三十年前の雷
この話は三十年前。ラーメルトの母――リザベラがまだ「エリザヴェラ」と呼ばれていた頃の物語です。
――遠い、遠い、記憶。
その国は緑に抱かれていた。
豊かな森。清らかな川。実り多き大地。クロネア王国。地上に残った賢者の末裔が興した小さな、しかし平和な国。
その王女がエリザヴェラだった。
王女とはいえ、彼女は深窓の姫ではなかった。剣を取れば、王国一の近衛すら寄せつけぬ。書を開けば、老学者を唸らせる。武にも知にも秀でた、じゃじゃ馬の姫。それがエリザヴェラ・シークエンスだった。
シークエンス。それは王家の名であり――そして時を司る家の名でもあった。彼女には幼い頃から、奇妙な力があった。ここぞというとき、世界がゆっくりと見える。剣の切っ先も、飛来する矢も、まるで止まっているかのように。ゆえに当たらない。老いの歩みすら、緩やかだった。時の家の血。それが彼女の中に色濃く流れていた。
その平和な国に、
ある日、災いが訪れた。
東の大国。ザルガンド帝国。鉄と火薬と機械の力で急速に力を蓄えた新興の帝国。その軍勢がクロネアへ雪崩れ込んできたのだ。
表向きの理由は資源だった。クロネアの豊かな森と大地。それが欲しい、と。
だが、ザルガンドにはもうひとつの狙いがあった。
――古い魔法隆盛の時代から残された遺産。
クロネアには遥か昔の魔法文明が残したものが、今なお眠っている。そんな伝説と、断片的な記録が残されていた。どこまでが真実なのか。何が残されているのか。それを知る者はもういない。それでもザルガンドはその伝説を追っていた。
クロネアの聖域の奥深く、それはひっそりと佇んでいた。巨大な石の柱。表面に見たこともない文様の刻まれたそれを人々はモノリス、と呼んだ。
だがそれは動かなかった。何百年も。ただの石として、そこにあるだけだった。
◇
王城はあっという間に落ちた。
ザルガンドの火砲の前にクロネアの剣と魔法はあまりに無力だった。地上の魔法はとうに衰えていたのだ。
炎に崩れる城。倒れ伏す近衛。そのただ中で父王が斃れるのをエリザヴェラは見た。
「姫を守れ! モノリスまで後退しろ!」
忠臣たちは命を賭して血路を開き、残った近衛たちが彼女を聖域へと護った。
なぜ、モノリスへ。伝説では、あれは、天へ通じる門。だが、動かない。それでも、老臣たちは叫んだ。「あそこは、聖域。最後の砦だ」と。
エリザヴェラは走った。剣を握りしめ。残った近衛たちとともに追っ手を振り切りながら。
だが、数には勝てなかった。じわじわと追い詰められ、気がつけば彼女はあの聖域のモノリスの前に立っていた。
背後には崖。前方にはザルガンドの兵。
もう、逃げ場はなかった。
「……ここまで、か」
エリザヴェラはモノリスに背を預け、剣を構えた。
せめて一人でも多く。王女として。剣士として。誇りを持って死のう。
兵たちがじりじりと、間合いを詰める。
そのとき。
空が光った。
夏の夕立。黒雲が聖域の空を覆い――一条の雷が落ちた。
エリザヴェラの背後のモノリスへと。
轟音。閃光。エリザヴェラは身を伏せた。兵たちも怯み、後ずさる。
そして。
雷を受けたモノリスの文様が。
大浮上以来、沈黙していた石が。
――淡く青白い光を灯しはじめた。
「な……!?」
エリザヴェラが振り返る。
石の文様が脈打つように光っている。その中央が水面のように揺らめき始める。まるで扉が開くように。
――同じ頃。
彼女の知らぬ、遥か頭上の空の大陸で、
ひとりの若き宮廷魔術師が代々の務めを果たしていた。
封印された遺跡のモノリスの前で、淡碧の純魔結晶を掲げ、その力を注ぎながら、彼は古の盟約の言葉を唱えていた。
――地の、門は、我らが、守る。空の、門を、絶やすな。
大浮上以来、続けられてきた儀式。灯しの儀。門が生きているかを確かめるための定期の試み。これまで一度として、応えたことのない、その門が、
その夜、
初めて、応えた。
地上に雷が落ちた、まさにその瞬間。空側でも、若きグレインの注いだ力に門が初めて応えた。二つの出来事がなぜ重なったのか、その理由を知る者はいなかった。
◇
揺らめくモノリスの光にエリザヴェラは吸い寄せられた。
背後からは我に返った兵たちの剣。前方には光る扉。
――どちらにせよ、死ぬのなら。
彼女は剣を握りしめ、その光の中へ身を投じた。
落ちる、感覚。
永遠のような一瞬。
そして。
気がつけば、彼女は見知らぬ部屋の床に倒れていた。
薄暗い石造りの遺跡。目の前に驚いた顔の若い男がひとり。純魔結晶を手にしたまま。
「……君は、いったい」
男――グレインが呆然と呟いた。
エリザヴェラは剣を構え、油断なくあたりを見回した。ここはどこだ。何が起きた。
「ここは……どこ。あなたは、誰」
「ここは……アルテア。空に浮かぶ大陸だ。……君は、まさか」
グレインの顔から、血の気が失せた。手の中の純魔結晶がかすかに震える。だが同時に彼は悟っていた。大浮上以来、応えなかった門が応えた、その意味を。
――地上から。この女性は地上から、来たのだ。門を通って。
伝説が、盟約が、現実になった瞬間だった。
エリザヴェラは剣を構えたまま。しかし、その目から、不覚にも涙がこぼれた。
助かった。生き延びた。
だが。帰る術など、彼女にはわからなかった。
父も、国も、故郷も。すべて、あの雲の下に。あまりにも遠い、遥かな地上に。
彼女は失ったのだ。すべてを。そして得たのだ。この見知らぬ空の世界での新しい生を。
――お母さん、悲しいわ。
いつか、その悲しみを笑いに変えられる日が来るだろうか。
このとき、彼女はまだ、知らない。
この目の前の戸惑う若者と、やがて結ばれることを。
そして二人の間に生まれる息子が、
いつの日か、この隠された世界の真実にたどり着き――失われた二つの世界を、再び結び直す者になることを。




