灯しの儀・前
この話は、三十年前。まだ髭の白くなかった頃の宮廷魔術師グレインの物語です。
「――地の、門は、我らが、守る。空の、門を、絶やすな」
言葉の意味は教わらなかった。
手順だけを教わった。
王都から馬で二日。街道を外れ、羊飼いも通わぬ尾根をひとつ越えた先に浅い谷がある。地図には載っている。名は載っていない。国土の絵図を仕上げた誰かがこの谷にだけ名を書き入れなかったのだ。書き入れるほどのものが無かったからか。書き入れるなと命じられたからか。
その谷底に遺跡はうずくまっていた。
石造りの低い、堅牢な構え。飾り気のない黒い石積みは継ぎ目というものが見当たらない。近づいて指で撫でて、ようやくここが継ぎ目だとわかる。二百年前の技だと先代は言った。二百年前の技はもうこの大陸のどこにも残っておらぬ、と。
正面に黒い石の扉がある。
鍵は王家から宮廷魔術師へ預けられる。錠は外からしかかからない。鍵を持つ者だけが外から開けられる。それがこの扉の造りだった。
「開けよ」
先代の声に若いグレインは鍵を差し込んだ。手が震えた。
重い扉が内へ開いた。長く閉ざされていた冷えた空気が頬を撫でて出ていった。
◇
短い通路の先に部屋がひとつ。他には何もない。
儀の間と呼ばれていた。窓はなく、灯りは持ち込むもののほかにない。床は黒い石。壁も黒い石。そしてその中央に石の柱が立っていた。
人の背の三倍ほど。天井を突き抜けているのか、天井が後から柱を避けて架けられたのか、見分けがつかない。表面には文様がびっしりと刻まれている。文字ではない。紋様でもない。ラーメルトの父が生涯かけても、それが何を意味するのか、ついに読めなかったもの――だがそれはまだずっと先の話である。
このとき、若いグレインは首を反らせたまま、口を閉じるのを忘れていた。
「触るな」
先代が短く言った。
「触っても、何も起こらぬ。だが、触るな。……こういうものは触らずに済ませられるうちは、触らずに済ませておくものじゃ」
老魔術師は懐から油布の包みを取り出した。解くと、淡碧の結晶が灯りを吸って、静かに光った。
純魔結晶。ブランク。遺跡から稀に掘り出される、穢れなき器。今の世ではもう作れぬとされるもの。
「見ておれ。一度しかやらぬ」
先代は結晶を掲げた。柱の正面に立ち、右の掌を石の面に近づけ――触れぬまま、そこで止めた。そして、注いだ。
結晶の光が痩せていく。掌の先の何もない指一本ぶんの隙間へ光が吸い込まれるでもなく、こぼれるでもなく、ただ渡っていく。若いグレインは息を詰めて、それを見た。魔術師が見ても、何が起きているのか、まるでわからない術だった。
「――地の、門は、我らが、守る。空の、門を、絶やすな」
先代が唱えた。
声は部屋に反響しなかった。黒い石が音を飲んだ。
やがて、結晶が指の先で砂の色に濁った。抜け殻である。先代はそれを油布に戻した。柱は何も変わらなかった。文様のひとつも光らなかった。冷たいままのただの石だった。
「終いじゃ」
「……終い、ですか」
「終いじゃ」
先代は埃を払うように、両の掌を打ち合わせた。
「応えぬ。いつもそうじゃ。儂は五十年、この石に注いできたが、応えたことは一度もない」
◇
帰りの馬上で、若いグレインはようやくその問いを口にした。
「師よ。……あれは何なのです」
「知らぬ」
「知らぬ、とは」
「知らぬ、とは、知らぬということじゃ」
先代は前を向いたまま言った。
「儂もそなたと同じ歳の頃に同じことを訊いた。儂の師もそのまた師に同じことを訊いたそうじゃ。……答えは三代返ってきておらん」
「では、なぜ、注ぐのです」
「絶やすなと言われたからじゃ」
あまりの答えに、若いグレインは腹を立てた。腹を立てた自分に驚いた。
彼は賢家の子である。量るということを家の誇りとして育った。目方の知れぬものを目方も知れぬまま、恭しく担ぐ――それを彼の家はいちばん嫌ってきたはずだった。
「大浮上以来、意味も知らされずに……それは務めではありません。……ただの習慣です」
先代は笑わなかった。怒りもしなかった。しばらく馬の首の揺れに合わせて、黙っていた。
「そうかもしれん」
と老人は言った。
「じゃがな、グレイン。意味を知らぬ務めを意味が無いと決めつけて、やめる。……その決めつけの目方は誰が量る。そなたか」
若い魔術師は答えられなかった。
後に、彼はこの問答を一言一句憶えていることになる。
◇
純魔結晶は王家の蔵から出る。
節目ごとに――五年に一度と定められていた――宮廷魔術師は王城の奥へと召され、封をされた小箱を両手で受け取る。中にはひとつ。ただのひとつ。
その頃、王もまだ若かった。
「……これまで何度注いだ」
箱を差し出しながら、王は言った。若い王の声にはまだ後年のあの威厳はない。あったのは玉座に就いて幾年も経たぬ男の寝足りぬ目だけだった。
「すべて帳面にございます」
若いグレインは答えた。
「そして一度として、応えはございませんでした」
「そして蔵の石は減った」
王は椅子に深く身を沈めた。
「グレイン。あの石ひとつで、何ができると思う。……凶作の年に街道を灯し続けられる。北の砦の結界を一冬保たせられる。疫病の村へ神殿の術者を十人送り出せる。余はそれを知っておる。知っていて、今そなたに渡した」
王は掌を上に向けた。何も載っていない空の掌である。
「余の秤はいつもこうだ。片方の皿には飢えた村がある。もう片方の皿には応えぬ石がある。……余は応えぬ石を選び続けておる。祖父も、父も、そうしてきた」
「……なぜ、でございますか」
「絶やすなと言われたからだ」
若い王は自嘲するように口の端を上げた。
「そなたの師と同じ答えであろう。それしか無いのだ、グレイン。この務めを知る家は、この国に王家とそなたの家だけだ。……双方がやめると決めれば、それはその夜のうちに、この世から消える。大浮上以来、誰もそう決めなかった。だから、まだある」
王は身を起こした。
「余は決めぬ。そなたも決めるな。……決めるのは扉の向こうの誰かだ。あれがいつか応えたときにな」
◇
先代はその三年後の冬に死んだ。
葬いのあと、グレインは遺された黒い革の帳面を開いた。日付。注いだ結晶の重さ。天候。そして、いちばん右の欄。
――応え、無し。
同じ四文字が頁を埋めていた。祖父の手で。曾祖父の手で。名も知らぬ手で。誰ひとり飾りの一言も添えていない。愚痴も、祈りも、書いていない。ただ無かったことを無かったと書き留めてある。
彼はその次の頁に自分の手で書き足した。
――応え、無し。
五年が過ぎた。
――応え、無し。
また、五年。
――応え、無し。
妻を娶ることもなく、彼はただ王城の書庫と名のない谷とを往復した。魔術学院の若い者たちは、宮廷魔術師のあの気難しい男が、五年ごとにどこへ何をしに行くのかを噂した。誰も正解にはたどり着かなかった。
噂話のなかで、彼はいつしか変わり者の宮廷魔術師になっていた。
実際、変わり者だった。応えぬ石に国庫の宝を注ぎ、応えぬと帳面に書いて帰ってくる。それを務めと呼んでいるのだから。
一度だけ、彼は柱の目方を量ろうとしたことがある。
グレインの家は目方の家である。この世に量れぬものは無いと教えられて育った。彼は道具を運び込み、柱の丈を測り、太さを測り、あとは石の質さえわかれば目方は出ると踏んだ。石の質を知るには欠片がひとつあればいい。
欠片は取れなかった。
鏨は跳ねた。刃を替えても、跳ねた。三日目に彼は道具を片づけた。片づけながら、笑ってしまった。声を上げて笑った。黒い石はその笑い声も飲んだ。
量れぬものがある。彼の家の教えはその日ひとつ欠けた。
――そなたか。決めつけの目方を量るのは、そなたか。
注ぐたびに、師の声が聞こえた。
量れぬ、と、彼は思った。何度、この石の前に立っても、量れぬ。自分にできるのは量れぬということを量れぬまま、次の代へ渡すことだけだ。
それを彼は少しずつ恥じなくなっていった。
◇
そして、その年。
五年目の節目が巡ってきた。
王城の奥で、封をされた小箱を受け取った。もう王の顔にも皺があった。互いに何も言わなかった。言うことはとうにすべて言い終えている。
馬で二日。尾根をひとつ。名のない谷。黒い扉。冷えた通路。灯りをひとつ。
夏の風のない夜だった。
グレインは儀の間に立ち、油布を解き、淡碧の結晶を掲げた。
その夜も、いつもの夜のはずだった。




