三国の升
一行が次に向かったのは、トリスタットであった。ハンザールから、なお海沿いを南へ下った先にある。
キーロイス王国、ハンザール通商連合、マギアード公国――三国の境が複雑に入り組み、ちょうど境が交わるあたりに位置する中立の自由都市である。マギアードの領土は、ここから北へ弧を描くように広がっており、これから向かうキーロイス東部への道とは、また別の径だった。どの国にも属さず、それゆえ、三国すべての商人が集う交易の要衝だった。
「わあ……いろんな言葉が、聞こえる」
フルメアが、通りを見回して言った。三国の人々が、それぞれの訛りで値を競り合っている。同じ言葉が、三つの国の分だけ飛び交っていた。
この町を、ラーメルトがあえて旅程に入れたのには理由があった。三国の物差しが一堂に会するこの町でなら、一つの国だけを見ていてはわからぬ単位の問題の、より大きな姿が見えるはずだと考えたのだ。
そして、その狙いは的中した。
「一樽、いくらだって?」「だから、こっちの升で五升だと言ってるだろう!」「五升? そっちの升は小さいじゃないか! うちの国の升なら四升だ!」
市場では、あちこちで、こうした押し問答が繰り広げられていた。ハンザールの一升、キーロイスの一升、マギアードの一升。それぞれの国や商業組織には、基準として定められた検定升がある。だが、同じ「一升」という名でありながら、その大きさは国ごとに微妙に違っていた。
布市場のときは、同じ国の町ごとの違いだった。だが、ここでは国と国との違いなのだ。問題の根は、さらに、深く、広い。
「これは……ひどいですね」
ラーメルトも、思わず唸った。
「同じ名で、違う量。そのたびに、皆が頭の中で換算をしている。『あの国の一升は、うちのこれくらい』と。……間違いも、ごまかしも、生まれ放題です」
トリスタットの自治を担う商人組合の長老が、この事態を憂い、以前から頭を悩ませていた。ラーメルトが王命で度量衡を調べていると知ると、長老は藁にもすがる思いで、彼を訪ねてきた。王命が及ぶのは、あくまでキーロイス領内までだ。だが、頼られて力になれないとは思わなかった。
「導師様。どうか、お知恵を。この町の交易は、三国の升の食い違いで、日々、揉め事が絶えんのです」
ラーメルトは、しばし考えた。
三国の升を、ひとつに統一する。それは理想だ。だが、今の自分にはその権限も力もない。それは、いつか王たちが話し合って決めることだ。
では、今、自分にできることは何か。
「……統一は、できません。それは、国と国とが決めることです。ですが」
ラーメルトは顔を上げた。
「三つの升が、互いにどういう関係にあるかを、はっきりと定めることはできます」
ラーメルトは三国の検定升をこの町に取り寄せさせ、まず空の升それぞれの重さを量った。そのうえで同じ水を一杯ずつ量り、空の升の重さを差し引いて、中身の量を比べた。ハンザールの一升は、キーロイスの何升ぶんか。マギアードの一升は、そのいくつぶんか。すべての組み合わせを正確に量り出す。
そして、その関係を一枚の表にまとめた。
「これを、『換算表』と呼びましょう。この町で商う者は、皆、この表を持てばいい。相手の国の升で言われても、この表を見れば、自分の国の升でいくらになるかすぐにわかる」
長老の目が見開かれた。
「そ、それだけのことで……!」
「そう。それだけのことです。ですが、その『それだけ』が、これまで、誰もきちんと定めていなかったのですよ」
――信用。
ラーメルトは思う。
升の大きさが違うことが、問題なのではない。違うことを、皆が、同じように、正しく、了解していないことが、問題なのだ。「あの国の一升は、うちの、これだけ」。それが、揺るがぬ事実として、共有されていれば。人は、安心して、商いができる。単位とは、突き詰めれば――人と人との間の信用の土台なのだ。
国が違えば、言葉も、貨幣も、升も、違う。それでも、換算の一表さえあれば、人は、互いを、信じて、取引ができる。
――ならば。
ラーメルトの脳裏を、ふと、埒もない考えがよぎった。
もし、いつか。まったく別の遠い遠い世界の人々と出会うことがあったなら。そのときも、たったひとつ、揺るがぬ基準さえ分かち合えれば。人はきっと手を結べる。
……いや。何を考えているのか。ラーメルトは苦笑して、その突飛な想像を頭から追い払った。
長老は、換算表を押しいただき、幾度も礼を述べて去っていった。
その、去りゆく長老の背を見送る、ラーメルトたちのさらに後ろ。
人混みの中に、黒い服の男がひとり、佇んでいた。
男はラーメルトを――いや、正確にはラーメルトが作った、あの換算表をじっと見つめていた。
やがて、男は換算表からゆっくりと目を離した。そして、何ごともなかったように、人混みの中へ、溶けていった。




