76.運命の糸はきっと薄紅色
窓の外、宿の前に伸びる道を通って行こうとするのはアストンだった。
編み上がったばかりの薄紅色を机に置くと、階段を駆け下りる。
早くしないと、行ってしまう。それだけが頭を占めていて、扉を開けた瞬間に、冬の風が容赦なく頬を打った。
つんと鼻先が痛む。そこでようやく、着のみ着のまま飛び出してきたことに気づいた。せめてマフラーを巻いて来ればよかった。けれど、一方で、それどころではなかった。
通りの向こうへ歩き出しかけていた背中に、声を追いつかせる。
「アストン!」
自分でも驚くほど、張った声だった。
足が止まり、振り返る。その顔を見た瞬間、胸がきゅっと詰まった。
「おかえり」
駆け寄って言うと、白い吐息が溢れる。振り返ったアストンが一瞬、目を見開いたのは、この格好を見たせいだろうか。ただいま、と微笑んでくれた声は少し低く、掠れていた。それでも、それだけで、胸の奥に熱がともる。
「港町まで、行ってたんだよね」
楽しかったかと問うつもりで聞けば、少し間が落ちる。アストンは視線を逸らし、ほんのわずかに唇を引き結んだ。
「どうして、それを……」
声が、思ったよりも小さい。気まずさを隠しきれない調子なのは、休業をしてしまっていた後ろめたさからだろうか。
寒風が唸り、細かな雪の粒を舞い上がらせる。堪らず身震いをすれば、アストンは自身の首元へ手を伸ばした。外套の襟元を緩め、巻いていたマフラーを解く。ほどけた体温の向こうに喉の骨が見えて、思わず心臓が跳ねた。
「寒いだろう」
短くそう言った次の瞬間――そのマフラーが、こちらの首にかけられた。
ふわり、と包み込まれる。まだ、体温が残っていた。外気とは違う、やわらかなぬくもり。
それに混じって、知らない匂いがした。港町の空気だろうか。それとも、ただ――アストンの匂いなのだろうか。
胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。
近い。思っていたよりも、ずっと。
「……あ」
声にならない音が、喉からこぼれる。何かを言おうとしていたはずなのに、その言葉が、すっかり霧散してしまった。
頭の中が、真っ白になる。首元のぬくもりに、春の終わりにお使いをした――洗濯の香水の匂いを無意識に探してしまったことに気がついて、恥ずかしくなった。目の前にあるアストンの気配だけが、やけに鮮明で、身体が熱くなる。
「あっ、あの……そういえば、お父さん、一緒じゃないの?」
話したいことがあったはずなのに、会話の種を探してしまう。何も知らないアストンは、ああ、と停留所の方を見遣った。
「明日の朝の便で帰ってくるんだ。俺は用があったから、先に」
「用?」
「ドンブクの革を預かっていただろう。作ってしまいたいと思って」
仕事かと納得をして、何気なく相槌を打つ。それからふた呼吸ほど置いて、あっと声を上げた。
「もしかして、私の?」
すっかり忘れていた。秋の初めごろに、害獣が畑を荒らすのだという話を聞いて――捕まえた一匹だ。駆除代の代わりに貰い、なめしてアストンに預けたまま、記憶の彼方へ飛んでいた。何を作ってくれるのかすらも知らない。
「嬉しいけど、せっかくなのに、わざわざ……急がないから、それこそ春になってからでもいいのに」
もう帰ってきてしまってから言うことではないかもしれないが、せめて今夜はゆっくり休んでもらえればいい。そう思ってしどろもどろと告げた。
アストンは、舞い散る粉雪に目を落としている。吐息ばかりが白く零れ、言葉は返らなかった。
「……急いでるの?」
その問い掛けに反応するように、睫毛が震える。けれど眼差しは上がらなかった。
「港町……何しに、行ったの……?」
あれほど熱かった身体は冷え、指先は凍り付くようだった。身を潜めていた不安が頭をもたげ、その存在を知らせる。
何でも良いから安堵の手掛かりが欲しく、重ねて口を開こうとして――息を詰めた。
アストンの瞳は、曇天の下で揺れていた。
違う。問い詰めたいわけでも、追い詰めたいわけでもない。アストンの描く行く先が見えないことへの怖さはまだずっと心の中にあって、抑えようとすれば、熱となって目から溢れ落ちてしまいそうにすらなる。
それでも、一番に話すことは、マフラーを編みながらもう決めてきたのだった。
「あのね、私……アストンに、聞いて欲しいことがあるの。忙しいのはわかってるんだけど、今から、一緒に行っていいかな」
もし駄目だと断られれば、という不安が、このとき初めてよぎった。
けれどアストンは少し迷ってから、頷いてくれた。
俺も、話しておきたいことがある、と小さく続けて。
その一言に、胸の奥が微かに締め付けられた。何かを話してくれることが嬉しいのか、怖いのか、もう判別がつかない。そうして頷き返してからようやく、自分の格好に改めて気が付いた。
ちょっとだけ待ってて、と告げる。このままでは、寒すぎる。――それだけではない。このままでは、自分の足で立てない。
首元に残るぬくもりに名残惜しさを覚えながらも、手を伸ばし、ひと息にマフラーをほどく。体温が離れた瞬間、冬の空気が首元へ鋭く入り込んだ。思わず、肩がすくむ。
「すぐ、戻るね」
それだけ告げて、宿へ駆け戻った。
階段を上がる足音がやけに大きく響く。息が浅く、胸が苦しい。逃げているみたいで、それが嫌だった。
部屋に飛び込むなり、外套を掴む。手が震えて、留め具のピンを上手く刺せない。
大丈夫。自分にそう言い聞かせながら、踵を返したとき――鮮やかな色に、視線が止まった。
机の上に置いたままの、薄紅のマフラー。
自分で選んだ色。自分で、編み進めたもの。
迷いも、怖さも、指の震えも。全部、ここに編み込んだ。
拾い上げ、ぎゅっと抱きしめると、不思議と手の震えが収まった。
逃げない。今日は、ちゃんと伝えるのだ。
外套を羽織り、マフラーを巻きつけて扉から飛び出す。階段を駆け下りるのは、行くためだった。
寒風の中へ躍り出せば、アストンは別れた場所のまま、マフラーを巻き直しもせず、ぼんやりと立っていた。濃紺の外套の肩に、黒色の髪に粉雪が薄く積もり、その姿を置物のように見せている。吐息の白さだけが、彼が生きていることを示しているようだった。
息を小さく吸う。踏み出した足を包むのは、アストンが縫ってくれた靴だった。
「お待たせ」
努めて明るく声をかければ、アストンの視線がゆるりと上がる。足元から、おそらく顔へと辿りかけた眼差しが途中でふと止まり――瞳が微かに、見開かれた。
一瞬の閃光に、目を細める。眩しいほどの茜色は、雲の切れ間からさした夕陽だった。
「マフラー……それは、」
「これ? 編み終わったの、あんまり上手くないんだけど……」
そういえば編む話をアストンにもしていた。それよりも、と足を一歩店の方へ進めたけれど、アストンは着いてこない。まだ、首に巻いた毛糸を見詰めていた。
「それは……それが、橙なのか?」
問われてから、色に迷った話までしたことを思い出した。首を横に振る。吹き付ける寒風はいつの間にか止み、粉雪も、姿を消しつつあった。
「やっぱり、買い直したの」
色がそんなに気になるのだろうか。マーケットでは愚痴のような話し方をしてしまったから、気にかけてくれていたのだろうかと思った。
「マルタさんには悪いことしちゃったけど……嬉しかった気持ちだけ貰っておくことにして、選ぶのは、自分が本当にいい方にしようって思って」
橙色も似合うって言ってくれたのにごめんね、と笑って、顔を上げる。
アストンはもう、マフラーを見てはいなかった。こちらを見詰める緑の瞳に、光が散る。晴れ間からさした陽が、その髪を、肩を照らし温め、積もる白雪を溶かしていた。
「そうか、」
呟くような声の端が震える。不意に視線が逸れ、手は額に触れるように、もしくは顔を隠すように持ち上がった。
浅く、まるで、泣くのを堪えるような吐息が零される。
相槌に込められた気持ちがわからず、ただマフラーの端を握り締める。アストンはもう一度、そうか、と呟いて、顔を上げた。
「――良かった」
その瞳は泣くようでもあり。
いつかの春の日に初めて見た、花のほころぶような笑みにもよく、似ていた。
アストンの纏う空気がふっと緩む。近頃のどこか張り詰めたものが溶けて、以前――今となっては遠い昔のように感じるけれど、アストラ・ポラリスのカウンター越しに、くだらない雑談を二人きりでしていた頃の姿が、ここにあるようだった。
「俺も、話があるんだ」
マフラーをようやく巻き直して、アストンはそう言う。悪い話かとまた咄嗟に聞きかけ、顔を見て、口を継ぐんだ。
鼓動が微かに跳ねる。冷えていた頰が、じわりと熱を取り戻す。
アストンは、やわらかくて、やさしい瞳で、こちらを見ていた。
帰ろうか、と誘う声に手を引かれ、足を踏み出す。前に伸びるのは、この一年で通い慣れた道だった。
街路樹も、立ち並ぶ商店も民家も。季節ごとに少しずつ装いこそは変わっても、見慣れた景色。愛しい夕方の光景。
いつもはアストラ・ポラリスまで小走りに向かっていたものだから、並んで歩く今の足取りは、常よりも遅い。
それでも鼓動だけは、石畳に落ちる足音より速く、駆け始めていた。




