80.十年後にまた並べようね
文具屋へ向かう胸は、いつもと違う弾み方をしていた。
カトリーナの店で買うものは決まって――便箋だって、自分のために選んでいた。でも今日は初めて他人に、ソニアに贈るペンを、選びに行くのだ。
アストンと結婚の約束をした、その最初の週末は、一番にソニアのところへ知らせに行った。
ソニアは聞くなり手を取って飛び跳ねて、泣いて。その喜んでくれる姿につられて、こちらも目頭が熱くなったのも束の間――何と言って告白されたのかと、好奇心を隠し切れない顔で問われたせいで、頬の方が熱くなってしまった。口ごもっていれば、自分だけの宝物にしたいよね、とひとりで納得をされてしまったので、結局教えていない。
「そっか。ワンピース、着てくれるんだ」
自分にと取っておいてくれていた、花嫁衣裳。着せてもらえないかと申し出ると、ソニアはもう一度、抱き締めてくれた。
譲ってもらったワンピースは、夏の砂浜のように細かな光を返していた。貰ってくれるだけで嬉しい、と言ってくれたけれど、何かお礼をしたい。それをアストンに相談すると、三日ほど悩んだのちに申し出てくれたのだった。
「革製品で良ければ何でも作る。旦那さんと揃いのものでもいいと伝えてくれ」
ソニアはきっと喜ぶだろうけれど、アストンが代わりに作ってくれるというのは、何だか申し訳ない気もした。それを言うとアストンは、小さく口ごもってから——じきに夫婦になるのだからこのくらい、というようなことをしこたま照れながら言ったものだから、こちらまで真っ赤になってしまった。
だからソニアには、アストンの作ったペンケースと、自分の選んだペンを渡すつもりなのだ。
——ペンケース。本当にペンケースでよかったかな、と一瞬浮かべば、石畳を歩く足が少し遅くなる。
ソニアにアストンの申し出を伝えると、その場でオーダーをしてくれたのだ。
「ルークとお揃いもいいけど、ティアとお揃いのものが欲しいな。ティアが普段使うものなら何でもいいよ」
アストンくんのセンスに任せるって言っておいて、と笑った言葉をそのまま伝えれば、アストンは頭を抱えてしまった。自分も一緒に考えたけれど——やっぱり職人はよく、客のことがわかっているのだ。アストンの最初の言葉は、作るものの提案でも、色の相談でもなかった。
「ティアが前に狩ったドンブクの革があっただろう。あれを、使っていいだろうか」
いい。それならばソニアはきっと、何を作っても喜んでくれる。
そうして、染め色は自分が選んだ。そのことを思い出せば、澄んだ風に押される足取りは軽かった。
カトリーナの文具屋は、昼下がりの光が一番きれいに入る。硝子越しに見える棚の影が、床に細かな格子を描いていた。
扉を押すと、鈴が軽やかに鳴る。その音に顔を上げたカトリーナは、こちらの姿を見るなり、にやっと口元をゆるめた。
「……何か、いいことあった?」
唐突だけれど、妙に的確な問いだった。驚いて瞬いたあと、つい笑ってしまう。気恥ずかしくて、視線を逸らしながら頷いた。
「結婚することになって……それで、春には街を出るんだ」
一瞬、カトリーナの目が丸くなる。それから、すぐにいつもの調子で息を吐いた。
「そっかあ。来たと思ったら、あっという間だね」
カウンターに肘をつき、でもなんか納得、と笑う。
「ティア、ずっとどこかへ行く途中って顔してたし」
おめでとう、と、今度はちゃんとした声で言ってくれた。軽いけれど、嘘のない響きだった。
「それで? 今日は自分用じゃないでしょ」
さすが、と内心で思いながら、事情を話した。
ドレスのお礼であること、相手は年上の女性で、日用で使うものだということ。予算のことも、ざっくり伝える。カトリーナは、了解、と短く言って、棚の間を歩き始めた。選ぶというよりも、すでに頭の中に浮かんだものを拾っていくような、迷いのない手つきだった。
「日用品なら、これくらいの太さがいいかな。重すぎない方が、長く使えるし」
独り言のように言いながら、数本をトレイに並べていく。あっという間に並んだペンはどれも、主張しすぎないのに、品があった。
「どれがいい?」
頭の中で順に、ソニアの手元にあてがう。迷いながら一本に決めると、カトリーナは顔をほころばせてくれた。
そうして、包んでくれる横顔を見ているうちに、ふと言葉が零れた。
「向こうからも、ちゃんと手紙書くね」
色々なことがあった冬。朝に宿の郵便受けを開けて、鮮やかな色の封筒が入っていたときのほっとゆるんだ気持ちを、自分はきっと、忘れない。春からは直接家に届けるのではなく、切手を貼ってポストに投函するのだと思えば、不思議な気持ちだった。
「……返事、今よりちょっと遅くなるかもしれないけど」
「いいよいいよ」
カトリーナは気にする様子もなく言う。
「グランヴィエでしょ? 向こう、便箋いっぱいありそうだね」
こちらに向けてくれるのは、にっと笑った顔だった。
「私も負けないの仕入れるから。そしたら送る」
そうして、包み終えた小箱が、軽く押し出される。
「はい。ティアの気持ちも一緒に包んでおいたよ」
包み損ねた分は自分で足してね、と声は冗談めいていたけれど、リボンは丁寧に結ばれていた。受け取った箱は、驚くほど軽い。けれど胸の奥には、確かな重みが残った。
「……うん。ありがとう」
またね、と言われて、扉を開ける。鈴の音が、来たときと同じように鳴った。
外に出てから、もう一度だけ、硝子越しに店を振り返る。カトリーナはもう、次の客に声をかけていた。
それから何日かして、アストンはふたつのペンケースを縫い上げてくれた。
訪ねたソニアの部屋は、窓辺に置かれた机に、冬の午後の光が斜めに差し込んでいた。
まだ住み始めたばかりの部屋は物が少なくて、白い壁も、床も、少し音を立てそうなほど静かだった。勧められた椅子に腰を下ろすと、机の上には帳簿と、ペン立てがひとつ。これから少しずつ、物が増えていくのだろう。それを想像すると、胸の奥がふわりと温かくなった。
「今日はね、これ、ドレスのお礼」
包みを差し出すと、ソニアは一瞬きょとんとしてから、すぐに目を丸くした。
「えっ、もう? なに、なんだろ」
そう言いながら、包みを受け取る指は少しだけ弾んでいる。紙を解く音が、静かな部屋に小さく響いた。
中から現れたペンケースを見て、ソニアは一瞬、言葉を失った。
「……きれい」
手のひらに乗せて、そっと撫でる。革はまだ新しく、冬の空気を含んだようにひんやりとしていた。
「前に話したでしょ、畑荒らししてた魔獣のこと」
そう言うと、ソニアは少し考えてから、ぱっと顔を上げた。
「アストンくんの靴のときの?」
「そう。そのときの革、アストンが使ってくれたの」
「じゃあこれ、ティアが捕まえたやつ?」
驚いた顔のまま、ソニアはもう一度ペンケースを見る。それから、ふっと笑った。
「そっか。世界にひとつだけの革だ」
胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
鞄から、もうひとつを取り出す。同じ形の、けれど少し雰囲気の違うペンケース。今日の自分たちの服装にもどこか似たそれを、机の上に並べた。
革の色は同じ。けれど縫いの線や、端の留め具が微妙に違っていて、並べるとそれがよくわかる。
ソニアは二つを行き来するように見比べてから、同じ革なんだ、と息を零した。
しばらく、二人で黙って眺める。レースのカーテンを透かした陽が革にかかり、その真新しい肌を煌めかせていた。
「使っていったら、きっと色、変わるよね」
ソニアはそう言って、指先で軽く革を押した。そうして――でもさ、と続けて、自分のペンケースをそっと机の中央に戻した。
「同じ時間で、同じように変わるんだよね」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
まだ見ぬ、港町での新しい部屋が瞼の裏に浮かぶ。最初はきっとこの部屋のように、余白が多く、どこか静かな部屋。それでも机の上にはきっと、このペンケースがある。そうして一緒に、生活を深めていくのだ。
離れても、同じ時間を生きる。違う場所で、同じように手を動かして、同じように日々を重ねる。
「……うん」
頷くと、ソニアはもう一つの小箱を開けて、ペンを手に取った。顔のそばに寄せてみる仕草は――似合うでしょ、と言わんばかりだった。もちろん。だって、自分が選んだのだ。
「ね。これで手紙書くね」
ソニアは顔を上げて、にっと笑った。
うん、と返事をしながら、窓辺に置かれた机を見る。ここに、このペンケースがあって。いつか、インクの染みや、癖のついた革の曲がりができていくのだ。
年を重ねるのが待ち遠しくなるのは、初めてだった。
よく晴れているからか、ペンケースに差し掛かる陽は白く明るい。それはソニアと一緒にリースを編んだあの空間の机に、どこか似ている眩しさだった。




