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75.編んで、編み上げて

 ソニアを途中まで見送って、角を曲がるところで手を振った。明るい声が背に届き、やがて足音も遠ざかっていく。

 ひとりになった通りを歩き出すと、胸の奥に残った温もりが、ゆっくりと静かに息づいた。

 怖さも、不安も、まだ消えてはいない。けれど今朝までよりもずっと、世界がやわらかく見える。冬の光は冷たいはずなのに、頬を撫でる空気はどこか優しかった。


 ふと顔を上げると、視線の先に見覚えのある窓枠があった。硝子越しには、棚いっぱいに並ぶ毛糸。色とりどりの糸が、陽を受けて静かに眠っている。

 足が、自然と止まった。

 ――あの日、迷いながら選んだ橙色。

 胸の奥でほどけずにいた結び目が、そっと疼いた。

 いつまで経ってもマフラーが編み進まない本当の理由を、自分は知っている。ずっと目を背けていただけだ。マルタの好意を断ることを、そしてそう決める自分を知られることが、怖くて。

 ショーウィンドウの向こうでは、あの日憧れた薄紅の毛糸の玉が、宝石のように煌めいている。そのとき不意に、カトリーナの瞳がよみがえった。

 ――選んだのは、私だよ。

 黄金色の落ち葉の中、涙で濡らした目を拭ってそう言い切った姿が、どれほど格好良かったことか。

 人は変われる。カトリーナも――自分も。


「こんにちは。すみません、あの、毛糸をお願いします。はい、これを、六玉」

 紙幣を渡す手が、紙袋を抱える手が震える。腕に抱いて駆け出せば、早鐘のように打つ鼓動の理由は、自分でもわからなかった。

 手に入った、自分で選べたことへの喜びだったかもしれない。断ったことへの罪悪感、マルタはどんな反応をするだろうかという不安だったかもしれない。その両方かもしれないし、違う何かかもしれなかった。

 それでも、これがいい。

 何を勧められたって、これが、いいのだ。


 息を切らして宿に入り、ケープの襟元を緩める。部屋へ上がって早速編もう、と、二階へと続く階段の手すりに指をかけた。そのときだった。

「おかえり、ティアちゃん」

 心臓が、大きく跳ねた。マルタが厨房の方から顔を出すのは、いつものことだった。その視線がふと、紙袋の中へと滑る。咄嗟に腕でその眼差しを遮ろうとして――それは違う、と、身体を押し留めた。

「あの……」

 声が掠れる。

「橙色の毛糸、似合うって言ってくれて、すっごく嬉しかったんです。でも、やっぱり、こっちがよくて……」

 知らず、浅くなった呼吸が喉に詰まる。それでも嘘はつきたくなくて、言葉の端が震える。言い終えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。叱られもしないのに、叱られるみたいに、息を止めてしまう。

 マルタは、少しだけ目を見開いて――それからふっと、そっか、と笑った。

「それ、選んでる今の顔のほうがね。前より、ずっと好きだよ」

 穏やかな瞳が、やわらかく細められた。胸の奥で絡まっていた糸が、ほぐれていく。

「……怒って、ないですか」

 自分でも情けない質問だと思う。それでも、聞かずにはいられなかった。

 マルタは少しだけ肩をすくめるようにして、笑う。深くなった目尻の皺は、毎日毎日こうして自分に、笑いかけてくれていたことの証のようだった。

「なんで怒るんだい。あのときの似合うってのも本当。今日の顔がいいってのも、本当。本当が増えただけだよ」

 唇を噛む。そうしなければ泣いてしまいそうで、長く、細く息を吐いた。

「ありがとうね。これがいいって私に言うの、すごく勇気のいることだったろ」

「マルタさん……」

 声の端が震える。返せる言葉が思いつかず、ただ名前だけを呼んでしまう。けれどーーいや、きっと、だからこそ、返ってきた声は、いつもの朗らかさだった。まるで食事ができたと呼ぶときのような、特別なことなど何もないというような音。

「さ、冷めないうちに編んできな」

 その言葉に、胸の奥で風が吹いた。絡まっていた糸が、するりとほどけ落ちる。返事をすれば、階段を駆け上がる足は、嘘のように軽くなっていた。


 部屋に戻るなり、紙袋を机に置く。薄紅の毛糸玉を一つ胸に抱くと、まるで心臓の鼓動と重なるように、ぽっと温もりが灯った。

 ――これで、編みたい。ただ作るのではなく、欲しいと思った気持ちごと、編み込んで。

 針を取る。糸をかける。一目、一目、指先が走り出す。

 迷いが消えた手は速く、今までよりもずっと滑らかに編み目を送り出した。

 

 編み音だけが落ちる室内は静かで、凪いだ心の中に、記憶がよみがえる。

 毛糸を買う前、ソニアを見送っていったときのことだった。花嫁衣装のことが心に残り、ふと、尋ねたのだった。

「ソニアはなんで、私にこんなに良くしてくれるの?」

 馬鹿な質問だったかもしれない。好きだからだよ、と臆面もなく笑みを向けられて、照れてしまった。それでも尚、どうして、と食い下がれば、ソニアは首を傾げた。

「好きな理由ってこと?」

 頷いてから、付き合いたての少女のような質問をしてしまっていることに気がついて、少し恥ずかしくなった。だから、ソニアが考え込みながら歩いた一区画分が、とても長い距離に思えた。

「ティアのいいところならたくさんあるけど……だから好きってわけでもないと思う。考えたことないや」

 そう言ってソニアは、朗らかに笑ってくれた。


 自分はアストンの格好いいところを、星の数ほど知っている。

 けれど知っているのはそれだけではない。

 気が緩むと、言葉遣いが幼くなるところ。革製品のことになるとすぐ妬くところ。意外と洗いものを億劫がるところ。

 完璧ではない人だからこそ。この人が道に迷うことがあれば、自分が力になりたいと思った。それが出来なければ、一緒に迷ってあげたいと思った。


 その願いが浮かんだ瞬間、胸の中で長く伸びる道の街灯が、奥へ向かって一斉に灯る。


 長雨の頃、昏睡の中で自分は夢を見た。

 そのときの心は、自分にはアストンが必要なのだ、この人と生きたいのだと叫んだ。今もそれに変わりはない。

 けれど、それだけではない。

 友達ではない関係になりたいのは、何故。触れても許される口実が欲しいから?

 違う。

 この先の人生を、彼の一番近い場所で歩んで行きたい。アストンと手を取り合って、同じ景色を見て、歩いて行きたかったからだった。


 編み棒の先から、薄紅の毛糸が送り出される。

 編み目はところどころまばらであるし、幅もきっとばらつきがある。それでも今は、不完全であっても、自分で選んだものを形にしてしまいたかった。


 糸に触れるたび、胸の奥に灯がともる。ぽうっと小さく燃えて、消えずに残る灯り――あの背を、瞳を浮かべるだけで熱を持つ、そんな火だった。

 夜にかけて、机の上の糸玉が少しずつ小さくなっていく。代わりに胸の奥では、言葉にならない想いが、静かに、確かな形を帯びていった。好きという言葉だけでは足りない。必要という言葉でも追いつかない。言葉にすれば壊れてしまいそうなくらい繊細で、それでも揺るがないものが、心の中心に静かに編み込まれつつあった。


 翌日も仕事から帰れば、ストーブのそばへ毛糸を連れていき、夜に溶かすように指を動かした。

 ひと目編むたび、少しずつ迷いがほどけていく。

 ――私は、ただ傍にいたいんじゃない。ただ守られたいのでもない。アストンの隣で、支え合って生きていきたいのだ。



 そして三日目。先生の往診で午後が空いた。アストラ・ポラリスの扉に貼られていた紙は、営業再開の日を明日に定めている。

 今日、帰ってくるかもしれない。そう思って窓辺に椅子を寄せ、針を取った。通りに響く馬車の音が胸の鼓動をさらってゆくたび、思わず顔を上げて外を見てしまう。まだ姿はない。でも、きっと、帰ってくる。そう思うだけで指先が震えて、毛糸に込める想いも、少しだけ熱を帯びる。

 伝えたい。アストンの心がどこまで来てくれているのかわからなくても、どんな答えでも。今度こそ、自分は逃げない。この胸の灯を、あの手に渡したかった。


 夕刻、最後の目を閉じた瞬間、呼吸も静かに落ち着いた。膝の上の薄紅のマフラーが、夕日の光を受けて淡く染まる。胸の奥で、同じ色の灯がふっと明るく灯った気がした。

 ――もう、大丈夫。いつだって、アストンに会いに行ける。



 そのまま、しばらく窓辺に立っていた。夕暮れはゆっくりと街の輪郭を溶かして、通りの音をやわらかく包み込んでいく。人の流れも、行き交う馬車の数も、少しずつ落ち着いてきていた。

 遠くで、停留所に馬車が入る音がした。軋む車輪の音と、御者の短い声。それは珍しいことではなくて、今日だって何度も聞いた音だった。

 けれど今だけは、なぜか視線が引き寄せられた。理由はわからない。ただ、胸の奥の灯が、わずかに揺れた気がした。

 停留所に人が降り立つ。外套に身を包んだ数人が、それぞれの方向へ散っていく。その中に、ひとつ――見覚えのある背中があった。

 一瞬、息をするのを忘れた。よく似た人は、この街にもいる。そう思おうとしたのに、視線は離れなかった。

 肩にかけた旅行鞄。見慣れた歩幅。馬車の中で寝ていたのか、左後ろが少し跳ねた髪。

 胸の奥で小さく、薪のはぜるような音がした。灯が、確かな明るさを持って燃え上がる。

 アストンだった。


 手の中のマフラーは、まだあたたかい。それをぎゅっと握りしめてから、小さく息を吸った。

 ――言おう。今日は、ちゃんと。


 部屋中に広げた想いを掻き集め、腕の中へ束ね直す。その重さを確かめるように抱き締めて、扉の方へ一歩、迷わずに踏み出した。




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