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79.家族の肖像

 今晩すぐ、と夕食に誘ってくれたことのありがたさを感じたのは、アストラ・ポラリスへ向かう道中のことだった。

 通りに並ぶ店のショーウィンドウに、自分の姿を映す。楽にして欲しい、と言われたものの、いつもよりちゃんと編んだ髪は乱れていないかと気になった。夕食後に一緒に食べられたらと果物を包んできたけれど、皮を剥かなくていい、クッキーのようなものの方がよかっただろうか。

 楽しみだった気持ちの上に、あれこれと不安が乗っては膨らんでいく。もし食事が週末に決まっていたならば、きっとそれまで、何も手に付かなくなっていたと思った。


 通い慣れた扉の前で、大きく深呼吸。

 そっと押し開けると、鐘の音まで少し弱気に、小さく鳴る。奥でぱっと——アストンの父の顔が上がった。

「こんばんは。あの、」

「やあやあティアさん、待っていたよ。いや他人行儀だな、ティアちゃんと呼んでも?」

 温もりとともに、朗らかな笑顔が足早に寄り、迎え入れてくれる。名を呼んだ声は返事を待たずに扉の取っ手から手を離し、半歩身を引いた。

「立ち話もなんだ。寒かったろう、ほら中へ」

 肩にかかる外套へ自然に視線が向き、火の入った店内の空気へと誘われる。その仕草があまりに当たり前で、構えていた心が拍子抜けするほどだった。

 一歩踏み込むと、革とスープの匂いが混じった香りが胸に落ちてくる。家庭の匂いに——ああ、と気がついた。ここは訪ねる場所ではなくて、迎え入れられる場所になってくれるのだ。


 そのときふと、二階から足音が聞こえた。つられるようにロドリクも天井を見遣る。

「アストンは飯を作らせてるんだ。手際悪いから、まだかかるかもしれんなあ。あいつ、花をどこに置くかで十五分も迷ってたんだよ。結局ティアちゃんの席の後ろに置こうとするし、そんなところに置いてもティアちゃんで霞んでしまうのになあ?」

 頷くわけにもいかず、包みをもじもじと握り直してしまう。足音が荒く駆け降りてくるのは、それと同時だった。

「口説くなって言っただろ……!」

 鼓動が小さく跳ねる。家の中だからだろうか、少し楽なベストに、見慣れない茶色のエプロン。スープの残り香を連れたアストンはそのまま、割り込むように駆け寄ってくる。

 ——口説くなって、言ったんだ。

 不意に胸がくすぐられる。どんな顔で念押ししたのだろうかと思えば、頰が少し熱くなってしまいそうだった。

「先に挨拶しろ、阿呆」

「あっ……いらっしゃい、ティア」

「俺は店を閉めるから、お前はティアちゃんをお連れしてくれ」

 アストンが、二階へ、と促してくれる距離が、前よりも少しだけ近い。それにどきどきとして言葉を忘れれば、沈黙が落ちてしまった。

「お前なあ、親に妬く口はあるのに、髪を編んでくれたのには何も言わないのか」

「後で言おうと思ってたんだよ!」

「お前の『後で』は、いつも話題二つくらい遅いんだよ」

 追撃のように言われて、アストンは口を噤んでしまった。

 二人のやり取りを前に、どう反応していいのかわからず、果物の包みを胸元へ引き寄せる。少しだけ居心地が悪いのは、よその家の中の会話に迷い込んでしまったような気がするからだろう。——よその家。でもきっと、いつかそう近くないうちに、その感覚は薄れるのだろう。

 階段を上るごとに革の匂いが薄れ、代わりにスープと、肉の焼けるような匂いが濃くなる。香りがすっかり夕食のものに変わるまで段を上ったところで、アストンはちらりと、こちらを振り返った。

「ティアの髪は、光を紡いだようで……光の下では特に、黄金の穂のようだと思っていた。今日の髪型もとても、似合っている」

 とくとくと鼓動は早まるけれど、今度は、意外には感じなかった。こうして言葉の海から拾い上げるような語り方を、アストンはずっと、してくれてきたのだ。

「……親父に言われたからじゃない。一番相応しい言葉を考えていただけなんだ。本当に」

 うん、と頷いたのに、嘘はなかった。



 二階にも、ほどなく足音が上がってきた。ロドリクは階段を上りきると、手早く椅子を引き、食卓を見渡して笑う。

「祝いの席だが、さ、堅いことは抜きだ。冷める前に食べよう。遠慮なく食べてくれ」

 そう言って、先に腰を下ろした。その仕草があまりに自然で、張っていた背中の力がふっと抜ける。

「口に合うかわからないが……」

 アストンは向かいで、少し視線を逸らして言った。皿の上には、こんがりと焼けた鶏肉と、香草の匂い。湯気が立ちのぼり、空気が一気に夕食のものへと変わる。お腹が鳴りそうになるのを抑えながら、思わず声が出た。

「これ、花暦祭の後も一度、作りすぎたって言って持って来てくれたよね」

 鶏肉と野菜のオーブン焼き。アストンの手料理、というのに驚いたことを、今でもよく覚えている。

「馬鹿の一つ覚えで申し訳ないが……」

「そんなことないよ。おいしかったから、嬉しい」

 またいつか食べられることはあるだろうか、と思っていたものが目の前にある。そのことに頰が緩めば——ロドリクは、花暦祭か、と声を上げた。

「なんだ。そんなに前から好きだったのに、言ったのは昨日なのか」

 取り分けようとした手元が、思わず狂った。大皿の上に転がった芋をもう一度取りながら、慌てて説明をする。

「あれは、マルタさんがいつもおかずを作って下さっていたので、そのお礼みたいなもので……」

 あのときは決して、自分にと作ってくれたわけではない。そう思って顔を上げれば、向かいで赤くなった顔は、パンを見詰めていた。

「……料理は、そうだが」

 その指先はパンを、小さく小さく、千切っている。

「……好きだったのも、そうだよ」

 今度こそ、鼓動が跳ねる。一拍置いて、ロドリクが喉の奥で笑った。

「そんだけのんびりしてて、他の奴にティアちゃんを取られなくてよかったなぁ」

 呆れたような、けれどどこか安堵の滲んだ声だった。

「こいつ、決めるのが何でも遅いだろ。昔な、出先に飴売りが来てて、ひとつ買ってやるっつったら、どっちの色がいいかで散々悩んでな」

 指を折って思い出すようにしながら、楽しそうに続ける。

「で、ようやく決めたと思ったら、欲しかった方を別の子供が買っていってしまって、大泣きしてなあ」

「知らん、覚えてないくらい小さいときの話だからな」

 アストンは焦るように遮るけれど、その耳は赤い。ロドリクはそんな様子を見て、満足そうに肩を揺らした。

 つい、口元が緩んでしまった。そうか、アストンにも小さいときがあったのだと、当たり前のことが胸に落ちる。うんうん悩む小さな背と、それを後ろでいつまでも待ってあげる両親の姿が、ぼんやりと浮かんだ。

「丘の礼拝堂のそばでな、見晴らしがいいんだよ。クラリスも……妻も気に入っていてな」

「そんなところ、あったか……」

 覚えてないだけだろ、とロドリクは肘で小突いて、自分のカップにワインを足す。

 つられて胸が温もった拍子に、あたたまった空気がふと窓から溢れるように、言葉が零れた。

「いいなあ。そんな場所があるんですね」

「すぐそこだ。週末にでも案内しようか? 俺は邪魔かもしれんが」

 首を振る。嬉しいです、という言葉は、胸の底から出た。

 案内という単語を心の中で何度も噛み締める。地図を渡してもらうよりずっと、その場所も、ロドリクも、近くに感じられるような気がした。


 いつしかスープの湯気は温もりに溶けて、焼けた肉とパンの匂いだけが部屋に残っていた。その混じり合った香りを胸いっぱいに吸い込んでから、ふと気づいた。いつの間にか、肩に入れていた力が抜けている。食卓が、深呼吸をしなくても、息が足りる場所になっていた。


 皿がいくつか空になった頃、ロドリクは自分のカップを傾けて中を確かめた。

「ワインがなくなったな。アストン、買ってきてくれ」

「もういいだろ。なくなったなら、今日はそれで」

「なんだ、そんなにティアちゃんと二人きりにさせるのが嫌なのか。器の狭いやつだな」

 一拍の沈黙のあと、アストンは小さく息を吐いた。

「……すぐ戻る」

 その背を見遣る瞳に、含みのある笑みが浮かんでいた理由はすぐにわかった。玄関の扉が閉まる音がしたところでロドリクは、さて、と立ち上がったのだ。

「今のうちに渡したいものがあってな」

 そう言うと、ロドリクは腰を上げ、奥の部屋へと消えた。食器の触れ合う音が止み、家の中に、ぽつりと静けさが落ちる。火の落ち着いたランプの下で、両手を膝に揃えて待てば、足音はすぐに戻った。

 その手には、小さな栗色の箱。長い年月を経た木肌は、角が丸くなり、何度も撫でられてきたことを物語っているようだった。

「これだ」

 開けられた蓋の中、内張りの布の上には——刺繍のブローチが、静かに横たわっていた。細かな糸で形作られた、可憐な花。ランプの灯りを受けて、縫い目はやわらかな光を返している。まるで気持ちの良い朝、ふと長い眠りから目が覚め、露に濡れた花弁をもたげたかのようだった。

 思わず、息が漏れた。

「……きれい……」

 思わず零れた声に、ロドリクは目を細めた。

「そうだろう。昔、クラリス——妻が作ったんだ」

 年相応に節ばった指は、無意識のように箱の縁を撫でる。

「上手にできたからと、売るのを惜しがってな。いつかアストンに嫁ができたら渡すんだと言って、仕舞い込んでいた」

 いつかの温もりを見詰めるように、ふっと吐息が零される。

「……まだ、あいつがよちよち歩きだった頃の話だ」

 その時間の長さに、胸の奥が静かに締めつけられた。年齢の刻まれた指先は、箱の縁に触れる。引き寄せられるように見詰めた刺繍の盛り上がりには、今でもまだ、かすかな温度が残っているような気がした。

「そんな大事なもの……いただいて、いいんですか」

 声の端が掠れる。けれどロドリクは、少しの間も空けずに頷いてくれた。

「大事だから、渡すんだよ」

 短い言葉。そうして、アストンに似た色の——けれど少し深い色の瞳は、やわらかく微笑んでくれた。

 両手で箱を受け取ると、その重みは思っていたよりもずっと、やさしかった。

 これはきっと、誰かが誰かを想い続けてきた時間のかたまりなのだ。

 そう思うと胸が詰まり、何か言おうとして、うまく声にならなかった。代わりに、箱を両手で包み込む。

「……大切にします」

 短く、そう告げると、ロドリクは目を細めた。

「ありがとう」

 食卓へ落ちたその一言はまるで、祝福のような響きだった。



「ま、今日はしまっといてくれ。あいつのことだから、どうせ身に付けるものを先に渡すなとか、うるさいことを言いそうだからな」

 喉の奥で笑う声に、思わず瞬いてしまう。言いそうな気もするし、言わなさそうな気もしたからだった。

「ほんとあいつは、煮え切らないし、気ぃきかねえし。そのくせ、取られそうになったら未練がましいしな」

 つらつらと挙げられる短所には、覚えがあって、思わず苦笑いが零れてしまった。

「……でもな」

 言葉が切れる。ロドリクはランプの灯りの下で、静かに目を細めた。

「これと決めたものだけは、どこまでも守れるやつに、クラリスと俺で育てたつもりだ」


 胸の奥で何かが、すとんと落ちた。

 ——そうか。

 だから、なのだ。

 アストンが向けてくれる、あの、急がず、奪わず、確かめるような優しさ。大切なものほど、慎重に扱う手つき。

 それはきっと、この人のもとで、そうして育てられてきたからなのだ。


 手の中の木箱を、そっと包み直す。そこにある重みは、時間を受け継ぐ覚悟を問うようでいて、不思議と怖くはなかった。

「……大事に、受け取ります」

 自然に、そう言葉が落ちた。——この人が守ってきた時間の先と、自分はこれから、生きていくのだ。

 ロドリクは一瞬だけ目を見開いて、ありがとう、と微笑んだ。

「俺は職人だ。天塩にかけたものが、どこかで、誰かのそばでちゃんと息をしていれば、それが嬉しい」

 暖炉の灯が小さくはぜる。足元まで広がるぬくもりの中、低い声は、それにな、と笑うように付け足した。

「あいつが誰かを幸せにできるなら、親としては、もうこれ以上望むことは何もないさ」

「ロドリクさん……」

 胸が詰まり、視界が熱く滲んだ。言葉にできなかった想いが、胸の奥でほどけていく。

 指先で拭えば、かえって止め方がわからなくなってしまい、ぽろぽろと次から次へと溢れ出る。

 玄関の扉の音がしたのは、そのときだった。

 足音は階段をこちらへ駆け上がり、あっという間に居間の戸が開く。心地よい涼しさがふわりと流れ込み、アストンの髪の端を揺らした。


「おい父さん、バウアー商店が定休日なの知ってただろ! おかげで時計台通りの酒屋まで行ってきた……ぞ……」

 息を切らしながらの言葉が、こちらの顔を見て止まる。アストンの瞳が見開かれたのに気付いて、慌てて手を振った。

「違うの、これは、えっと……いい話を聞いて、じわっとして……」

 後ろでロドリクがふき出しかけて、誤魔化すように咳払いをしている。馬鹿な言葉選びをしてしまった、と頰が熱くなったけれど、アストンはひとまずほっとしてくれたようだった。

「果物でも剥こうか。座っていてくれ。……それ、何だ?」

 手の中の小箱を問われて、お義父さんにいただいたの、と蓋を開ける。アストンは初めて見たような瞳で、目を瞬かせた。そうしてそのまま、すいとロドリクへ視線を遣る。

「俺が指輪を贈るより先に、こういうのを贈るのはどうなんだ……」

 ——ロドリクの読んだとおりの、拗ねたような声。

 思わず顔を見合わせて笑ってしまえば、アストンは不思議そうな顔をして、少し頬を赤くさせた。



 帰り道は、いつもよりずっと遅いせいか、星空が高く澄み渡って見えた。

「今日は、みっともないところばかり見せた……」

 アストンが言い訳のように呟いたのにあわせて、白く吐息が流れる。今夜もきっと寒いのだろう。けれど繋ぐ手にはまだ慣れず、触れる体温のせいで、耳まで熱い。おかげで身体にはまだ、食卓の温もりが残っていた。

 そんなことないよ、と口にしかけて止める。それよりもふさわしい言葉があると思った。

 ——アストンのように、自分も。自分の気持ちを言葉の花束にして、手渡したい。

「アストンのこと、もっと、好きになったよ」

 言葉にしてから、自分で頰が熱くなった。けれど、照れたように目を伏せたアストンの口元がむずむずと——緩むのを堪えるように結ばれていたから、これでいいのだ。

「お父さんのことも、好きになったし……」

 ポケットの小箱にもう片手で触れながら、続ける。それから、なんだか語弊があるような気がした。アストンへの「好き」とは全く種類が違うのに、誤解をさせて、変に妬かせてしまうのは嫌だ。

 だから何かを言おうと、隣を見上げて——そのまま、言葉を忘れた。

「そうか。嬉しい」

 見詰め返してくれているのは、穏やかな瞳だった。


 宿の前に着くころには、通りの灯りもまばらになっていた。

 今日はありがとう、と——お礼を言いたいことが多すぎてまとまらず、曖昧なまま、言う。それでもアストンは、うん、と短く頷いてくれた。

「俺も、嬉しかった。今日はいい夢を見られそうだ。……ティアも、よく休んでくれ」

 微笑む視線が、ふっと近づく。繋いでいた手が優しくほどけ、代わりに、腕にそっと手が触れる。アストンはほんの少しだけ、身を屈めた。

 昨日は、手だった。今日は——頰に、あたたかなものが、そっと触れた。

 音もなく、昨日知ったばかりの匂いがわずかに近づいて、すぐに離れていく。何かを返そうとして、息だけが喉に引っかかった。鼓動が早すぎて、身体が言うことをきかない。

 見詰め返すと、アストンはもう、少し照れたように目を伏せていた。

「……おやすみ」

 その声が、今夜のすべてを包むようだった。

 まだ、唇で触れ返す勇気はない。けれど胸の中にあるのは、焦りや不安ではなかった。

 先ほどまでいた家の、ランプの灯りと食卓の温もりが、まだ身体の奥に残っている。あんな灯の中でならばきっと、こうして頰に触れることも、特別ではなくなるだろうと思った。

 そう感じられることが、この胸をあたためてくれる。


 今は触れ返す代わりに、おやすみと返して、胸の前で手を握る。

 微笑んでくれたアストンの向こうでは、宿の軒先の灯りが、冬の夜にやさしく滲んでいた。



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