暮らしから広がる噂
「明日の分も、買っておいた方がいいと思うかい」
差し出しかけた杯を持ったまま、ヘルガは客の顔を見た。
「何を」
「食うものさ」
客は脱いだ上着を膝に丸めていた。指がその端を引っ張っている。
「腹は明日も減るだろうさ」
杯を置くと、客は手を伸ばしたが、すぐには飲まなかった。
「そういう話じゃなくて。余分に、ってことだよ」
ヘルガは空いた手で卓を拭いた。杯の底から流れた滴が、布に吸われて消えた。
「食べきれる分にしておきなよ」
「困ってからじゃ遅いだろ」
隣の卓から声がした。肘をついていた客が、こちらへ顔を向けている。
ヘルガが布を畳み直す間に、上着を抱えた客はそちらへ身を乗り出した。
「何か聞いたのか」
「いや。先のことはわからんって話だ」
伸ばしかけた首が戻った。
「……だから聞いたんだよ」
ヘルガは杯を指さした。
「まず、そっちを飲んだらどうだい」
客はようやく口をつけた。喉が動いても、膝の上の手は上着を離さなかった。
別の卓から呼ばれ、ヘルガはそちらへ向かった。空いた杯を下げ、酒を注いで戻す。今度は受け取った手がすぐに持ち上がった。
卓を離れると、先ほどの二人の声がまた聞こえた。
「仕事には出るんだろ」
「出るさ。出なきゃ食えない」
そこで笑いが起きた。ヘルガも口元を緩めたが、続いた言葉で足を止めた。
「ずっとそうしてていいのかって思うんだよな」
顔を向けると、言った客は杯の中を覗いていた。もう一人も笑うのをやめている。
ヘルガは声をかけようとして、手元の盆を持ち直した。酒を足してほしいのなら、そう尋ねられた。今の言葉には、何を持っていけばよいのかわからなかった。
卓の端にいた見知らぬ客が立ち上がった。
ヘルガが勘定を受け取ると、客は短く礼を言って戸口へ向かった。呼び止める用はなく、その背中もすぐに扉の向こうへ消えた。
残った杯を取るために椅子を引いたとき、座面に白いものが見えた。
折られた紙だった。
「忘れ物だよ」
戸口に向けて声を上げたが、返事はなかった。
杯と一緒に拾うには邪魔で、ヘルガは紙を先に取り上げた。指を離すと折り目が少し開き、内側の文字が覗いた。
――大地が還る。
その一行に目を留めてから、紙を開いた。下には、ともに語ろうという呼びかけと、集いへの誘いが続いている。
ヘルガはもう一度、最初の行を読んだ。
「何だって?」
上着を抱えていた客がこちらを見ていた。
声に出していたらしい。ヘルガは紙を少し持ち上げた。
「こう書いてあるんだよ。大地が還る、って」
「どこへ」
「私に聞かれてもね」
客は立ちかけ、膝から落ちそうになった上着を押さえた。
「見せてくれないか」
ヘルガが渡すと、客は両手で紙を伸ばした。隣の卓にいた男も椅子を寄せてくる。
重なりかけた杯を避け、ヘルガは空いたものだけを盆へ載せた。
「還るってことは、もといたところがあるんだろ」
「そういう言い方だね」
「誰が言ってるんだ」
「その紙に書いた人さ」
答えながら、ヘルガは戸口を見た。さっきの客の姿はもうない。
あの席にあっただけで、あの人が書いたものかどうかも知らなかった。
「集まって話を聞けってことらしいな」
椅子を寄せた男が、紙の下の方を指した。
上着を抱えた客はそこを読んでから、また最初の行へ目を戻した。
「こういうことかねえ」
「何が」
「落ち着かないのはさ。俺だけが妙なことを考えてるんじゃないんだろ」
ヘルガは盆を卓の端へ寄せた。
「それを置いてった人に、何か話したのかい」
「いや」
「じゃあ、あんたのことを聞いて書いたわけじゃないよ」
客は頷いたが、紙を返そうとはしなかった。伸ばしていた指を曲げて持ち直し、折り目のあるところを親指で擦っている。
少し離れた席から笑う声がした。
「大地がどうしたって、こっちの腹が満ちるわけじゃあるまい」
ヘルガが振り向くと、空いた皿を前にした客が、二人を見ていた。
「そりゃそうだ」
紙を持った客も笑った。
「でも、何か聞けるかもしれないじゃないか」
「何を」
「……先のことを」
皿の前の客が黙った。ヘルガは盆を持ち上げようとして、その客の手が差し出されるのを見た。
「ちょっと、こっちにも」
紙が卓を渡った。
受け取った客は片手で皿を押しやり、空いたところへ紙を広げようとした。
「そこは濡れてるよ」
ヘルガが言うと、客は慌てて持ち上げた。先ほどまで紙の話を笑っていた口元が、今は固く閉じられている。
ヘルガは盆を置き、布で卓を拭いた。その上へ置かれた紙に、両側から手が添えられた。
「何て書いてあるんだ」
後ろから尋ねる声がした。
紙を受け取った客が最初の一行を読み上げると、その隣から同じ言葉が繰り返された。
「大地が還る、か」
ヘルガは布を持ったまま聞いていた。
さっきまでは座面に挟まっていた忘れ物が、いまは卓の真ん中にある。誰かが杯を置こうとするたび、別の手が紙を押さえて場所を空けた。
「女将」
呼ばれて顔を上げると、上着を抱えていた客が立っていた。
「勘定を頼む。帰りに、少し買っていくよ」
「食べられる分にしなよ」
客は頷き、上着を着た。戸口へ向かう前に紙のある卓を振り返ったが、取り戻しには行かなかった。
ヘルガは受け取った代金を手の中で揃えた。
買っておいた方がいいかと尋ねたときより、客の声には力があった。その背を見送りながら、胸のあたりが少し重くなった。
紙の周りでは、まだ話が続いていた。
別の客に呼ばれ、ヘルガは盆を持って歩きだした。背後でまた、あの言葉が聞こえた。今度は、明日の仕事の話に交じっていた。




