七賢者
王都への帰路は急ぎ足だった。
道中、ラーメルトはほとんど口をきかなかった。頭の中で幾度もあの雲の下の大地を思い返し、そして、父にどう切り出すかを考えていた。
王都に着くなり、ラーメルトはフルメアだけを伴い、父の部屋を訪ねた。エノアとレオンハイトには宿で待つよう頼んだ。この話はまだ広げるわけにはいかない。
「ラーメルト、参りました」
扉を開ける。グレインが顔を上げた。息子のただならぬ様子にその白い眉が寄る。
「どうした。ずいぶん早い帰りだが……それにその顔は」
「父上」
ラーメルトは扉を固く閉め、父の正面に立った。
「……この大陸は、浮いているのですか」
グレインの手が止まった。白い髭を撫でていた、その手が。その目が大きく見開かれ――そして、ゆっくりと閉じられた。深い、深い息が吐かれる。
「……縁まで行ったか」
それは否定ではなかった。
疑っていたときよりもそうと認められたいまのほうがずっと寒かった。頭では確信していた。だが、父のこの反応はそれを動かぬ事実として突きつけてきた。
「行きました。……そして、見ました。雲の下の大地を。数字も告げています。この大地は曲がっている。私たちは空に浮いている、と」
グレインはしばらく目を閉じたまま動かなかった。やがて、彼は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。その背はラーメルトがこれまで見たことのないほど、老いて見えた。
「……いつか、この日が来ると思っていた。お前になら、たどり着けると。……いや。たどり着いてほしいと、願っていたのかもしれん」
「父上。教えてください。……いったい何があったのです。なぜ私たちは、浮いているのです」
グレインは振り返った。その目は長すぎる秘密を背負ってきた者の疲れきった目だった。
「……二百年、前だ」
彼は静かに語り始めた。
「かつて、この大地は、下のあの世界の一部だった。アルテアという名の地方だったのだ。……その頃、魔法は、今とは比べものにならぬほど栄えていた」
グレインはそこで言葉を切った。
「だが――栄えすぎたのだ」
ラーメルトは黙って父の言葉を待った。
「魔法を使える者たちは、やがて、その力を持たぬ者を下に見るようになった。魔法こそが人を導く。魔法を扱える者こそが世界を治めるに値する。……そう考える者が増えていった」
グレインの声には怒りよりも古い傷をなぞるような苦さがあった。
「そして、より大きな力を求めた者たちは、世界を巡る魔素だけでは飽き足らなくなった。精霊の力さえ結晶へ封じ、それを己の身へ取り込み、尽きることのない力を得ようとした。魔法は、人を助けるための術ではなく、力を持つ者がさらに力を得るためのものへと変わっていったのだ」
「……それで、何が」
「反乱が起きた」
グレインは静かに言った。
「魔法を持たぬ者たちが一斉に立ち上がった。彼らを助けた者たちもいた。精霊を敬い、自然とともに生きてきた地上の民たちだ。人と人との争いだけではなかった。古い記録には、精霊神すら人の驕りに怒った、とある」
ラーメルトは息を呑んだ。
「その頃から、世界を巡っていた魔素は、急速に失われていった。頼り切っていた力が消え始めても、魔術師たちは、かつての術へ戻ることすら容易ではなかった。結晶の力に依存しすぎた末にそれを使わず魔法を扱う技さえ、多くが失われかけていたからだ」
グレインは窓の外へ目を向けた。
「魔法を持つ者と、持たぬ者。人と、精霊を敬う者たち。報復に報復が重なった。このまま続けば、どちらが勝つかなど関係なく、アルテアそのものが滅びる。そう考えた者たちがいた」
「七人の大賢者……」
「そうだ。そして、のちにキーロイス王家へと連なる者たちだ」
グレインは重く頷いた。
「彼らが選んだのは、勝利ではなかった。アルテアを――大地ごと地上から切り離すことだった」
ラーメルトは言葉を失った。
「逃げるため、だけではない。増長した魔法文明を地上から隔てるための戒めでもあった。そして同時に――過ちを犯したからといって、魔法という文化そのものまで、この世から消してしまってよいのか。その答えを彼らは出せなかったのだろう」
グレインの指がわずかに震えた。
「だから、残した。人も、土地も、魔法も。その過ちごと抱えて、空へ持ち上げた。正しかったかどうかなど、儂にはわからん。……おそらく、当時の彼らにも、わからなかったのだ」
――七人の大賢者。
ラーメルトの脳裏にこれまでの旅で触れてきた、いくつもの家の記憶が浮かんだ。
大地の記憶を祭文という形で残してきたドルトン家。二百年もの熱の記録を守り続けるケルシウス家。古い地図と、縁の外の輪郭を封じてきたメトレール家。
そして――フルメアのカーデルクス家。
失われた技術と、歪められた歴史。それでも途絶えずに受け継がれてきたものが、あの家にもあった。
さらにその名だけが記録から抜け落ちたように残る、ヴォルトローネ。父だけが聞き覚えを持っていた、あの名もまた、この古い系譜と無関係なのだろうか。
そして、自分の父が生まれたグレイン家にも、二百年前から守られてきた何かがあるのだろう。
旅の途中ではそれぞれ別の家が抱えた別々の秘密にしか見えなかった。だが、それらすべての始まりに――七人の大賢者がいたのだとしたら。
「今、賢家と呼ばれている家々は、あの大浮上に関わった者たちの系譜を今に受け継いでいる。家ごとに残されたものも、担った役目も違う。だが、その始まりを辿れば――七人の大賢者へと行き着く」
グレインはそこで一度、言葉を切った。
「お前が追っているヴォルトローネもまた、その七人の大賢者へ連なる家系のひとつだ」
ラーメルトは再び言葉を失った。
自分の家が。父が。この途方もない出来事へ繋がる血を引いていた。
ドルトン家の祭文。メトレール家の古地図。ケルシウス家の塔。そして、フルメアのカーデルクス家に受け継がれてきた技術と、歪められた歴史。
さらにその歴史からこぼれ落ちるように消されていた、ヴォルトローネの名。
旅の途中ではどれも別々の謎だった。
だが、違った。
それらはすべて、二百年前のひとつの出来事から枝分かれし、それぞれの家に残された真実の欠片だったのだ。意味を失い、あるいは封じられ、それでも捨てられることなく、ここまで受け継がれてきた。
そして今、その欠片がラーメルトの目の前でひとつの輪郭を取り戻そうとしていた。
だが、グレインの話はそこで終わらなかった。
「……そしてな。ラーメルト。人は、それほど賢くはなかった」
その声音がひどく静かだった。
「空へ逃れたあとも、年月とともになぜこの大地が浮かべられたのかを忘れていった。いや――忘れたかったのかもしれん」
グレインは目を伏せた。
「力を持つ者こそが上に立つべきだ。より強い魔法こそがこの世界を導く。かつて地上で人々を破滅へ追いやった考えは、形を変えながら、この大地にも残った」
ラーメルトの背に冷たいものが走った。
「まさか……」
「お前も知っている、魔法大戦だ」
グレインはゆっくりと頷いた。
「あれは、大浮上とは別の戦いだ。浮上からおよそ百年を経た後、この空の大地で再び起きた」
過去の過ちを封じるため、残されていた魔結晶。
失われた時代の力を二度と使わぬために保管していたもの。
「それを持ち出した者たちがいた。かつての魔法文明を取り戻そうとした者たちだ。強い魔法を持つ者が世界を導くべきだと信じ、封じられていた力を再び使った」
「……同じことを」
「ああ」
グレインは苦く笑った。
「二百年前に大地ひとつを空へ逃がさねばならぬほどの代償を払っておきながらな」
ラーメルトは何も言えなかった。
大浮上は過去の過ちを忘れるためのものではなかった。
忘れてはならないという戒めでもあったはずなのだ。
それでも、人は忘れた。
残された力を見つければ、手を伸ばした。
力を持てば、それを使いたくなった。
自分たちなら、今度こそ間違えないと思った。
そして――また、間違えた。
「魔法大戦は、世界に残っていた魔素をさらに大きく失わせた」
グレインは言った。
「昔と同じ過ちをそのまま繰り返したわけではない。時代も、方法も違う。だが、根にあったものは、そう変わらん」
力への渇望。
自分たちだけはその力を正しく使えるという思い上がり。
ラーメルトは膝の上でゆっくりと拳を握った。
二百年前の人々を愚かだと笑うことなど、できなかった。
その子孫たちは同じ大地の上でもう一度同じ場所へ戻ったのだから。
「では、あの書庫の空白も」
「浮上の記憶を消すためだ。……あまりに大きすぎる真実は、時に人を狂わせる。自分たちの住む大地が空に浮いていて、しかもその足元が――少しずつ魔素を失い、衰えている。……そんなことを知れば、人はどうなる? 恐怖に駆られ、争い、あるいは絶望する。だから賢者たちとその末裔は、記録を消し、公式の歴史を作り替え、この真実を封じてきた。……二百年、な」
ラーメルトの脳裏に学院書庫の空白が浮かんだ。
大浮上は二百年前。だが、書庫で記録が途切れていたのは、およそ百五十年前だった。
――合わない。
ならば、記録は大浮上と同時に消されたのではないのか。それとも五十年ほどのあいだ、何かが残されていたのか。
歴史が意図して隠されたことはわかった。だが、誰が、いつ、どこまで消したのか。その答えまではまだ見えていない。
真実がひとつ明かされたことで、かえって新しい空白の形が見えてきた。
ラーメルトの頭の中ですべてが繋がっていく。だが。
まだ、繋がらない点があった。いちばん身近な点が。
「父上。……もうひとつ、伺わせてください」
ラーメルトの声が掠れた。
「あなたが以前、聞き覚えがあると仰った、ヴォルトローネの名。母上がフルメアに託したあの護符。この大陸では見たことのない造りの刀。母上の旅の別名。……母上は、いったい何者なのですか」
グレインは長い、長い沈黙の後、
窓の外の偽りの空を見上げて、
静かに口を開いた。
「……お前の母はな。ラーメルト」
その声は震えていた。愛おしさと、痛みの両方で。
「――お前の母は。この下の世界から来た、人間なのだ」




