湯の沸く高さ
ケルシウス領の測量は順調に進んだ。
黒い岩肌の大地は歩きにくかったが、その分、目印となる奇岩が多く、測量には都合が良かった。一行は館を拠点に日々、領内を測り歩いた。
その夜のことだった。
館の一室を借りて、一行は夕餉を囲んでいた。料理番はいつものようにレオンハイトである。彼が旅先で食材を調達し、鍋を振るう。その腕は確かで旅の数少ない楽しみのひとつだった。
レオンハイトが湯を沸かし、乾麺を茹でていた。彼は鍋を覗き込み、ふと首をかしげた。
「あれー? おかしいなー」
「どうしました?」
ラーメルトが問うと、レオンハイトは鍋の湯を指した。
「この辺さー、湯が沸くのやたら早いんだよねー。いつもの手加減で麺を上げるとさー、芯が残っちゃう。火は同じだけくべてるのに、鍋のほうが先に音を上げるっていうかー」
湯が沸くのが早い。
最初、ラーメルトは聞き流しかけた。竈の火加減の問題だろう、と。だが、レオンハイトの次の一言がその思考を止めた。
「王都でもそうなんだよねー。最近。……昔はこんなことなかったんだけどなー」
――王都でも。最近。
ラーメルトの箸が宙で止まった。
「レオンハイト。……今、なんと」
「んー? だからさー、王都でも近頃、湯の沸きが早いのよー。神殿の賄いを作ってれば、いやでも気づくよー。前より早くぶくぶくーってさ」
ラーメルトの頭の中で何かが猛烈な勢いで回転を始めた。
湯が沸く。それは水が熱せられ、ある決まった熱さに達したときに起こる。同じ場所、同じ条件なら、その熱さはいつも同じ――はずだった。
だが。場所が変われば、そうではない。
高い山の上では湯が低い熱さで沸く。それは学院の書物にもあった。麓より頂の方が早く沸く、と。理由ははっきりとは書かれていなかったが、高い場所ほどそうなる、という事実だけは記されていた。
――高い場所ほど、早く沸く。
では、このケルシウス領で湯の沸きが早いのは、ここが高い土地だからか? 火山の麓だからか?
いや。それもあるかもしれない。だが、
問題は――王都だ。
「レオンハイト。……王都の湯の沸きが早くなったのは、いつ頃からですか」
「うーん? はっきりとはわからないけどー。……ここ何年かじゃないかなー。気のせいかと思ってたんだけどー。だって、湯が早く沸くくらいでわざわざ言うことでもないでしょー?」
ここ、何年か。
王都は平らな土地だ。山の上でもなんでもない。その王都でも、ここ何年かで湯の沸く条件そのものが変わっている可能性がある。以前より早く沸くように感じられるほどに。
それが意味することは。
――王都が少しずつ高くなっている? いや、それとも……この土地を包む空気そのものが変わってきている?
どちらにせよ、馬鹿げている。土地がひとりでに動くはずが。空気が勝手に薄くなるはずが。
だが。もし、王都だけでなく、この国全体が。いや、この――
ラーメルトはそこで思考を止めた。全身に鳥肌が立っていた。あまりに突飛であまりに巨大な想像が頭をよぎったのだ。口にするのも憚られるような。
「……どうしたの? ラーメルト。顔色悪いわよ」
フルメアが心配そうに覗き込む。ラーメルトははっと我に返った。
「いえ……なんでもありません」
声だけはどうにか平らに保った。だが、膝の上で組んだ指はまだ小刻みに震えていた。
湯が早く沸く。ただそれだけの日常の些事。料理番の何気ない一言。
だが、それはこの世界の根幹を揺るがす、途方もない事実の尻尾を掴んでいるのかもしれない。
ラーメルトは手帳を取り出した。震える指先でたった一行を書きつける。
『王都、湯の沸き早まる。ここ数年。――なぜ』
書き終えても、ラーメルトはその一行から目を離せなかった。わずか十数文字。それがやがて、世界の形そのものを書き換える問いになろうとは、このときの彼はまだ知らない。




