記録を開く範囲
王都へ戻ってから、ラーメルトはエノアの帳面にまとめた問いを紙へ写した。
その紙が今、王城の部屋でアンデルスの手に渡っていた。
窓から入る光が卓に落ちている。フルメアはラーメルトの隣に座り、向かいの王とグレインも、老人が読み終えるのを待っていた。
アンデルスの前には台帳が置かれていた。閉じた表紙の上に、紙の下端が重なっている。
「……これを聞きに来たか」
「はい」
アンデルスは問いを読み返し、紙を脇へ置いた。
ラーメルトは台帳から目を離せなかった。あの黒い岩の館では、見せてほしいと頼むことしかできなかった。『ならぬ』と返された声まで、今も覚えている。
「今日は、熱の台帳を見せよう」
表紙が開いた。
ラーメルトが背を起こすと、アンデルスは頁を押さえたまま、フルメアにも目を向けた。
「二人には、この部分を。……すべてではない」
「ありがとうございます」
頭を下げたとき、卓の縁に手が当たった。
フルメアがわずかに身を引き、二人で読めるように場所を空ける。ラーメルトも椅子を寄せようとしたが、膝が卓につかえた。
「先に手帳を置いたらどうだ」
グレインの声に、膝の上の手帳をまだ握っていたことに気づいた。
父へ頷き、台帳に重ならない場所へ置く。今度は少し落ち着いて座り直せた。
アンデルスが台帳を二人のほうへ向けた。
ラーメルトは開かれたところへ顔を寄せる。いつ、どこで、水がどれだけの熱さで沸いたか。その記載を、指を触れずに目で追っていった。
かつて言葉で聞いた台帳が、手の届くところにある。
すぐ隣でフルメアも読んでいた。彼女は読み進める途中で顔の角度を変えた。ラーメルトは自分の肩が光を遮っているのに気づき、少し横へずれた。
「……ありがとう」
小声が返り、二人はまた頁へ目を落とした。
ラーメルトは持参した紙を引き寄せた。
熱の台帳について尋ねたところに指を置く。その先へ辿ると、大地の異変をどう記したかという問いがある。こちらで測った道筋と、何を照らし合わせられるのか。
アンデルスの手は、開いた台帳の縁にあった。
ラーメルトは紙から顔を上げた。
「大地の記録についての問いも、ここへ残しておいてよいでしょうか」
「聞きたいことは、聞きたいこととして置いておけ」
ラーメルトは頷いた。紙を折り返さず、問いの続きが見える向きで卓へ戻した。
フルメアが顔を上げた。
台帳を読む間、膝へ下ろしていた手を卓の端へ置く。指先だけが台帳のほうへ動き、そこで止まった。
「見せるのは、怖くありませんか」
アンデルスの灰色の瞳が彼女へ向いた。
「何がだ」
「ここから何を持って帰るか、相手によって違うでしょう。見せたかったところだけ、覚えていくとは限らないから」
ラーメルトは手元の紙を見た。
持ってきた問いに合うところを探してしまう自分の目を、先ほどから意識していた。
アンデルスはすぐには答えなかった。開いた頁を軽く押さえ直した。
「……そうだな」
「でも、見せてもらえない側で待つのも、つらいものです」
フルメアの手が卓から離れた。
ラーメルトは彼女を見たが、フルメアはアンデルスから目をそらさなかった。
「今日は、私にも読ませてくださった。それは、嬉しいです」
アンデルスは小さく顎を引いた。
頁を押さえていた指が離れた。ラーメルトは浮きかけた紙を、端だけに触れて押さえた。
紙は思っていたよりも軽かった。
それを前にして待っていた時間のほうが、ずっと重く感じられた。
「陛下」
ラーメルトは台帳から目を上げた。
王は二人が読み始めてから、口を挟まずにいた。
「ここへ来る前は、何を教えていただけるかばかり考えていました」
「今は違うか」
「教えていただいたあと、どう扱うかも考えなくてはならないのだと」
王の視線が台帳からラーメルトの紙へ移った。
「余がお前に話したときも、迷いはあった」
ラーメルトは返す言葉を探した。あの夜、父と王が目を交わした沈黙を思い出す。
「知らせずにおけば、お前は別の旅を続けたかもしれぬ。だが、話せば背負わせることになる」
王は椅子に深く座り直した。
窓の外から人の呼び交わす声がかすかに届いた。
ラーメルトはそちらを見た。声の主の姿は見えない。
王から聞いた話を、その人が知っているのかもわからなかった。
「私は、聞けてよかったと思っています」
王へ向き直って言った。
「ですが、それだけで、ほかの人にも同じように話せるとは言えません」
「……そうか」
王はそれ以上、答えを促さなかった。
フルメアが椅子を寄せ直した。ラーメルトも台帳へ戻り、先ほど読んでいた箇所を探した。
アンデルスは急かさず、二人の目が頁を辿るのを見ていた。
ひと通り目を通してから、ラーメルトは手帳を開いた。照会の紙とは別のところに、今日、熱の台帳の一部を読ませてもらったことを書く。
筆を置くと、フルメアがその手元を見た。
「それを、どう伝えるの?」
ラーメルトはすぐに答えず、卓の向こうを見た。
アンデルスの手が表紙へ戻っていた。その傍らには、まだ問いを残した紙が広げられている。
読み終えたところで、持ち帰る言葉まで決まったわけではなかった。
ラーメルトは手帳を開いたまま、筆をもう一度手に取った。




