写す者
トリスタットを発って二日目の夜。
事件は起きた。
宿の一室に、ラーメルトたちは測量の記録をまとめて保管していた。歩測の数字。鎖の数字。天測の角度。トリスタットで作った換算表の控え。すべて、エノアが几帳面に帳面へ書き写したものだ。
その帳面が、夜中に何者かに荒らされた。
「大丈夫ですか、エノア!」
物音で目を覚ましたレオンハイトが、真っ先に部屋へ駆けつけた。エノアは腰を抜かしていたが、幸い怪我はなかった。侵入者はレオンハイトの気配に気づき、窓から逃げたのだ。
「盗まれたものは?」
駆けつけたラーメルトが問う。エノアは震える手で帳面を確かめた。
「……ないです。何も盗られていません。帳面も道具も、全部あります」
――何も盗られていない?
ラーメルトは荒らされた帳面を手に取った。頁がめくられた形跡がある。だが、破り取られた頁はない。すべて揃っている。
「妙ですね。金目のものには目もくれず……帳面だけをあらためた」
物盗りなら、金や換金できる道具を狙う。だが、この侵入者は帳面を――測量の記録をめくっただけで、何も盗らずに去った。
ならば。最も考えられるのは。
「――写したのですね」
ラーメルトの声が低くなった。
「盗めば、記録が消える。私たちが失くしたことに気づく。だが、写すだけなら――私たちは何も盗られていないと思い込む。記録は手元に残ったまま。しかし、その中身はそっくり敵の手に渡っている」
エノアの顔が青ざめた。フルメアが拳を握る。
「誰がそんなことを……。私たちの測った数字なんて盗んで、何になるの?」
その問いに、ラーメルトは答えを持たなかった。
――なぜ。誰が。この測量の記録を欲しがる?
地図を作られては困る誰か? だが、地図はまだ影も形もない。あるのは断片的な道の長さと、星の角度と、升の換算表だけだ。それの何が。
わからない。だが、ひとつだけ確かなことがあった。
――私たちは見られている。トリスタットのあの黒服の男。街道の後方のあの気配。ばらばらに感じていた視線が、今、ひとつの明確な意志として輪郭を結んだ。
「これから記録の管理を厳重にします。エノア、あなたひとりに任せきりにはしません。控えを二重に取り、私と別々に持ちましょう。……もっとも、これで写されずに済むわけではありません。見られて困る数字は私の記憶にだけ留めておくことにします」
ラーメルトは努めて冷静に指示を出した。仲間を不安にさせてはならない。
だが、その内心では、ひとつの拭えぬ違和感が渦を巻いていた。
――敵はなぜ、私たちを襲わなかった?
記録を写すだけなら。もっと乱暴なやり方もあったはずだ。私たちを皆始末して、記録ごと奪えばいい。だが、敵は、そうしなかった。まるで――私たちが測量を続けることを望んでいるかのように。
◇
それから数日後。
トリスタットのとある屋敷の一室で。
黒服の男がうやうやしく頭を垂れていた。その前に、椅子に腰かけたもうひとりの人影。顔は暗がりに沈んでいる。
「記録は写してまいりました。……いかがいたしましょう。あの者たち、いずれ邪魔になるやも」
黒服の男が問う。
暗がりの人影はしばし沈黙した。それから、静かに言った。
「――続けさせなさい。測らせておけ」
感情の乗らぬ声だった。
「あの若造は、我らが百年たどり着けなかった場所へ、たどり着くやもしれぬ。……ならば、道案内をさせればよい。果実が実るのを待てばよいのだ。摘み取るのは、それからでも遅くはない」
黒服の男は深く頭を下げた。
人影は写しの帳面を手に取り、その几帳面な文字を指でなぞった。
――王によらず、国によらず、時代によらず。
その文字の並びを見て、人影の口元が暗がりの中でわずかに歪んだ。嗤ったのか、蔑んだのか。それは誰にもわからなかった。




