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82.線よ、どこまでも伸びていけ

 夜の間に雪を降らせつくしたように、空はよく晴れていた。白さの眩しい通りは、人や馬車の通るところだけ雪が薄くなり、石畳が垣間見えている。きんと冷えた通りの先、ようやくアストラ・ポラリスの扉に手をかけると、ほっと息が零れた。

 押し開けると、あたたかな空気が溢れ出て頬に触れる。それと同時に、奥からアストンの声が聞こえた。

「だから、それが違うんだよ」

 怒るという調子ではない。拗ねるような声。思わず、扉を閉める手がそろりと慎重になる。

「だいたい服だって、昔は洒落ていたんだろうが、揃いすぎて古いし……」

 こちらに背を向けたアストンの向こう、ロドリクとぱちりと目が合う。マフラーを緩めながら軽く頭を下げると、微笑みを返してくれた。

「そう言うお前は灰色ばっかりだろ。ネズミのクローゼットか? なあ、ティアちゃん」

 びくりとアストンの肩が跳ねる。そろそろと振り向いた瞳はこちらに気付いて、気まずげに泳いだ。いらっしゃい、と言いかけた言葉が途中で切れる。首を傾げてから、もうすぐここが実家になることに気がついて、胸と頰が少し熱くなった。

 アストンはしばらく、エプロンについた糸屑を指先で摘んでいた。それから、そうだ、と顔を上げる。

「ちょうどいい、ティアに聞こう。これ、気になるところはないか?」

「えっ」

 縫いたての革特有の匂いをふわりと立てて、カウンターに真新しい靴が寄せられた。朝夕見慣れた、今履いているものと同じ型。折り返しの裏地は違う色が張られている。

「きれいな色だね。いいと思うよ。新しい注文?」

「うん……変わったところとか、ないか」

 曖昧な返事と一緒に、また少し、こちらに靴が近付けられる。期待感を持った瞳に見詰められて、思わず革に顔を寄せた。

「なんだか、上手く……しゃきっとした……?」

 首を傾げてから、やっぱり少し変わったと思った。前はやわらかい雰囲気だったけれど今は、背筋が伸びている印象がある。よく見れば、踵や履き口の線がはっきりと出ていて、革もぴんと張っているような気がした。

 ちらりと視線を上げる。アストンは苦虫を噛み潰したような顔をしていて、奥ではロドリクが肩を震わせていた。

 何か見るところが違ったのだろうか、と慌ててもう一度目を落とす。少し離れてみれば、全体の印象も違うように見えた。

「ちょっと、すらっとなった……? 上品でいいけど、私は前の丸っこい感じの方が、かわいくて好きかも……」

 言い終わる前に、アストンがカウンターの裏で小さく、ぐっと拳を握ったのが見えた。

「ほら見ろ! 型紙は戻すからな」

「なあに勝ち誇ってんだ。違いがわかるくらい縫いがまだまだなんだよ、あっちで鍛え直してもらってこい」

 目に見えて上機嫌になったアストンと、苦笑いをしながら肩をすくめるロドリクを見比べる。そうして、もう一度靴に目を落としてから、あっと叫んだ。

「もしかして、この靴作ったの……」

「親父だ」

 どっと汗が噴き出る。今になって口を押さえて、視線がうろうろと迷ってしまう。そのうちに奥のロドリクと目が合えば、先ほどのとんだ失言を思い出したのか、また肩を震わされてしまった。

「お父さんも、作るんだね……」

 頰が熱い。申し訳なさで消え入ってしまいそうだったけれど、アストンは事も無げに、ああと頷いた。

「元々はこの街の人にと思って作った靴だからな。俺がいない間は、親父に作ってもらうことにした」

 ——この街の人に。

 そう言われて、ふと、見慣れた通りが浮かんだ。

 朝の石畳を急ぎ足で渡る人。仕事終わりに、子どもの手を引いて帰る人。雪解けの水たまりを、靴先で避けながら歩く背中。

 その足元に、これからもこの靴があるのだと思うと、胸の奥が、静かにあたたまった。


 そうして、俺がいない間は、という言葉を胸の中でなぞる。

 雪が緩めば、店に並ぶ革もきっと変わっていく。厚手のものは奥へ下がり、軽い鞄や手袋が前に。修理の相談も、雨に備えた話に変わっていくのだろう。

 ——自分たちは、その時間をここでは過ごさないのだと、ようやく、実感が追いついた。


 胸の中に、先ほどとは違う重さが残る。冷たいわけではなくて、でも、まだ温度に名前がつかない。その温みを確かめていると、アストンはふと靴を置いて、作業台の上の紙を手に取った。

「そうだ、新居の大家さんに手紙を出そうと思っている。家具の世話を頼まなくてはいけないんだ」

 何の前触れもないのは、いつものことだった。もう慣れたその調子に合わせて、首を傾げる。

「家具、お父さんのがあるんじゃないの?」

 口にしてから、思い出す。向こうでの暮らしが落ち着くまでは、ロドリクが使っていた部屋を、そのまま借りることになっているのだ。鍋も棚も、ひと通り揃っている。階段の音や隣の家族の顔、一番近い市場のざわめきも、アストンはもう見聞きしてきたと言っていた。

「取り敢えず寝台は、大きいものに替えないといけないだろう」

 ——寝台。言葉が胸の中でぽんと跳ねて、明後日の方向へ転がっていく。それを目で追えば次の言葉を聞き逃しかけて、慌てて首を振った。

「食卓の椅子はすでに二脚あるから、急ぎで必要なものはほかにないかというのと……」

 それと、と続けて、アストンは紙の端を指でなぞった。


「向こうなら、ティアの故郷のものも、手に入りやすいかもしれない。何か欲しいものがあれば、遠慮なく言ってくれ」


 胸の中へ、言葉が落ちていく。通り過ぎてから、その軌跡に熱が残っていることに気がついた。

 遠い風の感触が、草木の匂いが、学舎の影がよみがえる。

 けれど不思議と、欲しいものの名は浮かばなかった。あの頃の暮らしに、困っていたわけでもない。今も、足りないものがあるわけではない。

 それでも。

 自分でも思い出さずにいた場所を、アストンは、最初から行き先の地図に入れてくれていたのだ。そのことが、胸の奥を静かに満たしていく。

「うん。……ありがとう」

 欲しいかどうかではなく、忘れられていないという感覚がこんなにもあたたかいのだと、初めて知った。

 だから今は、それで十分だと思えた。



 ロドリクは作業台の奥で、革を拭く手を止めていた。会話を聞こうとしたわけではない。ただ、声が届いたのだ。

「俺は、手配するだけだから……。ティアは式の用意もあるだろう」

「それがね、花輪はソニアが用意してくれてるし、マルタさんもあったかいショールを編んでくれてて。私は何も」

「そうか。俺も何か出来ることはあるか」

 息子の申し出には、ううん大丈夫、ありがとう、と優しい返事が戻る。それに続く、少し間のあいた声。

「……俺も、何かしたい」

 その言い方に思わず、机の端を見下ろした。

 この作業机で、妻と並んで縫っていた頃。何かと、端に小さな手が張り付いた。

 ——僕も、何かする。

 針を渡すわけにもいかず、自分の靴を脱いで寄こし、磨いてくれと仕事をやった。まだろくに擦れず、けれど満足そうに動いていた手。

 あの声と、よく似た音だった。


 ロドリクは、わずかに息を吐いた。笑うほどではなく、けれど胸の奥が、静かにほどける。

「そうだ、靴磨きなら任せてくれ。三つの頃からやっていたんだ」

 艶の出るクリームがあるんだ、と張り切った背はこちらの後ろを過ぎ、二階へと上がっていく。返事をする前に残され、ぽかんとする嫁を見ていれば、自然と苦笑いが溢れた。

「悪いな、付き合ってやってくれ。もっと段取りってものを身につけさせればよかったな」

「いえ、そんな……」

「グランヴィエに行く話も急だったんだろ。せっかく慣れた仕事も辞めさせてしまって、あいつが振り回して悪いな」

 親が親なら子も子だと、心の中で密かに思う。息子に目をつけられた女性は、二度ほど瞬いて——それから、陽のように笑った。


「いえ。私はアストンに選んでもらいましたけれど、私もアストンを選んだんです」


 ——不意に、彼女の声がよみがえる。

 二人で逃げようと迎えに行ったあの日。こちらの姿を見つけて、ロドリクさん、と微笑んだあの声が。

 まだ炊事も洗濯も知らなかった、白魚のような手。

 けれどそれは確かに、強く、この無骨な手を握り返してくれた。


「ティア、あった。試しに磨かせてくれ」

 アストンが小さなクリーム缶を手に、戻ってくる。早速磨き始めた肩は、もう幼な子のそれではなかった。

 彼女と選んだ道の途中には、悔いきれない別れがあった。けれどその道の続きに、この光景がある。


 若い二人の声が、作業場の奥へ溶けていく。それを背に、棚から使い込んだ型紙を引き出した。

 角は丸くなり、折り目は幾箇所にもつき、破れを直した跡すらある。流れ作業のようにそれを革の上に置き、手のひらでなぞった。


 そうしてふと、型紙をそのままにして、脇へ寄せる。

 代わりに、引き出しの奥から白い紙を一枚取り出した。炭筆を持ち、その広い白の中に、新たな線を引いてゆく。


 古びた作業机に、炭の削れる音が軽やかに積もる。

 窓から差し込む陽は、己の手元も、まばゆく照らしていた。



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