、いつもより少し低かった。
うん、と心持ち小さく返事をしながら、ガウンを肩から落とし、先に寝台へ上がる。きし、と音を立てて、奥の方へ身を寄せた。
白いシーツは、まだ少しひんやりとしている。ちらりと振り返ると、アストンは縁に腰を下ろしたまま、動かずにいた。両手を膝の上に置いて、ただ床を見つめている。
——来ないのだろうか。
そう思ったけれど、口にすれば何かをねだるようで、もしくは不意にしてしまうようで、言葉が出せない。胸の奥が落ち着かず、期待と不安とが絡まり、ほどけない。自身を落ち着かせるように枕を抱き、そっと身体を寄せた。
「……アストン?」
小さく呼ぶと、びくりと肩が揺れた。言葉を必死に探すような間があった後——そうだ、どうして忘れていたのだろう。アストンが押し黙るときはいつも、こちらへ渡す言葉を選んで束ねているときだった。
俺の思い違いでなければ、と、枕の言葉が置かれる。
「想いを伝えるより、だいぶ前から……好きで、いてくれただろうか」
思わず、瞬いた。何の脈絡もない話であるように感じるけれど、アストンにとってはきっと、そうではないのだろう。
だから、そっと頷く。
「うん。……わかりやすくしてたつもりだったのに、ちっともこっちに来てくれないから、気付いてないのかなって思ってた」
ちゃんとわかってたんだ、と唇を尖らせれば、アストンの焦るような気配があった。
「ティアに触れなかったのは、言葉で伝えるまでは、そうするべきではないと思っていたからで……」
つい、少しだけ笑ってしまう。不満に思っていたなんて、嘘だ。
「大事にしてくれてたの、知ってるよ。ありがとう」
「あ、いや……それが言いたかったんじゃないんだ……」
まだ手に取る言葉を迷っているのか、アストンは言い淀んでいる。その横顔に、じわじわと朱が広がっていった。
「だから、その……触れたいと思っていなかったわけではないんだ……」
その言葉に、息が詰まった。
想いを告げるまでは、触れられもしなかった手。将来を約束しても、額に、頬にばかり落ちていた唇。大切にしてくれているのだと思う一方で、自分ばかりが、はしたなくも求めてしまっているのだとも感じていた。
――違ったのだ。
押し込めていただけだった、という事実が、胸の奥に、頬に、じわじわと熱を灯していく。
「いや、ずっと邪な目で見ていたわけじゃない、それは本当なんだが、その、」
弁解を重ねる指先は、何度も自身の寝間着の膝を掴み損ねている。そうして最後に、布地の端が強く握られた。
「……本当は、もっと、触れたい。……どうか、幻滅しないで欲しい」
朱の差す横顔から零れたのは、掠れた声だった。
胸が射抜かれ、熱が、ひといきに込み上げる。何が言いたいかなんてすぐわかった。夫婦になって最初の晩で、ふたりとも寝間着で。
そしてそれは、今になってようやく芽生えた欲求ではない。ずっと、そんなふうに思っていたのだと言う。
知らなかった。けれど――胸に落ちた熱の輪郭に手を伸ばす。熱くはなく、ぬくもりが触れる。今のこのあたたかさはなんだろう。動揺ではない。喜びはあるけれど、少し違う。
きっと、胸の奥がほどけるような、安堵だった。
隣の肩に額を預けると、アストンの身体が跳ねた。寝間着は普段のシャツよりもずっと薄いからだろうか。それとも、アストンの身体が熱いからだろうか。肌の温度がいつもより近く額に触れる。
脳裏によみがえるのは、父親が帰ってきたばかりの頃の彼だった。
垣間見た姿はそれまでよりどこか少し、幼く見えた。それを初めは、ずっと歳上の男性がそばにいるから、比べるとそう見えるだけかとも思っていた。
けれど、違う。それまでは店主であろうとして、自身の中に残る子供じみた部分は押し込めて、実際の歳以上に振る舞っていたのだろう。だから今の姿がきっと、本来のアストンだったのだ。
ーー自分の前では紳士的に振る舞ってくれていたのだって、同じことだ。そうあるべきだと決めて、ずっと取り繕ってくれていたのだろう。いつもシャツの上には必ず、エプロンかベストをきっちり着込んでいたように。
アストンは言った。幻滅しないでほしい、と。
出会ったばかりの頃は、彼は無口で、無骨な人だと思っていた。けれど一緒に過ごす時間を重ねるうちに、その印象は少しずつ変わっていった。自分の思い違いもあったし、アストン自身が隠していたものもあったに違いない。
触れたいのだという思いはきっと、自分にもーー自分が相手だからこそ、最後まで隠していたことだったのだろう。
自身をよく見せるための服を床に落とすことの怖さを、自分は知っている。だからこそ見せようとしてくれたことに、泣きたいほど、胸があたたかくなった。
「私もね……アストンがお仕事してる背中見ながら、ずっと、ぎゅっとしたいなあって思ってたよ」
「そっ、え、」
もたれかかったままそっと見上げれば、アストンは耳まで真っ赤に染まっている。鼓動は早くて苦しいけれど、それも何故だか、心地よかった。
「真面目にお仕事してたのに、邪な目で見てごめんね……?」
「あっ、いや、光栄だ」
「ふっ、ふふ」
光栄だ、がツボに入ってしまって、一度笑い出せば止まらなくなった。拗ねたような顔をしたアストンは、こら、と軽く頬を摘んでくる。それでも笑いが止まらなくて、ぽろりと涙が溢れれば、アストンはふっと表情をゆるめた。
肩から腕へと滑り降りた手が、こちらの手に重ねられる。
真っ直ぐに注がれるのは、あたたかな眼差し。いつだって真摯なこの瞳で、ずっとずっと、見詰めてくれていた。
「ありがとう。大好きだ」
やさしい唇が重ねられる。その後は、枕元のろうそくの灯りだけが、二人分の影をそっと揺らしていた。
夢の淵でアストンは、俺はティアに貰ってばかりだ、と言った。それが砂糖を煮詰めたような声色で、気後れするような色はもうないことにまた、胸がくすぐられる。
けれど、その言葉は違うと思った。
何度もつまずいて、立ち止まって、それでも顔を上げて歩いてきた日々。遠い彼方の光だけを見詰めていた自分は、背後で泣く幼い自分に、気が付かないふりをしていた。
愛してくれる誰かの手を探して、闇を探っていた小さな手。それを自身で迎えに行き、握り――抱き締めてあげられるようになったのは。アストンが、自分の中にあるーー自分では目に留まらず、存在しないものだと思っていた煌めきを見つけて、教えてくれたからだ。
それを伝えたかったけれど、やさしい腕の中で眠るのが心地よくて、夢の世界へとろとろと連れ込まれる。
けれど、構わない。伝える機会はまだまだ、空に瞬く星の数ほどある。だって、この先ずっとーー夕暮れの鐘が鳴っても、手に皺が刻まれるほど年を重ねても、一緒にいられるのだ。
胸の中から吹き上がる春風が、夜の帳の端を揺らしてゆく。その向こう側には、先へと伸びる道が垣間見えていた。
私たちはきっとまた、そこに小さな光を見つけていく。時には、その煌めきを教え合いながら。
まどろみの中で、アストンの手を引き寄せる。
この手を取って――取り合って、どこへだって、駆けて行こう。
何も決まっていない明日を心待ちにしながら、私たちはまた、歩き出していく。
二人の人生は続きますが、物語としては一旦ここで閉幕になります。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
連載中に読んでくださった方、ブックマークや感想をくださった方々、ありがとうございました。お陰様で完結まで辿り着けました。
またいつか機会があれば、挿話やその後の話など、何か書ければと思います。
良ければ評価やブックマーク等いただけると、とても励みになります。




