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雲の下

 そこは大陸の突端だった。

 足元の大地はそこでぷつりと途切れていた。 その先は――何もない。ただ眼下に一面の雲海がどこまでも広がっている。白い雲の絨毯。それが地平の彼方まで続いていた。


「これが……縁の外」


 フルメアが崖の縁にへたり込んだ。


「何も……ない。本当に雲だけだわ」


 辺境伯の言葉の通りだった。縁の外にはただ雲海だけがあった。これを見て引き返した者たちを誰が笑えるだろう。世界はここで終わっている。そう信じるほうがよほど自然だった。

 エノアは口もとを押さえたまま動かず、レオンハイトはめずらしく、軽口のひとつも叩かなかった。

 ――だが。

 ラーメルトは崖の縁に立ち、静かに道具を取り出した。


「ラーメルト……? 何を」


「測るのです。……ここまで来たのですから」


 ラーメルトは崖の縁に立ち、手帳を開いた。


 ここへ来るまでに何度この数字を疑っただろう。歩測を疑い、鎖を疑い、星の測り方を疑った。それでも、計り直すたびに残ったずれ。中央では小さく、縁へ近づくほど大きくなった、あの規則正しいずれ。


 目の前に広がっているのはただの雲海だった。


 数字が示したものと、この景色がまだ結びつかない。


 ラーメルトは手帳を閉じ、崖の縁から身を乗り出した。


 ならば、見るしかない。


 自分が測ってきたものの先に何があるのかを。

 風が吹いた。眼下の雲が大きく動く。渦を巻き、流れ、そして――一瞬。

 雲の絨毯に裂け目が走った。


 ラーメルトは息を呑んだ。


 その裂け目の遥か下。

 雲の切れ間の底に、

 ――大地があった。


 霞むほど遠くはあったが、それでも、見紛いようがなかった。緑の大地。青い水をたたえた湖のようなもの。そして、もっと遠くに山脈らしき起伏。それは自分たちの足元の大地の遥か下に広がる、もうひとつの世界だった。


「――ッ!」


 声が出なかった。

 ラーメルトは崖にしがみつき、その裂け目の底を凝視した。見間違いではない。あれは大地だ。緑の生きた大地だ。この雲海の下に。ずっと下に。


「フルメア! 見て! 雲の下を!」


 ラーメルトの叫びに皆が崖に駆け寄った。裂け目はまだそこにあった。長くは持つまい。 だが、四人がはっきりとその底を見るには、十分だった。


「な……なに、あれ。下に何か……」


 声を震わせたのはフルメアだけではなかった。エノアは腰を抜かし、レオンハイトすら、あの飄々とした顔から、表情が抜け落ちていた。

 やがて風向きが変わり、雲の裂け目は再び閉じた。だが、一行は確かに見たのだ。この足元の大地の遥か下にもうひとつの大地があることを。


 ――そういう、ことだったのか。

 散らばっていた断片が音を立てて噛み合っていく。ひとつ、また、ひとつ。


 星と歩測のずれ。この大地が曲がって見えたのは、これが平らな地面ではなく――巨大な島のような塊だったから。

 湯が早く沸くのはこの大地が高い場所にあるから。では近年になってさらに早まっているのはなぜだ。この大地そのものが動いているのか。それともこの大地を包む空気のほうが変わっているのか。

 空気が薄く、寒く、風が強い、この縁。それはこの大地が雲より高い天空にあるから。

 メトレール家の古地図の輪郭。あれは空想ではなかった。この雲の下の大地をいつか誰かが見て、描いたのだ。

 そして――ドルトン家の祭文。


 『大地は、賢者が、鎮めたのではなく、挙げた』


 挙げた。持ち上げた。

 賢者が。この大地を。あの下の世界から。空へと。


「私たちは……」


 ラーメルトの唇が震えた。声は掠れ、風に消えそうだった。それでも彼はその言葉を口にした。知る者がいなかったわけではない。ただ、二百年ものあいだ、誰も人々の前では口にしなかった真実を。


「私たちは――浮いているのです。この大地ごと。空に。……この下に本当の大地を残して」


 誰も答えなかった。答えられる言葉を誰ひとり持っていなかった。

 崖の上で四人はただ、閉じていく雲海を見つめていた。まばたきすら、惜しむように。

 彼らの足元の大地は、彼らが生まれ、育ち、当たり前だと信じてきた、この世界は、空に浮かんだ、ひとつの巨大な島に過ぎなかった。


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