81.こいことば
指輪を頼みに行ったので、帰り道は初めて、昼間に手を繋いだ。
器用に革を縫い上げていく手に触れられるのも、だんだん慣れてはきたけれど——人目のあるところで手を繋ぐのはまた少し、違う気恥ずかしさがあった。自分は隣にいる人のことが好きで、彼は自分が好きだということが、周りに丸わかりになってしまうのだ。
そのあたりはアストンの方が、意外と慣れるのが早かった。というのも最近、顔見知りの人に会うたびに、祝われたのだ。
「聞いたよティアちゃん、アストンと結婚するんだって?」
どこから聞いたのか、噂が回るのが早いと思っていたら——なんとアストンが、普段の買い物に行く先々で語っていたのだ。アストンがあの家にいた長さと、一人きりになっていた時間を思えば、よい報告をすることは誠実さのひとつだったのだろう。
が、それにしても、随分顔が広くないだろうか。嫌な気はしないけれど、ふと口にしてみれば、アストンは視線をすいと逸らしたのだった。
「……もしかして、言いたいだけ……?」
尋ねれば、口よりも雄弁な横顔がじわりと赤くなった。
「だって、嬉しいから……」
そんなわけで、歩調を合わせて隣を歩く人は、今日もなんだかぽわぽわとしている。つられて胸の中がくすぐったくなり、照れ隠しのように、繋いだままの手を子供のように振って歩いてしまった。
石畳に午後の日差しが落ち、淡く照らす。帰り道に選んだはずの通りなのに、足取りはどこかゆっくりとしていた。
通りの先、硝子張りの小さな店が視界の端に入る。白い壁に掛けられた看板は控えめで、窓辺には、使い込まれた木のテーブルがいくつか見えた。午後の光が、硝子を通して店内に溜まり、外よりも少しだけ、やわらかな色をしている。
そっと隣をうかがうと——アストンも、同じ方向を見ていた。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。視線を戻そうとして——けれど、その前に、こちらを見られてしまった。目が合う。ほんの一瞬の間が落ちる。驚いたように瞬いたあと、アストンの口元は、ゆるやかに緩んだ。
言葉はなかった。けれど、わずかに顎が動いて、視線がもう一度、店の方へ流れる。
「入るか」
問いではなく、提案でもなく、決まっていたことを確かめるような声だった。頷くより先に、繋いだ手が、ほんの少しだけ引かれる。
扉の前で立ち止まり、鐘の付いた取っ手に手を伸ばす横顔を見上げる。午後の光を受けたその輪郭は、さっきまで歩いていた通りよりも、少し近くて、少しあたたかい。
鐘が、軽く鳴った。外の光とは違う、落ち着いた空気が、ふたりを包み込む。
先ほど、銀細工の工房へ指輪を頼みに行ったとき。職人とアストンが話をしている間、その夫人と、何気ない雑談をした。
つい先日、想いを伝えられたばかりだということ。来月末に結婚式を挙げて、その次の週には引っ越しをすること。そうすると微笑ましそうな顔で言われたのだった。
「貴重な恋人期間、めいっぱい楽しんでね」
恋人、という響きに照れて、はにかみながら頷いたものの。
——恋人でなければできないこととは、何だろう。
カップを傾けながら、ぼんやりと考える。
向かい合って座る距離は、思っていたより近かった。指輪を見に行った帰りだからだろうか。それとも、手を繋いで歩いたせいだろうか。鼓動はまだ、急いている気がする。
向かいを見遣れば、アストンは俯いていた。どうしたのだろうかと思う間もなく、その視線が、ふっと持ち上がる。
一度、こちらを見た。それから何かを思い出したように、もう一度、手元のカップへと目が戻る。次の瞬間、アストンは少しだけ身を乗り出すようにして、手元のカップをこちらへ押しやった。
「見てくれ」
促されて視線を落とすと、まだ温もりの残る珈琲がある。カップの方かと思い、側面を覗き込もうとすれば、アストンは湯面を指した。
「電灯が映っているだろう」
黒い水面に、丸い灯りがぽつりと浮かんでいる。顔を上げると、アストンの表情は、どこか満足そうにやわらいでいた。
「月みたいだ」
瞬く。息をつけば、胸の奥に溜まっていたものが、ふっとほどける。そうしてカップの夜空に浮かぶ円を見下ろしたまま、しばらく言葉が出なかった。
珈琲はもう冷めているのに、その丸い光だけが、ゆるやかに揺れている。顔を上げると、アストンはこちらを見ていた。先ほどまで俯いていたときの静けさとは違って、どこか落ち着かない、けれど楽しげな気配がある。
「……前からずっと、こういったものはあったんだ」
ぽつりと、独り言のような声が落ちる。
「上手く焼けた卵や、その夏初めて聞く鳥の声や……見せたい、聞かせたいと思うものが」
言葉が切れる。眼差しはまた、珈琲に落ちた。
「だが、後からわざわざ話すほどのことでもなくて……」
そこまで言いさして、少しだけ口を閉じる。その先を続けなくても、何を言いたいのかは伝わってきた。
「けれど、今は」
そう言って、もう一度こちらを見る。昼下がりの光を返して、新緑のような色を蓄える瞳。それがやわらかく、弧を描いた。
「これからは、こうして一緒に見られるんだなと思った。それが……嬉しい」
言葉が胸に落ちるより先に、心臓が一度、強く跳ねた。
胸の奥が、きゅっと縮む。言葉は静かで、声も穏やかであるのに、強く抱きしめられたときのように、胸は甘く掻き乱されていた。
恋人でなければできないことを考えていたはずなのに、胸いっぱいに広がっているのは、逆の感覚だった。向かい合って珈琲を飲む時間も、わざわざ言葉にしなかった些細な発見も。これからは、ひとり分ではなく、ふたり分になるのだ。
「……それなら」
頰が緩む。考えた末に出た言葉ではない。口をついて、するりと零れただけだった。
「夫婦になるの、楽しみだね」
言ってから、少し遅れて頬が熱くなった。けれど、アストンは素直に、うん、と頷いてくれた。
そうしてまた、珈琲に視線を落とす。水面の夜空にはまだ、満月が静かに浮かんでいた。
胸の奥に、あたたかなものが灯る。恋人でいる今も、もちろん大切だ。けれどその先に、同じ机を囲み、同じ時間を重ねていく日々があると思えば——その未来の方が、ずっと、胸を弾ませる。
軽くなった指先でカップを持ち上げ、甘い紅茶をひと口含んだ。
唇を離してから、その白い陶器と、縁の青い線を見詰め——不意に、記憶が結ばれた。
恋人のうちにやり残したことが、ひとつ、ある。
「ラブレター……」
カトリーナに選んでもらったのに、机に仕舞い込んだままの便箋。あれをまだ使っていない。
「……欲しいのか?」
きょとんとした声に、はっと口元を押さえた。口から出てしまったことに今更鼓動を速めても、もう遅い。緑の瞳はこちらをじっと見詰めていた。
「あの、えっと、その」
「構わないが……」
「えっ、いいの?」
思わず少し乗り出してしまった。
伝え損ねたことも、あれから浮かんだけれど恥ずかしくてまだ言えていないことも、沢山ある。それらを渡したいというのが一番にあったけれど——考えるより先に、頷いていた。頰が熱くなって、指先が少し震える。
「任せてくれ」
何故だか得意げな顔を見ると、胸の中に花畑が広がっていく心地だった。
それから少し、小さな心配が顔を出す。あの親睦会からマーケットの夜まで、言葉を選ぶのに、随分時間をかけてくれていた。辞書に残っていた、読み込まれた痕がふと浮かぶ。手紙も、同じくらい悩むのではないだろうか。
そんな考えが顔に出てしまったのだろう、アストンは一瞬だけ首を傾げてから、ふっと笑った。
「一度にうまく書ききれなければ、何度出してもいい。そう思えば気楽だ」
その声は、思っていたよりもずっと軽やかだった。
ふと、宿の自室に飾ってある、小さな花束がよみがえった。
先日、最初にくれた花束はもう萎れてしまったけれど。アストンはあの後も、朝市の帰りにたまに寄って、花を一本ずつ贈ってくれるようになった。目につくたびにくれるものだから、ひとつの花瓶に挿すと色も長さもちぐはぐで——けれど、それがかえって、アストンが自分を思い出してくれた回数を教えてくれているようだった。
花束。渡す日に向けて何度も花屋で下見をして、花の取り合わせに、包み紙に、リボンの色に悩んで、とびきりのものをひとつ作ることだってあるだろう。
その煌めきだってきっと素敵だけれど、今は、卵や芋と一緒に抱えられた小さな花が愛おしかった。
「楽しみ。私も書くね」
そう言えばアストンははにかんで、待っている、と月に唇を当てた。
そんなわけで白紙の便箋を前にしたものの、ペン先は迷ってしまった。
以前、アストンは手紙を書いたことがないと言っていた。だったら——と、ふと思う。自分が先に送るものを、きっとよく読むだろう。読み返して、何度か目を走らせて、それから、真似るように言葉を探すのではないだろうか。
便箋に視線を落としたまま、指先で紙の端をなぞる。あまりに何気ない話では、いけない気がした。せっかくなら、もう少し——胸のあたりに触れるような言葉を。
早く会いたい、だとか。
そこまで考えて、はっとして、頬が熱くなる。ペンを握り直して、できるだけ甘えた言葉を書き綴ろうと、そっと深呼吸をした。
結局その日は書き上がらなかったけれど、翌日の夕方に仕事から帰れば、郵便受けには少し重たい封筒が入っていた。
飾り気のない、真っ白な封筒の宛名は自分で、差出人はアストン。階段を駆け上がって封を切り、三行ほど目を走らせてから、そっと閉じた。
——心臓が、追い付かない。急いで掻い摘んで読むのは、あまりに勿体無かった。
そして同時に、ああそうか、とようやく思った。自分は、まだアストンのことを、わかっているつもりでいただけだったのだ。
だから寝る前に、ベッドサイドのランプの灯りを灯して、一文字ずつ読み進めた。手紙には、どれほど好きかということ、結婚できてどれほど嬉しいかということが、甘い言葉で書き連ねてあった。
詩のような文面を指でなぞり、冷たいシーツに頬を当てる。それでも熱は冷めなくて、寝転がれば、頭上——窓枠のそばには、星飾りが煌めいていた。もう夫婦になった星はこちらを見下ろし、笑うように光を返している。
それを眺めながら、もらった手紙には返事をしなければいけないことに思い当たった。
同じほどのものを返せるだろうかと考えれば、便箋の白さが手強く見えて、ひどく悩んでしまったけれど。
それはたいそう、幸せで甘い悩みだった。




