表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/86

77.永遠の旅路を、あなたと

 アストンが店側の鍵を開ける。扉が軋み、聞き慣れた鐘が小さく鳴った。

 その隙間から、革と油の匂いがふわりと溢れ出す。思わず、胸いっぱいに吸い込んでいた。ここに来るたびに感じていた香りなのに、今日はひどく深く染みてくる。

 それは、久しく訪れていなかったからだけではなかった。

 追いつけなかった獲物の背。泥を蹴る足音。息の荒さ。もう遠くなったはずの光景が、匂いに引かれて胸の奥で静かに息を吹き返す。

 嫌いになりきれなかったのだ、と今になって思う。役に立てなかった自分も、逃げるように離れた故郷も。それでも、あれは確かに、自分を形作ったものだった。

 アストンの店に並ぶ革は、そのすべてを、当たり前のように受け止めている。大事に削がれ、縫われ、磨かれ、誰かの暮らしへと渡っていく。その光景の中に立つたび、捨てたと思っていた場所に、まだ触れられる気がした。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 アストンは小さなストーブをカウンターのそばへ運んで、火を入れてくれた。

 温もりが灯り、爪先がじんと痺れる。いつものように座れば、アストンも隣の椅子を引き出し、腰を掛けた。一瞬、沈黙が落ちる。

「あの、」「さっき、」

 出した声が重なる。無性に恥ずかしくなり、どうぞ、いや先に、と譲り合ってしまう。小さく咳払いをして、じゃあ先に、と口を開いたのはアストンだった。

「今朝まで、グランヴィエという港町に行っていた。そこの革工房の親方が俺の靴を見て、何年か勤めに来ないかと、声をかけて下さったからだ」

 言葉が耳を通り過ぎていく。勤めに、と復唱をしたのは、ただその語が耳に残ったからだった。

 処理しきれない情報の中で、アストンの縫った靴だけが脳裏に浮かぶ。艶やかな革は荷馬車に揺られ、遠い港町の棚に掲げられる。それを見て――これを作った職人が欲しい、と。思った人がいるということなのだ。

 顔を上げる。それはとても、誇らしいことだと思った。

「工房は大きいわけではないが、年代も技術も違う職人が揃っていた。海風がよく通るんだ。……見学に行ったとき、年かさの職人が、ひと回り下の職人に、縫い目の相談をしていた。逆じゃないんだ」

 話す瞳に灯りが映り込み、水面のように光を返す。その煌めきを見詰めながら、アストンの語る工房に、彼を置いてみた。

 いつも一人で線を引いて、ミシンを踏んで、本を紐解いては悩んでいたその背が。年上の職人と一緒に図面を覗き込み、時には歳の近い人と雑談をしながら、縫い上げていく。それはとても温かな光景だと思った。


 ――つまり、ここではない、どこかに行くということ?


 ひゅっと、胸の中の海に、氷の塊が落ちる。

「作りたいがあっても、出来ないものは技術の範囲内に収めるしかない。だが、あそこにいれば、作りたいものを作れる手になる。そう思った。だから、行くことに決めた」

 落とした視線の先には、見慣れた木目があった。カウンターの端についた傷。アストンの顔を見られないときはいつも、この白いひと筋を眺めていた。

 アストンは、何に対しても、一途な人なのだ。

 いつか何かの道が開けるかもしれないと祈って、手当たり次第に学んだ自分とは違って。生まれたときに贈られた道を大切に、愛おしく磨いて、辿れる人。誠実に熱心に向き合い続けてきた人が、もっとずっと遠くへ行けるというのならばそれは、泣きたくなるほどに嬉しいことだと思った。

 だから、胸が震えているのも、息が詰まるのも。嬉しさのせいだ。そうでなくてはならない。

「道が繋がったのは、収穫祭のおかげだ。だから本当は一番に、ティアに知らせたかった。……だが、この街を離れることをどう思うだろうかと考えると、ずっと言えずにいた」

 はっと顔を上げる。眼前の瞳は、未来の光景を見てはいない。ずっと、こちらを見詰めてくれていた。

「そのせいで、不安にさせてしまったと思う。すまなかった」

 思わず頬に手を押し当てる。自分はどんな顔をしてしまっていただろうか。首を横に、何度も振った。

「ううん……教えてくれて、ありがとう。いいことだよ、嬉しい、本当に」

 繰り返すほど嘘のように聞こえてしまう自分の声が嫌だった。

 ――行くことを決めた、と、アストンは言った。ひとりで、もう、そう決めたのだ。

 よかったと思った。もし自分の存在が彼の足を引き留めていたならば、それこそ、自分を嫌いになってしまいそうだった。

  震える手を、包んで隠す。けれどアストンはカウンターのこちら側にいるのだから、あまり意味のない動作だった。

「向こうには、何年、くらい……?」

「……俺は一人息子だ。いつかは、この店に帰りたいと思っている。けれど、それが何年後になるのか、何十年後になるのかは、俺自身にもわからない」

 そうか、と腑に落ちて、目の奥がつんと痛んだ。


 自分のことを想っていてくれているとは、ずっと感じていた。それなのにどうして告げてくれないのだろうかとも思っていた。きっと――アストンはずっと、苦しんでいたのだ。

 束の間、想いが通じ合ってしまえば、別れるときは今よりもずっともっと、心が千々に裂かれてしまう。それをわかっていたのだろう。そしてそれはきっと、アストンが自身の心を守りたいから言わなかったのではない。

 大切に想ってくれているからだと、自分はちゃんと、知っている。


「あの、あのね、」

 それでも。アストンがそれほどまでに守ってくれようとした気持ちを無碍にしてでも、言わないではいられなかった。先でどれほど苦しくなろうとも、悔いを残してはおけなかった。

 呼吸が詰まり、声の端が震える。瞬けば瞳の奥から熱が零れてしまいそうで、歯の奥を噛み締めた。

「私、アストンに、どうしても……」

「ティア」

 遮られる。言わせてももらえないのかと視界が滲む。首を横に振れば、もう一度名を呼ばれた。


 やわらかな声。花に触れるような、それでいて、強く縫い糸を引き締めるときの手にも似た、確かな音。それに呼吸の仕方を教えられて、深く、息を吸った。

「ここまでは、もう決めた話だ。この先の話をもう少し聞いてもらっても、いいだろうか」

 先、と繰り返したはずの声は、音にならなかった。


 瞬いた視界の中、アストンの背後には棚があった。並ぶベルトには見覚えがある。夏頃、他のベルト屋に妬いたアストンが、それからしばらく量産したものだった。その下には黒手袋がある。春の初め、まだアストンの両親のことも知らなかった頃――どれが自分の作ったものだと思うかと戯れに問われて、答えたものだった。

 ここには、アストンの歩んできた道のりがある。その端々に、二人で過ごした記憶が重なる。自分は確かにここに、彼の時間のそばにいたのだということに、瞼が熱くなった。

 ここでならばきっと、どんな言葉であっても聞ける。頷けば、アストンはふっと、頬を緩めた。

「ティア。……俺はティアのおかげで、もう一度生きていけると思った。自分の歩く先のことなんて、今まで考えもしなかったが、やっと見ることができるようになった」

 それは、もう胸にしまってある言葉だった。だからこそ、続く沈黙に、思わず息を詰める。

 アストンは一瞬、言葉を探すように口を閉じた。

「でも……もう知られてしまっているだろうが、俺は別に、出来た人間ではない。我儘なことだって考えるし、恋しくて何も手につかないこともある」

 少しだけ、困ったように視線を逸らす。そうして、ふっと笑った。


「ティアのいない夕方にはもう、耐えられない」


 鼓動が大きく、跳ねた。眼差しのやわらかさと言葉の熱さが合わず、息が詰まる。熱が頬へ広がり、視界が滲んだ。

「夕方だけじゃない。本当はいつも帰って欲しくなかった。一緒に夕餉の食卓を囲みたかったし、おやすみの挨拶は寝る前にしたかった。朝起きたとき、そばにいて欲しかった」

 ――おやすみ、と。いつも、いつだって、店先で見送り続けてくれた姿がよみがえる。振り返っても、小さくなって見えなくなるまで戸口に立ってくれていたのはいつからだっただろうか。

 夕刻の鐘を越えて、傍にいたかった。自分だけではなく――誰よりも恋しかった、この人も。

 瞬いた弾みに、堪えていたはずの涙が溢れ、零れ落ちた。


「好きなんだ。ずっと一緒に生きたい。結婚して欲しい。……一緒に、来てくれないか」


 返事をしたかった。今までの迷いも不安も全部まとめて、ここへおいでと差し出された場所へ、連れて行きたかった。けれど二度、三度と、何度も頷く間にも涙が熱く溢れて止まらなくて、息が出来ない。鼓動が駆けるせいで苦しくて、出そうとした言葉は震えて、上手く形にならなかった。

「私、私……アストンにね、この街が好きって、言ったんだけど、」

 口にしてから、きっとこの言葉もアストンを苦しめたのだろうと、今になって気が付いた。けれど、うん、と落ちた相槌はやさしい声だったから、もういいのだろう。もう、いいのだ。

「アストンと一緒なら、どこにいる自分だって、好きになれる。どこだってきっと、絶対、好きな場所になる。一緒に行きたい、生きたい」

 アストンの描く未来に自分がいた。自分の夢見るこの先にも、アストンがいる。そのことが胸に熱く、大きく膨らみ広がって、瞳から溢れるのを止められなかった。

「私も、好き」

 言い終わるのと同時に、やさしく引き寄せられる。触れた匂いに、頬がかっと熱を持った。

 抱き締められたのだと気が付くのに、少し時間がかかった。そのくらい自然に、このあたたかな腕の中が、居場所のように思えたからだった。

 擦り寄ると、額にアストンの首元が触れる。声も鼓動もすぐそこにあって、逃げ場がない。それが無性に恥ずかしくて――けれどどうしようもなく、嬉しかった。

 触れることをずっと禁じていたような距離を、アストンの方から越えてきてくれた。もういいのだ、と思えば熱がぽうっと灯り、思考の端も、身体の境界も溶ける。

 ずっとこうしていたい、と思う。それから、今日離れたとしても、これから何度でも、何十年先でも抱き締めてもらえて、抱き締め返せるのだと気が付いた。

 だから、どこへだって行ける。


 胸元に額を預ければ、アストンの洗濯香水の匂いがする。ふと、近い未来、青空の下に洗濯物を広げる自分の姿が浮かんだ。湧き立つ雲の下を海鳥が横切り、潮風に白い布がはためく。そうして、同じ香のするアストンと自分の洗濯物を、ロープに留めていくのだ。

 そんなささやかでとびきり幸福な光景を浮かべれば、またひとつ、あたたかな涙が頬を滑った。


 港町へ行く頃には、春が来る。




ここまで見守っていただき、ありがとうございました。

物語としてはもう波乱はありませんが、あと9話ほどかけて、ゆっくりと閉じていく予定です。

最後までよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ