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幕間 エノアの返事・後

 書き損じが七枚になった。


 宿の紙は一枚、銅貨二枚である。七枚で銅貨十四枚。豆のスープが二杯と半分。エノアは机の上に積み上がった紙の山を見て、その勘定をしてしまった。してしまってから、自分にうんざりした。

 商家の娘の頭はこういうときにいちばん要らない働きをする。


 ――拝啓。父上。過日の御書状、拝受いたしました。


 そこまでは書ける。手が勝手に書く。書状の頭は体が憶えている。

 問題はその次だった。


 一枚目には、詫びを書いた。ヨナス殿にはまことに申し訳なく――そう書いてから、破いた。詫びの言葉は断りの文の作法として正しい。正しいのに、嘘くさかった。彼女が本当に詫びたいのは、断ることではなく、断るのに三日もかけていることだったからだ。

 二枚目には、記録係を任されたことを書いた。読み返すと、自慢に見えた。破いた。

 三枚目には、こう書いた。もう一度だけ外の世界を見たいのです、と。

 筆が止まった。

 嘘だ。

 もう一度だけではない。彼女はもう帰る気がない。

 四枚目は白いまま、日が暮れた。


◇


 夜が更けてから、彼女はいちどヨナスとの暮らしを真面目に想像してみた。


 断るための下準備のつもりだった。悪いところを見つけて、それを書けば手紙は済む。そう思ったのだ。

 ところが、探しても出てこない。

 麦の目利きは甘いが、勘定は確かだと、父は書いていた。人の話を最後まで聞く男だとも。そういう男の家に嫁げば、朝は店の帳を手伝う。昼は蔵の棚卸し。夕には荷の着く音を聞きながら、子どもの背丈を柱に刻む。冬は寒くない。

 悪くない。

 悪くないどころか、良い。

 エノアは筆を置いた。

 断るのは、悪い縁談を断ることではなかった。良い縁談を断ることだった。

 置いた筆の軸が汗で湿っていた。


◇


 昼は、測る。


 ラーメルトが歩数を数え、フルメアとレオンハイトが鎖を伸ばし、彼女がその数字を書き留める。晴れた日は、暑い。荷馬車の轍を避けて、道の端を歩き続ける。夕方には、帳面の頁が三枚埋まっている。

 手は止まらないのだ。

 他人の数字なら、いくらでも書ける。自分の返事だけが書けない。


「エノア」


 街道の脇の切り株に腰を下ろして、ラーメルトが水筒を差し出した。


「顔色が悪い。……眠れていませんね」


「……はい」


「手紙ですか」


 彼女は頷いた。頷いてから俯いた。


「もし……私がここを離れたら」


「困ります」


 即答だった。


「ひどく困ります。歩測も、鎖も、天測も、測るだけなら三人でできる。ですが、測ったそばから、数字は指の間からこぼれていく。それを掬う手がいまはあなたしかいません。記録係を失うのは隊の損失です」


 あまりにまっすぐだった。

 エノアは噴き出した。


「……ラーメルトさんはそういう言い方をなさるんですね」


「他の言い方がありますか」


「あります。……たくさんあります」


「そうですか」


 ラーメルトは少し考える顔をした。それから、水筒の栓を閉めた。


「ですが、いまの話は私の側の損得です。あなたの帳面はあなたのものだ。……私はあなたに残ってほしい。それは私の望みです。望みは天秤に載せてはいけません。載せれば、あなたの側の目方が狂う」


◇


 その晩、宿の卓でレオンハイトが鍋をかき混ぜていた。


「僕はねー、どっちでもいいよー」


「え」


「どっちを選んでも、エノアちゃんは、ごはんを食べるでしょー? 僕は、食べる人がいるところで、鍋をかき混ぜるだけだからねー。……あ、でもね」


 彼はお玉を止めた。


「腹が減ってると、字はねー、書けないよー。今日は、ちゃんと食べたー?」


 フルメアはもっと短かった。彼女は机の上の紙の山を一瞥した。


「線、引いた?」


「……はい」


「両側、埋まった?」


「……はい」


「で、どっち」


「……」


「じゃあ、その線間違ってるわよ」


 フルメアは椅子の背に腕を掛けた。


「升と尺は足せないんでしょ」


 二人が出ていったあと、エノアは卓に残った鍋を見ていた。

 この鍋をかき混ぜていた手が、あの夜、森の外れの野営で、彼女の腹の傷を塞いだ。塞いだあと、その人は豆のスープを煮て、それから、倒れるように眠った。彼女は目を覚まして、そのスープを飲んだ。

 あれの値を彼女はまだつけられずにいる。

 商家の娘は値のつかない借りを二つ抱えていた。ひとつは、育ててくれた家に。もうひとつは、拾ってくれたこの隊に。

 どちらか一方を返せば、他方がそのぶん増える。

 そういう帳はこの世にあるのだろうか。


◇


 夜。

 紙は白いままだった。

 エノアは筆を置き、代わりに旅の帳面を引き寄せた。歩数。鎖。星の高さ。これまでの数字が几帳面に並んでいる。

 最初の頁を開いた。

 まだ何も書いていない。表題も、日付も。


 ――記録には記した者の名が要る。


 父の口癖だった。ハンザールの帳面は末尾に必ず書いた者が拇印を押す。誰が書いたか分からぬ帳面は証しにならない。証しにならぬ帳面は紙屑と同じ目方しかない、と。

 彼女は筆を取った。

 最初の頁に一行書いた。


 ――この帳面を記す者。エノア。ハンザールのエノア。


 書いてしまってから、しばらくその一行を見ていた。

 自分の名を書いた。生まれて初めて、記録の中に自分の名を書いた。

 森で失った人たちの名はどこにも無い。誰も書かなかったから、無い。

 書けば、残る。書かなければ、残らない。それだけのことだった。

 それだけのことがどうして、こんなに。


 彼女は袖で目を押さえた。押さえてから、慌てて帳面を遠くへ押しやった。


「……にじみます」


 新しい紙を一枚置いた。

 今度は止まらなかった。


 ――拝啓。父上。御書状、拝受いたしました。ヨナス殿には否とお伝えください。

 ――理由を商いの言葉で申し上げます。私はいまこの隊の帳面を預かっております。預かった帳面を途中で他人に渡すことはできません。ハンザールの娘として、それだけはいたしかねます。

 ――中途はいかん、と父上はお書きになりました。私もそう思います。ですから、中途にはいたしません。

 ――ヨナス殿は良い方だと思います。私が良い相手ではありません。

 ――利はいつも通りにお返しいたします。私を育ててくださった元手はいつか必ず別の形で。

 ――母上にお伝えください。寒くはありません。


 最後に名を書いた。

 娘。エノア。


◇


 夜明け前。宿の主人に蝋を分けてもらった。


「印形は?」


「……家に置いてきました」


「じゃ、拇印だね」


 主人は燭台の火で蝋を炙った。赤い滴が封じ目に落ちる。エノアは右の親指を押しつけた。


「熱っ」


「そりゃ、熱いよ」


 蝋が冷えた。

 親指の腹の紋がそこに残った。

 この紋はこの世にひとつしかない。彼女はそう教わって育った。だから、拇印を押すのだ。誰が書いたか、後から確かめられるように。


◇


 東の空が白んだ。

 宿場の広場では、荷馬車の御者が最後の荷を縄で締めている。ハンザール行き。日の出とともに発つ。


「これを。ハンザールの商館へお願いします」


 エノアは銅貨を添えて、封書を差し出した。御者は封じ目の拇印をちらりと見て、それを革の袋に押し込んだ。


「宛名は」


「書いてあります」


 鞭が鳴った。

 荷馬車は土埃を上げて、街道へ出ていった。彼女はそれが宿場の外れの木立に隠れるまで立っていた。

 風は思ったより冷たかった。

 寒くはありません、と書いてしまったのに。


 宿へ戻ると、卓に木の匙が一本置いてあった。

 鍋の脇に粥が椀に一杯だけ残してある。まだ温かい。誰が残していったのかは訊くまでもなかった。

 エノアはそれを立ったまま食べた。

 腹が減っていると、字は書けない。今朝はもう書き終えたあとだったが、それでも食べた。食べておかないと、これから先書くものがたくさんある。


 卓に着き、帳面を開いた。

 今日も、測る。南へ。


 ――晴。南へ。基線、確かめ直し。歩数――


 筆はもう止まらなかった。


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