36 曇天の帰宅道
校舎正面玄関から見上げる空は、一面の薄い雲に覆われていた。わずかに陽光を透かしぼんやり白く輝く天蓋は雨粒を零す気配をポツリとも感じさず、緩やかな風の中をただゆったりと流れるばかりだった。
つまり現状、僕の手に握られている傘は無用の長物でしかない、と言う事であ
る。まだ空が鉛色だった、朝方の自宅玄関での頼もしさは今や幻と去り、残されたのはただの細長い荷物と落ちぶれた姿だけであった。恐らくは同じ空の元、創意工夫に溢れた小学生達の手によって、チャンバラ用兵器として転用されるものも存在しているのであろうが、生憎と高等教育機関の庭先においては無縁の光景である。
「午後から雨とか言ってたけど……外れだな」
「……でも、今夜からまた降るって予報で言ってる」
空を見上げて呟く大地に、携帯端末のホログラム画面に目を落とす帆乃香が答える。
「やーになるわよねー、本当。ここんとこ雨ばっかで……。靴濡れるし」
湿度相応に湿った表情で、舞が愚痴る。確かに徒歩通学である僕らにとって、雨天は面倒なものである。もっとも、同級生の自転車通学者曰く『通気性最悪の雨合羽着込んで、せっせと自転車漕ぐ苦労を想像してみろ。雨の代わりに、汗で全身濡れるぞ』……らしいけど。
「あー……気が滅入るわー……。ジメジメしてるし、外出掛けづらいし――」
「……それに今夜、雷も鳴るって」
「――え、ホント?」
舞の声が、にわかに弾む。曇天に向けられた瞳は明るく輝き、その横顔からは実に晴れやかな表情を覗かせていた。
「いやー、今夜楽しみだわー。遠くでゴロゴロ鳴ってくれる程度がベストなんだけど、いっそド派手にドンガラガッシャンと行くのも良いかもねー!」
「……一応聞くけど、舞」
「ん?」
「君、台風の日とかどう思う?」
「最高だと思う」
「ありがとう。予想と寸分狂わない回答だったよ」
逡巡、と言う概念もない舞の即答ぶり。彼女のような生き方が出来れば、さぞや人生が楽しくなる事だろう。不思議な事に、羨ましいと言う感情はついぞ湧いては来なかったけど。
「あのなー、二階堂。のんきに言ってるけど、何か被害出たらどうすんだよ」
「まあ、そうなんだけどー。でもさ、普通と違う感じとか、テンション上がらな
い?」
「……私は不安になるけど」
「えー、そんなもんなのかな?」
「まず間違いなくそんなもんなんだよ」
皆の賛同を得られなかった舞は、軽く口を尖らせる。
「む〜……。あ〜あ、どっかの科学者が、被害のない雷とか台風とか自由自在に起こせる機械発明しないかなぁ……」
「君の夢は、もうちょっとピントを合わせる努力しても良いと思うよ」
天候操作系の科学技術はそれなりに進行しているけど、それらはまず間違いなく舞の需要を満たす代物ではないだろう。
と言うか、Cosmos持ってるんだから、フリーの環境ソフト辺りをダウンロードすれば良いだけではないのか。ちょっと気の利いたソフトなら、ベネズエラはカタトゥンボ川の『一時間に三六◯◯本の稲妻』だって体験出来るだろうし。
そうこうしている間に、校門にたどり着く。
「じゃあねー昂、後藤。また夜にね」
「……じゃあね」
舞と帆乃香の二人が手を振る。普段なら僕も『じゃあまた』と手を振って、二人と別れるところなんだけど、
「それじゃ、大地。僕、今日はちょっと駅前に用事あるから」
「ん? ああ、そう言や今朝そんな事言ってたな」
「あれ? 昂、こっち来るの?」
キョトンとしつつ、舞は尋ねる。
「まあ、ちょっと電気屋にね……」
僕としては一切合切の道草を食う事なく、真っ直ぐ家に帰って速やかにベッドに身体を投げ出し、のんびりゴロゴロとしたいところなんだけど……あの母親がそれを許さなかった。
朝、僕が出掛ける際に『ああ、昂。あんた学校からの帰りに、電気屋さんで電源タップ買って来て頂戴。これ代金ね』……などと言われた事が、悲劇の始まりだった。電源タップ位、近所のスーパーにも置いてあるだろう……と言う反論を母さんが一切受け付けるつもりがない事は、同時に渡されたYAMANA電気のポイントカードが雄弁に物語っていた。
息子をまるで自分の手足の如く使うだけでは飽きたらず、たかが数ポイントの利益のために、わざわざ遠方の電気屋へと向かう事を強いる。傍若無人の権化とでも言うべき邪悪極まる人物、それが僕の母・成田雪なのだ。
せめてもの抵抗として、『はい、電気屋さんで電源タップ買って来たよ!』と言いつつ、電源タップと"百萬ワット"のレシート、一切ポイント変動のないYAMANAのカードを突き出す……と言う、子々孫々まで拍手喝采と共に語り継がれるであろう頓知を披露しようかとも思ったが、面倒なので止めた。
次善策として、僕が電子マネーを買うついでとして、電源タップを買って来てあげる……と言う風に、脳内で事実関係を改竄しておく。実際、接続料金用にチャージしていた分がそろそろ切れそうだから、追加しておきたかったし。
「そうなんだ。じゃー、もうちょっと昂と一緒だね」
「そうだね」
家の方角が正反対である都合上、下校時に舞と一緒にいるのは校門までだ。それに普段は、大地と帆乃香も付いて来る。そう考えると、舞と二人での下校、と言うのはちょっと珍しい。
「んじゃーな、昂介。二階堂と辻も」
「……じゃあね、みんな」
「じゃーねー!」
「それじゃ」
別れの挨拶を交わしつつ、僕は舞と二人で並んで歩き出した。
雲の薄い切れ目から、ほんの一時だけ太陽が顔を覗かせる。色濃くなった影をアスファルトの地面に落とし、僕と舞は歩道を歩く。片や帰宅、片や買い物と目的こそ違えど、動作そのものに違いはない。
「うーん、結構新鮮かも。普段は一人だから」
「ああ、そうだっけ。中学の時なんかはどうだったの?」
「やっぱ一人。マンションの同じ階に同年代の子いないし」
「ふーん……って、舞ってマンション住まいだったんだ?」
「そだよ。言ってなかったっけ?」
「うん。初耳」
まあ確かに、わざわざ自分から言い出す機会もそうないか。
「両親とあたしとで、三人で暮らしてるの。ちなみに分譲。両親が共働きで、そこそこ稼ぎ良いから」
「そうなんだ」
「まあ、お陰で両親が不在の日もそこそこ多いけどね。昔程じゃないけど。これで結構大変なのよー。買い物に、掃除に、洗濯に、料理に。朝はお弁当作んなきゃいけないし」
「へえー……え?」
サラッと出て来た言葉が、心に引っ掛かる。
「……舞、いつも昼に食べてる弁当って、自分で作ってたの?」
「そだよ?」
お……驚いた。意外、と言ったら普通は失礼に当たるかも知れないが、普段の舞を知っている僕にしてみれば意外、と言う感想を思い浮かべるより他なかった。
「どしたの? 目ぇまん丸にして」
「いや……てっきり親御さんに作ってもらってると思ってたからさ……。だって君の弁当、いつも美味しそうだし、盛り付けとかも凄く丁寧だし……」
「感心したような口調で、かなり失礼な事言われてる気がするんだけど?」
「普段から『良いって良いって、適当で!』……とか言い続けてさえいなければ、素直に謝ってるところなんだけどね」
「何よーうっ」
そう言って舞は、傘の柄のU字部分を僕の腕に引っ掛け、軽く引っ張って来た。メーカーの想定していない使い方の一例である。
「まあ、毎日って訳でもないけどね。ママが作る時だってあるし。大体半々か、少しあたしの方が多いか位の割合かな」
「それって、結構大変じゃない?」
仮に僕が同じ立場に立たされたとしたら、確実にコンビニ通いとなるだろう。
「慣れると平気よ。割と楽しいし」
「へえ」
"平気"どころか"楽しい"と来た。僕にはもう、全く想像の付かない世界である。
「毎日見てるけど……端から見てる分には、お母さんが作ってる日と舞が作ってる日の区別、全然付かないな。ああ、そう言えば舞って、家ではママって呼んでるんだっけか」
それなりに冷凍ものも混ざってはいるだろうけど、例えば卵焼きなんかは明らかに自家製だ。料理の味付けとか、親御さんに似てるのだろう。
何気なく言った事だったけど、舞の反応はそれこそ意外だった。
「……え?」
「……え、と言われても」
「いや、その……あたし、ママって言ってた?」
「ん? 言ってたけど」
舞はしばらくポカンと口を開けて佇んでいた。それからしばらくして、顔を一気に赤く染め上げ、「ああああああ〜……」と頭を抱えてその場にへたり込んでしまった。
「バカぁ、あたしのバカぁ〜……。うああ、恥ずかしいぃ〜……。よりにもよっ
て、昂に聞かれたぁ〜……」
「……ええっと、あの……?」
つまり、家で母親をママと呼んでいる事を知られたくなかった、と。そう言う事だろうか。
いやまあ、一般的な日本の高校生がママと呼ぶのは、どちらかと言えば珍しい部類には入るんじゃないかとは思うけど……。
だからって、別に変な事でもないだろう。そんなに恥ずかしがる必要ないだろうに。そう思うのは、僕の姉さんと言う、ある意味特殊なケースの当事者だからだろうか。それともまさか、僕が『日本人的に言って、"まま"は母親ではなくて、ご飯の事ではないのか』なんて言い始めるとか思っているのだろうか。
しばらく悶えていた舞は、やがて立ち上がり、僕に向き直った。
「内緒」
「え?」
「だから、内緒にしといて。あたしの、家での親の呼び方」
僕の顔に、ズイッと顔を近付けて来る。朱に染まった頬が、少し潤んだ瞳が、整ったかんばせが、すぐ側まで迫る。舞の口から漏れた微かな吐息が、僕の肌を撫でる。
思わず|一歩後退りしつつ、顔を逸らしてしまう。何と言うか、舞のこんなところが困る。物理的な距離感が近いと言うか、僕が"異性"であると言う認識がイマイチ薄いと言うか……。そのくせ、別のところでは羞恥心を発揮する。
彼女の事が、分かるようで分からない。考えている事だけは、分かり易いのに。
「良いけど……そこまでして内緒にしたいものなの?」
「だって〜……。何か恥ずかしいんだもん……」
「だったら、呼び方変えてみるとか」
「今更変えるのも、それはそれで変じゃないの。何か、気が付いたら定着してたって言うか」
「そもそも、周りはそんな気にしないって。……もうこの際自分で地雷踏み抜くけど、蓮華姉さんが僕にべったりなの見て、どう思った? 君ら結構、それをネタに僕の事からかってたけど」
件の弟フォルダ鑑賞事件の傷が激しく痛むのを心の涙と共に堪えつつ、尋ねる。
「う……わ、悪かったわよ……。でもあれ、昂にも原因あるからね?」
「それに関しては無視を決め込むよ。で、どう?」
「う〜ん……別に姉弟仲が良い事は悪くないし。てか、一人っ子なあたしとしてはちょっと羨ましいところもあるし。そりゃあ、ちょっとはイジる事もあるかもだけど、別に本気で変だなんて思わないわよ」
「人から見れば、そんなもんだって。今時、周囲と違う人間に罪悪感植え付けて恭順させるか、社会的に排除するか……なんて時代でもないし」
「そうね。……ありがと、昂」
「どういたしまして」
「でもでも、やっぱ内緒だからね?」
「分かってるってば」
流石に、そこは譲らないらしい。まあ、こっちも譲って欲しい訳でもないし、別に良いか。
「……と。あたしはこっちだから」
ブランコと滑り台、いくつかのベンチがあるだけの小さな公園に差し掛かった辺りで、舞は曲がり道を指差す。その向こう、百メートル程先に見えるマンション
が、舞の自宅なのだろう。
「それじゃあ、舞」
「じゃあね、昂。今夜は遅れちゃダメよ、大事な日なんだから」
「了解了解」
もう一度「じゃあねー」と言ってから、舞は曲がり道の向こうへと歩いて行く。僕は少し立ち止まり、その背中をぼんやりと眺める。
MROを始めて二ヶ月程。毎日プレイし続けて、それなりに二階堂舞と言う人間を知る事が出来たと思っていたけど、案外そうではなかったようだ。彼女の意外な一面が垣間見えた、と言う意味ではこの寄り道も無駄ではなかったと思う。もっとも、わざわざ母さんに感謝はしてあげないけど。
一人になった僕は再び足を動かし、電気屋へと向かって歩き始めた。




