灯しの儀・後
注ぎ始めて、じきに――指が違和感を拾った。
いつもなら、光は石の面の手前で静かに消える。井戸に水を落とすようなものだ。落ちて、それきり何も返ってこない。これまで、彼はその手応えの無さを掌で憶えてきた。
その夜は返ってきた。
水を落とした井戸の底から水が押し返してきた。
「……何を」
声が掠れた。
結晶が彼の意思とは無関係に痩せ始めていた。注いでいるのではない。吸われている。指が焼けるように熱く、しかし手を離せない。柱の文様が根元から順に脈を打った。淡い、青白い光が彼の背丈を追い越して、天井へ駆け上がっていく。
大浮上以来、応えなかったものが。
先代たちも、彼自身も――帳面に「無し」とだけ書き続けてきたものが。
応えていた。
黒い石の面が水面のように揺らいだ。
中央が深くなる。奥へ奥へと部屋ではないどこかへ抜けていく。若い頃の彼なら、悲鳴を上げていたかもしれない。若い彼はただ立っていた。両手で痩せていく結晶を掲げたまま、身動きひとつできずに。
そこから人が転がり出てきた。
◇
娘だった。
石の床に肩から落ちて、一度大きく跳ねた。焦げた匂いが遅れて部屋に満ちた。髪は乱れ、裾は裂け、頬に乾きかけた血の筋がある。それが自分の血なのか、誰かの血なのか、見ただけでは、わからなかった。
娘は倒れたまま片手で床を叩き、跳ね起きた。
その手には剣があった。
見たこともない形の剣だった。反っている。刀身が黒い。落ちながらも、握って離さなかったのだ。
「……君は、いったい」
グレインの口から間の抜けた声が漏れた。他に何も出てこなかった。
娘は剣を構えた。低く腰を落とし、切っ先をこちらの喉へまっすぐに向けて。息は上がっている。膝も震えている。それなのに、その構えには隙という隙が無かった。
王都の近衛の何人がこの構えの前に立てるだろうか。そんな場違いなことを彼は考えた。
「ここは……いずこ。あなたはどなたにあられます」
言葉が通じた。
通じたことに彼は二度、驚いた。
通じる。だが、遠い。娘の言葉はひどく古めかしかった。祭文の言葉に似ていた。神殿の祭司が意味も知らずに唱える、あの古い連なりに。歌うような抑揚があり、語尾が丁寧に伸びる。この国のどの地方の訛りでもない。この国のどの時代の言葉でもない。
「ここは……アルテア。空に浮かぶ大陸だ。……君は、まさか」
言いながら、彼の顔から血の気が引いていった。
そんなはずはない。伝説だ。習慣だ。意味を知らぬ務めだ。四十七度と九度と八度の「無し」だ。
――地の、門は、我らが、守る。
三代、答えの返らなかった問いに答えが剣を構えて立っていた。
娘は剣を構えたまま動かなかった。
そして、その目から涙がこぼれた。
娘自身がいちばん驚いた顔をしていた。泣くつもりなど無かったのだろう。剣は下ろさない。構えも解かない。ただ、涙だけが頬の血の筋を洗って落ちていった。
グレインは動けなかった。動いてはいけないと思った。
あとで幾度も思い返して、彼はそのたびに、自分の無力を思う。あの夜、あの部屋で、彼にできたことは、ただひとつしかなかった。
両手に掲げた、燃え尽きた結晶を静かに床に置くこと。
武器を持っていないと示すこと。それだけだった。
◇
娘が剣を下ろしたのは、夜が明けてからだった。
その間に、グレインは水を汲んできた。革袋を床に置いて、後ずさった。娘はしばらくそれを見て、やがて、剣を右手に握ったまま、左手で飲んだ。飲み終えて、袋を丁寧に置いた。
礼を言われた。古い言葉の古い言い回しで。
「……あなたの名は」
と彼は訊いた。
娘は答えなかった。代わりに天井を見上げた。それから、壁を。床を。柱を。焼けて色を失った結晶を。
最後に彼を見た。
「わたしの国は、あるの」
問いの意味がわからなかった。
「わたくしの国がまだ在るかと訊ねております。……ご存じないのなら、それでよいのです。知る者のもとへ連れていってくださいまし」
剣の切っ先はもう床を向いていた。それでも、その声は剣だった。
彼はこの娘が誰であるかをその一言で悟った。名を聞くまでもなかった。国というものを自分の持ち物のように口にできる人間はこの世にそう多くない。
◇
王都へ戻った夜、王は寝所には下がっていなかった。
深更の書斎に、灯りが、ひとつ。グレインが汗と埃にまみれた旅装のまま扉を叩いたとき、王は顔も上げずに言った。
「……応えたか」
グレインは膝をついた。
これまで、この人に幾度も「無し」を報せてきた。その報せをこの人はいつも同じ顔で聞いた。落胆もせず、安堵もせず。
「陛下。……門が応えました」
王の顔から眠気が飛んだ。
王はゆっくりと顔を上げた。
「地上から人が参りました。娘です。剣を佩いております。……名を名乗りませぬ」
「……その者は何と言った」
「己の国は、まだあるか、と」
王は立ち上がった。
机の上の書類が袖に払われて、床に散った。王はそれに気づきもしなかった。
◇
娘は王城の一室で王と向かい合った。
案内する間、彼女は廊下の窓から見える空を一度も見なかった。見る余裕が無かったのだとグレインは思っていた。それが違っていたと知るのはずっと後のことになる。
王と娘の問答は短かった。
娘は名を名乗った。
「エリザヴェラ。……エリザヴェラ・シークエンス」
グレインには意味のわからぬ名だった。地上の名だ、それだけのことだと思った。
だが、王の手が椅子の肘掛けを強く握った。
「……シークエンス」
王はその名を口の中で二度繰り返した。それから、目を閉じた。長い、長い、息を吐いた。
王家キーロイスは、七賢家とは別に、この大陸の下に何があり、大浮上の頃に何があったかを深く受け継いできた家である。グレインの家に伝わったのは、手順と盟約の言葉だけだった。だが、王家には――王にだけは、その言葉の向こう側が伝わっていた。
「エリザヴェラ殿」
王は目を開けて、言った。
「そなたの国のことは、余には、わからぬ。この国から、下は、見えぬ。……ただ、そなたの家の名を余は知っておる。大浮上以来、待たされた側の家の名だ」
娘は瞬きをした。
そして、初めて剣から手を離した。
◇
「グレイン」
娘が下がったあと、王は窓辺に立っていた。夜が明けかけていた。偽りの空が東から白み始めていた。
「あの者をどうする」
「……どう、とは」
「賢家に報せるか」
グレインは答えられなかった。
報せれば、どうなるか。それは考えるまでもない。大浮上以来、封じられてきた真実の生きた証人である。賢家がそれぞれの口伝を持ち寄り、それぞれの都合で、あの娘を引く。神殿の教えは根本から揺らぐ。民は自分たちの足元が浮いていることを知る。
いや。それ以前の問題だった。
「……門を欲しがる者が出ます」
彼は言った。
「あれが応えるものだと知れれば。開くものだと知れれば。開けたいと願う者が必ず出ます。そして、開ける鍵があの娘ひとりだと思い込む者も必ず出ます」
「うむ」
「陛下。……あの娘は証拠ではございませぬ。人でございます」
王は振り返らなかった。
しばらくして、王は片手を上げた。掌を上に向けて。あの空の秤の形で。
「その者、そなたが預かれ」
グレインは顔を上げた。
「素性は伏せる。名も、家も、来し方も。……知る者は余とそなただけだ。あの者には新しい名を選ばせよ。この国の名を。この国の暮らしを。……よいか、グレイン。これは隠すのではない。預かるのだ」
「……お預かり、いたします」
声が少し震えた。
「片方の皿に、真実がある」
王が言った。
「もう片方の皿に、娘がひとり乗っておる。……余の秤はいつもこうだ」
◇
娘に与えられた部屋の窓から朝の光が差していた。
彼女は窓辺に立って、外を見ていた。
空である。大浮上以来、この大陸の民が空だと信じてきたもの。天蓋の内側の青。作られた青。彼女はそれを腕を組んで飽きもせずに眺めていた。
グレインは扉の外からその背中を見ていた。
この人にいつか言わねばならぬのだ。あの青は本物ではない、と。あなたの故郷の空は、この青の遥か外にある、と。
「――ねえ」
背中のまま、彼女が言った。
「剣を置く場所を教えて」
「え」
「あなたの家の作法よ。客が剣をどこに置くか。……知らない家では、まずそれを訊くの。剣の置き場を教えてくれる家は、たいてい悪い家ではないもの」
振り返った彼女の目はまだ赤かった。
それなのに、口の端は少しだけ上がっていた。
――その日から、彼の務めは二つになった。
門を絶やさぬこと。そして、門から出てきた娘を預かること。
その預かりがいつまでの預かりなのか。王は言わなかった。彼も訊かなかった。




