酒場
菱形の中に、ジョッキがひとつ。看板は鎖で吊られ、風のたびに、ぎい、と鳴いた。
王都の店は、建国のころに定められた印を掲げる決まりになっている。もっとも、酒場の印はどこも似たり寄ったりで、店ごとに彫りだの色だのを凝らしてはみるのだが、結局、ジョッキが描いてあれば、そこは酒場である。
わかりやすくて、けっこうなことだ。
フルメアを先頭に、扉を押す。
声と熱気が、まとめて顔にぶつかってきた。獣脂の煙、こぼれたエールの酸い匂い、汗。立ち飲みの高い卓も、腰を据える席も、あらかた埋まっている。
奥のひと組が立ち上がるのを見つけて、ふたりは滑り込んだ。板を打ちつけただけの卓と、脚の高さの合わない椅子。それでも、座れる。座れれば、落ち着ける。
「とりあえず、エールでいいでしょうか」
フルメアが短く頷くのを確かめ、ラーメルトは店の奥の店員に合図を送った。
店員が、冒険者たちの隙間を縫ってくる。肩を落とし、腰を捻り、盆を高く逃がす。エプロンの裾が、ひるがえる。
踊りだ、と思った。
「エールをふたつ、お願いします」
銅貨を渡すと、店員はエプロンの袋から木の札を二枚、卓に置いた。札には、エールの字が刻まれている。
「こちらの札を、あちらのカウンターでお引き換えください」
「では、私が取ってきましょう」
ラーメルトは席を立ち、カウンターへ歩いていった。フルメアは卓に肘をつき、その背を見送った。
◇
カウンターで札を渡すついでに、ラーメルトは店員に話しかけた。
「ノルデン街道のあたりで、魔術師が行方知れずになっている――そんな噂を、聞いたことはありませんか」
ノルデン街道は、王都から北西へ向かう街道である。街道と呼ぶには整備が行き届かず、馬車での旅も楽ではない。加えて、あのあたりには妖魔が出る。かつては冒険者への討伐依頼が、最も多く届く土地でもあった。
神話の時代、妖魔は魔神の駒として召し出された。抗うために、光の神々は人間を生み、力と知恵を分け与えた。言い伝えは、そう残っている。
神代からの、敵同士。
危険な相手ではある。もっとも冒険者たちの働きで、この一、二年は噂も絶えていた。
絶えていた、はずだった。
「そうですねえ。この前、冒険者の方が、魔術師がどうとか話していたのを小耳に挟んだくらいで」
「ふむ。どういった人たちだったか、覚えていますか」
店員は首を横に振った。困った顔まで、律儀に作ってみせる。嘘の匂いはしない。
ラーメルトは銅貨を三枚、情報料として握らせた。
「えへへ、ありがとうございます。もらい過ぎな気もするので、ついでに、というわけではないですけど……」
店員は声を落とし、あたりを確かめてから、耳を寄せるよう手振りをした。
「ノルデン街道の先の遺跡で、お宝を見つけたと騒いでた人たちなら、いましたよ。見かけない顔だったんで、格好までは覚えてないですけどね」
遺跡で、お宝。
ラーメルトはさらに銅貨を、と袋に手を入れたが、店員はそれを制した。
「これ以上はいただけません。ついでの話ですので」
言うが早いか、別の卓の合図に応えて、また人の隙間へ踊り込んでいった。
◇
ジョッキをふたつ、卓に置く。その音で、フルメアが顔を上げた。
「ありがとう。エールを取りに行くだけで、ずいぶん長かったわね」
口を尖らせている。その口の端に、油が光っていた。
卓には、いつの間にか皿が三つ。ひとつは、骨と脂の跡しか残っていない。
「長かったから、勝手に頼んで食べちゃったわよ」
「すみませんね。こういう場所は、話を集めるにはうってつけなのですよ」
軽く事情を話して席につき、ジョッキを差し出す。掲げ合わせると、ごつ、と鈍く鳴った。陶器は、澄んだ音を返さない。
それを合図に、ふたりは最初のひと口を飲んだ。
「はぁー……なんだか、疲れたわ」
開口一番、フルメアはため息をこぼした。ため息のあとに、ひと口。ため息のあとに、ふた口。細い喉が、こくこくと鳴る。
三度目のため息のときには、ジョッキはもう、底が見えていた。
「話したくもない身の上話までして、酒場でお酒まで飲んで……しんじ、らんない、わよぉ」
どん、と拳が卓を打った。皿が跳ね、骨が一本、転がり落ちる。
見上げてくる顔は、茹だったように赤い。体はゆっくり揺れているのに、目だけが、ラーメルトの少し右で止まっている。
ラーメルトはやれやれと店内を見回し、店員の姿を探した。
その背中の向こうでは、愚痴が回り続けている。同じ嘆きが、そろそろ三周目に入るところであった。




