縁の外の輪郭
エルシオが導いたのは館の最も奥まった一室――幾重もの錠に守られた、地図庫だった。
重い扉が軋みながら開く。黴と古紙の匂いが流れ出し、薄闇の奥に数えきれぬ古地図が整然と眠っていた。メトレール家が何百年と蒐集し、描き継いできた地図の宝庫。
「我が家は長さと空間を司る家。……ゆえに代々、地図を集め、描いてきた」
エルシオはその棚の奥から、ひときわ古びた一枚の地図を取り出した。羊皮紙は茶色く変色し、端はぼろぼろに朽ちている。
「これは、我が家に伝わる最も古い地図だ。いつ誰が描いたのか。それすらわからぬ。……見るがいい」
ラーメルトはその地図を覗き込んだ。
描かれているのは見慣れたこの国の輪郭――だけではなかった。いや、この国の形もあった。だが、地図はその外へさらに広がっていた。
国境の外には見知った大陸の土地が続き、そのすべてを囲む海が描かれている。そして、その海の外縁に――大陸の『縁』が引かれていた。そして、その縁のさらに外側に。
――輪郭があった。
縁の向こう。何もないはずのその場所にぼんやりと、しかし紛れもなく、大きな何かが描き込まれている。海でもない。島でもない。もっと巨大な、広大な――名づけようのない、何か。
「これは……何です。この縁の外の輪郭は」
ラーメルトの声が震えた。エルシオは静かに首を振った。
「わからぬ。……先祖の空想の産物だろう、と我が家では伝えられてきた。縁の外には何もない。誰もがそう知っている。ゆえにこれは、地図を描いた者の戯れか、あるいは、見た夢か。そう片付けられてきた」
空想。戯れ。夢。
だが。ラーメルトはその輪郭をじっと見つめた。
あまりに精緻すぎた、空想と呼ぶには入り組んだ海岸線の襞。連なる山脈らしき起伏。その一つひとつが想像の産物にしては具体的すぎ、生々しすぎた。まるでこの目で見たものをそのまま写し取ったかのように。
「エルシオ殿。……これを描いた者は」
ラーメルトは慎重に言葉を選んだ。
「本当にこれを見たのではないですか。この縁の外の――何かを」
エルシオはラーメルトを見た。長い沈黙があった。それから――彼はぽつりと言った。
「……線は、測った者にしか引けぬ」
それは彼が最初にラーメルトに投げつけた言葉だった。だが、今、その意味はまるで違って聞こえた。
「戯れで線は引けぬ。空想でこれほど細密な輪郭が描けるものか。……私にも、本当はわかっているのだ。これを描いた者は、これを見た。だが――」
エルシオの声が掠れた。
「縁の外に何かがある。そんなことを口にすれば、気が触れたと嗤われるだけだ。だから我が家は、これを空想と呼んで封じてきた。二百年、な」
――二百年。
また、その数字。
ラーメルトはその古地図の縁の外の輪郭を震える指でそっとなぞった。
この輪郭の正体を知りたい。この縁の外に、本当に、何があるのか。この目で確かめたい。
湯の沸く高さ。痩せる大地。荒れる海。怒れる火山。詫びの祭文。そして――縁の外のこの輪郭。
ばらばらだった断片がいま、ラーメルトの頭の中で一斉に鳴りはじめた。互いに響き合い、ひとつの恐ろしい仮説へと収束していく。まだ言葉にはならない。だが、確かにそこにある――巨大な、真実の影が。
「エルシオ殿」
ラーメルトは顔を上げた。その目にはこれまでにない決意が宿っていた。
「私は――縁に行きます。この大陸の果てに。そして、確かめます。この輪郭が本当にあるのかどうかを」
エルシオはラーメルトの目をのぞき込み――そして、初めて笑った。
氷のようだった頬に皺が寄り、張り詰めていた目元がふっとゆるむ。長年ひとりで抱え込んできた秘密をようやく託せる相手に出会えた――そう言いたげな、不器用な笑みだった。
「……行くがいい。そして、確かめてこい。我が、先祖が見たものが何であったかを」
エルシオはその古地図を丁寧に巻き、ラーメルトに差し出した。
「持って行け。……お前になら、預けられる。線を引く者にな」
ラーメルトは両手でそれを押しいただいた。掌に伝わる羊皮紙の重みはとても紙一枚のものとは思えなかった。二百年、闇に封じられてきた輪郭がいま自分の手の中にある。
あとは行くだけだ。測りながら、世界の縁のその先まで。




