沈みゆく大地
王はしばらく沈黙した。
やがて深い息とともに、口を開いた。
「……ケルシウス家から、内奏があった」
ケルシウス。あの氷の当主。二百年の熱の台帳を守る炉守の家。
「あの家は、二百年、熱を――湯の沸く高さを記録し続けてきた。それはこの大陸を包む大気そのものの記録でもある。……そして、近年」
王の声が掠れた。
「その記録が異変を示している。……湯の沸きが年々早くなっている。大気が薄くなっているのだ。いや――それだけではない」
ラーメルトの頭が混乱した。
湯が早く沸くのは、高い山の上――気圧の低い、薄い大気の場所でのこと。それは知っていた。だが、王都では、以前よりも沸きが早くなっている。ということは、王都の、いや、この大陸全体の大気が薄くなっている……?
「なぜ、大気が薄く……」
「天蓋だ」
王があのケルシウス家の館の屋根の塔を思い浮かべるような遠い目をした。
「この大陸は本来、雲より高い、人の住めぬ高さにある。薄く、凍える天空だ。それを地上と変わらぬ大気に保ってきたのが――ケルシウス家の守る大気の要、『天蓋』と呼ばれる古の術だ。二百年もの間、この大陸を目に見えぬ帳で包み、大気を内に留め続けてきたのだ」
ラーメルトはあの塔を、そしてアンデルスが「測らせぬ」と言った、その下のものを思い出した。あれが、この大陸の大気を支えていた。
「その天蓋が……緩んでいる、と?」
「そうだ。……魔力が枯れかけている。帳が綻び、内の大気が――少しずつ外へ漏れ出しているのだ。ゆえに大気は薄くなり、湯は早く沸くようになった。……だが、ラーメルト。真に恐ろしいのは、その先だ」
王の声が一段低くなった。
「天蓋を支える力が枯れているということは、この大陸を空に浮かべている力も――同じく枯れ始めている、ということなのだ」
ラーメルトの背を冷たいものが伝った。「浮かべている力が……弱まる。それは……」
「そうだ」
王が頷いた。その目に、深い憂いがあった。
「ケルシウス家は、大気の変化だけでなく、この大陸そのものの異変も密かに記録し続けてきた。……その記録が告げている。この大陸は少しずつ――沈み始めている。地上へ向かって。ゆっくりと。だが、確実に」
――沈む。
湯が早く沸くのは、大気を包む天蓋が限界を迎えているからだ。そしてその同じ枯渇が、大陸を空に留める力をも蝕んでいる。薄れゆく大気と落ちゆく大地――二つは同じひとつの飢えの別々の症状だったのだ。
大地は天へ昇っているのではない。地へ落ちようとしている。そして、それを包む空気の帳すら、綻びかけている。
「なぜ……なぜ、浮く力が弱まるのです」
「魔素だ」
グレインが口を開いた。
「この大陸を浮かべている術は、空間の魔素を糧にしている。……魔法大戦で大きく失われた魔素をその後も二百年間、この術が消費し続けてきたのだ。魔法が使いづらくなったのも、大地の実りが痩せたのも、海が荒れるのも――すべてはその積み重なった枯渇の果てなのだ」
ラーメルトの脳裏に、旅で見たすべての断片が、今度はまったく違う意味を帯びて蘇った。
あれは、衰えていく世界の悲鳴だったのだ。そしてその衰えの果てに、この大陸そのものが、空から落ちようとしている。
「では……このままでは、いつか、この大陸は」
「地上に落ちる」
王が言った。努めて冷徹に。それでも、隠しきれぬものが声の端に覗いた。
「いつか、とは、言った。だが、ケルシウスの見立てでは、その沈下は、近年、加速しているという。……もはや二百年、三百年先の話ではないやもしれぬ」
部屋に重い沈黙が落ちた。
この大陸が、落ちる。数えきれぬ民を乗せた、この世界が。あの雲の下の大地へ。それがどれほどの破滅をもたらすか。想像すらできなかった。
「だから、余は急いだ」
王が言った。
「地図を。基準を。この大陸の今の姿を正確に留め、その沈下を測るために。そして――いつかこの危機を乗り越え、二つの世界が結ばれる、その日のためにだ。……ラーメルト。お前の旅は、ただの地図作りではない。この世界の命運がかかった――旅なのだ」
ラーメルトは、
膝の上で拳を握りしめた。
あまりに大きい。背負うには、あまりに重い。ただ押し売りの娘に絡まれたあの日から、歩幅を数え、星を仰ぎ、升を比べてきたその旅の果てが――この世界の滅びを測ることに繋がっていたとは。
だが。
不思議と、恐怖の奥で、もうひとつの感情が静かに燃えていた。
――ならば。測ろう。
この沈みゆく大地の速さを。残された時を。そして――この危機を乗り越える道を。
自分のこの手で。この足で。歩幅ひとつから始めたこの営みで。
「……陛下」
ラーメルトは顔を上げた。その瞳に、恐怖はない。あるのは――静かな覚悟だけだった。
「私に測らせてください。この大陸がどれほどの速さで沈んでいるのかを。……測らねば、何も始まりません。敵の正体すら掴めない。まずは知ることです。この世界に、何が起きているのかを」
王とグレインが、
その若者の瞳を見た。
そこに宿るのは、二つの世界の賢者の血を引く者の、静かで、揺るぎない光だった。




