捨てる線、守る人
北部からの続報が王都に届くより前、マルクラントの討伐線で、バルドロフは柵を離れた兵を呼び止めた。
「そこの空きを頼む」
兵が振り向き、指された方へ身体を戻した。その肩越しに、柵へ取り付いた妖魔が見える。隣で防いでいた冒険者が声を上げ、戻った兵はそちらへ向き直った。
空いていた場所に人が立った。だが、バルドロフが柵に沿って目を動かすと、今度はその隣で防ぎ手が押し寄せる動きへの対応に追われていた。こちらへ寄れと言いかけ、口を閉じる。呼べば、今埋めたばかりの場所から人を抜くことになる。
「戻ったぞ!」
兵の声に、バルドロフは頷いた。
戻れという指示は届いていた。足が止まっているわけでも、持ち場を見失っているわけでもない。柵に取り付く妖魔を防ぐたび、手の足りないところへ身体が寄っていく。目の前の人間にもう一度戻れと怒鳴っても、その動きまでは止められない。
バルドロフは自分の受け持つ範囲を見渡した。柵のそばにいる自治領兵も冒険者も、目の前へ向き直るだけで精いっぱいに見えた。
呼びかけようとして息を吸う。その間にも兵の踵が動き、後ろへ出せたはずの足が柵の方へ踏み直された。
あの足を、いつ引かせる。
柵の前へ戻すたびに、次は下がらせにくくなる。バルドロフは兵の背を見た。今なら声を掛けて振り向かせられる。だが、このまま戻れと命じ続ければ、顔をこちらへ向ける隙さえ失わせるかもしれなかった。
「バルドロフ!」
冒険者が柵から目を離さずに呼んだ。バルドロフがそちらへ寄ると、相手は空いたところを顎で示した。
埋めてくれということだ。バルドロフは呼べる人間を探し、柵へ向いている肩から肩へ視線を移した。人を動かした先だけを見れば、まだ支えられるように見える。抜けた側にも同じことを命じれば、また誰かを戻さなくてはならない。
喉まで出た指示を呑んだ。
ここに留めておけば、いずれ人を後ろへ出せなくなる。そう判断した途端、目の前の柵を支え続けるための言葉が出なくなった。
バルドロフは息を吐き、近くの兵と冒険者に届くよう声を張った。
「俺の持ち場は退くぞ。人を下げる」
兵が顔だけをこちらへ向けた。その向こうでは、柵に取り付いた妖魔への対応が続いている。
「ここを空けるのか」
「ああ。下がれ」
兵の視線が柵へ戻った。バルドロフもそちらを見た。そこから人が離れれば、その人が防いでいた場所は空く。それを見ながら退けと言うのは、戻れと命じるよりも喉に力が要った。
兵が足を引いたとき、隣の冒険者が身体を寄せかけた。
「そこへ戻るな。お前も下がれ」
冒険者がバルドロフを見た。開きかけた口を閉じ、足の向きを変える。バルドロフはその肩から視線を外さず、自分も後ろへ足を運んだ。
柵の方で声が上がると、兵が振り返った。バルドロフにも、もう一度あそこへ人を戻せばという考えが浮かんだ。さっきまで自分が命じていたことだ。足を止めかけた兵の背へ手を当て、下がるよう促した。
手の下で肩が動く。兵は柵を見たまま、後ろへ足を出した。
バルドロフはその動きに合わせて下がった。近くの冒険者も柵から離れてくる。口を開けば戻れと叫んでしまいそうで、奥歯を噛んだ。
退けと決めても、柵から目を離せなくなるとは思わなかった。人のいた場所へ視線が吸い寄せられる。そこを見続けながら、そばを下がる兵の足音を聞いた。
「下がってくれ」
今度は近くの者に向けて言った。兵が頷き、バルドロフの横から後ろへ動いた。目の前でその身体が柵から遠ざかるのを、途中で呼び戻さずに見送った。
声を出したあとの息が喉に残った。バルドロフはそれを吐ききり、伝令を呼んだ。
顔を寄せてきた相手に向き直ろうとして、また柵を見た。さっき人を戻したところだ。今はそこへ戻れと命じるつもりはなかった。
「王都へ報告を頼む」
伝令が頷いた。バルドロフは言葉を継ぐ前に、自分の後ろへ下がった兵と、柵から離れてくる冒険者へ目をやった。
「俺の受け持つ場所を維持できず、人を退かせた。そう伝えてくれ」
伝令は顔を上げたまま、続きを待っていた。
バルドロフの胸には、柵へ戻る兵の踵が残っていた。戻れという声に従って踏み直した足だ。そのたびに、人を下げる余地まで狭めていたのではないか。
そこまで言いかけ、伝令の顔を見る。今伝えてもらうのは、自分がこの持ち場を下がらせたということだった。
「頼むぞ」
「承知した」
バルドロフは頷いた。報告を託す相手の顔を見届けてから、そばで下がる人々の方へ身体を向けた。自分の足も、柵から遠ざかる方へ踏み出した。




