幕間 エノアの返事・前
この話は、記録係が加わって、間もない頃。エノアの物語です。
その日、エノアは旅の帳面に初めて他人の名を書いた。
街道の村と村の間である。ラーメルトが歩数を数え、フルメアとレオンハイトが鎖を伸ばす。彼女はその数字を書き留める。歩測。鎖。里程。日付。天候。
数字だけが頁を埋めていく。
三日目の午後、その頁が少し怖くなった。
「あの、ラーメルト先生」
「はい」
「この322という数字は誰が数えたものでしょうか」
ラーメルトは足を止め、帳面を覗き込んだ。
「私です」
「はい。そう思って、書きました。……でも、十年後に、この頁だけを読む人には、わからないと思うのです。誰が数えた322なのか」
ラーメルトはしばらくその数字を見ていた。
それから、顔を上げた。
頷きがいつもより深かった。
「書いてください。数えた者の名を。……書いてくださると、助かります」
だから彼女は書いた。数字の隣に小さく。
その日の夕方、宿場の井戸端で水を分けてくれた老婆にも名を訊いた。訝しがられたが、教えてくれた。彼女はそれも書いた。数字ではないものをこの帳面に書いたのは、それが初めてだった。
名前を書くと、頁が少しだけ温かくなった。
そして、その夜。
宿の帳場で宿の主人が彼女を呼び止めた。
「ハンザールから荷馬車が来とる。……あんた宛てだ」
◇
父の字だった。
几帳面で、隙がなく、行の頭が定規で引いたように揃っている。商家の書状はこう書くものだと教えられて育った。彼女の字も同じ字だった。
部屋に戻り、蝋燭を近づけて、彼女はそれを読んだ。
――前略。息災か。金は足りておるか。足りぬなら、ハンザールの商館へ行け。名を告げれば、貸す。利はいつも通りに取る。
最初の三行で目の奥が熱くなった。金の話しか書いていないからだ。
父はこういう人だった。案じているとは決して書かない。書けば、値が下がるとでも思っているのだ。
――ヴァイス商会より再度の申し入れがあった。
――先方は待つと言うておる。だが、待たせるにも限りがある。人を待たせるのは金を借りるのと同じだ。利が日ごとに積もる。
――ヨナス殿は悪い男ではない。麦の目利きはまだ甘い。だが、勘定は確かだ。人の話を最後まで聞く。それができる男は商いにも、暮らしにも、十人に一人しかおらぬ。
――返事を寄越せ。是でも、否でもよい。是なら、秋に。否なら、否とはっきり書け。中途はいかん。中途は先方にも、こちらにも、損だ。
――この書状を運んだ荷馬車は三日この宿場で荷を積み替え、四日目の朝、ハンザールへ発つ。返事はそれに託せ。
そして、最後に一行だけ。父の字ではない丸い字が余白に押し込まれていた。
――寒くない?
母である。
蝋燭の芯がぱち、と鳴った。
エノアはそのまま動かなかった。
◇
彼女は帳面を開いた。
まだ何も書いていない後ろのほうの頁である。
そして、真ん中に一本線を引いた。
商家の娘だからだ。
迷ったら、線を引いて、両側に並べる。それがこの家の作法だった。父は家を買うときも、店の者を雇うときも、必ず線を引いた。娘はその線の引き方だけをしっかり覚えて、家を出た。
左に書いた。
――ヴァイス商会。
――ハンザールの家。屋根が丈夫。
――冬に凍えない。
――両親が安心する。
――ヨナス殿。人の話を最後まで聞く人。
――子。たぶん。
右に書いた。
――記録係。
――日銭は出る。多くはない。
――冬に凍える。
――両親が心配する。
――……
そこで筆が止まった。
右の欄に何を書けばいいのか、わからなかったのだ。
この三日で自分が何を得たかを書こうとした。書こうとして、それが数えられないことに気づいた。
322という数字の隣にラーメルト先生の名を書いたときのあの指先の感じ。あれをどう書けばいいのか。井戸端の老婆の名を書き留めたときの頁の温かさ。あれはいくらなのか。
左の欄には値がついている。屋根には値がある。冬の薪にも値がある。安心にもたぶん値がある。
右の欄には値がついていない。
足せない。
と彼女は思った。
升と尺は足せない。二升と三尺を足して五にする者はいない。それなのに自分は今升と尺を同じ線の両側に並べてどちらが多いかを数えようとしている。
商家の娘として、これほど恥ずかしい帳面はなかった。
彼女はその頁を破ろうとして――やめた。
破って捨てるには、あまりに正直な頁だった。
◇
右の欄に本当は何を書きたかったのか。
筆を置いてから、ずいぶん経って、彼女はそれに気づいた。
森で失った人たちのことだ。
王都の酒場で声をかけてくれた人たち。ゴブリン退治なら初心者でも平気だと笑って、道々干し肉を分けてくれた人たち。途中で仲間が増えた。増えたから、安心した。
何人だったろう。
商家の娘が数を思い出せない。指を折って、二度数えて、二度とも違う数になった。
名も出てこなかった。呼び名なら、憶えている。弓の兄さん。左利きの人。先頭を歩いていた、髭の。皆、互いを渾名で呼び合っていた。渾名は家に届かない。誰の子で、どこの生まれで、帰りを待つ者がいたのかどうか。彼女は何ひとつ知らないまま、幾日か一緒に歩き、そして、ひとりになった。
あの森のことを誰か書き留めただろうか。
書き留めていない。
衛士はゴブリンの数を数えた。数は書き留められた。人は書き留められなかった。
彼女が生きて帰ったことすらどこの帳面にも載っていない。載っているとすれば、父の帳面のたった一行だけだ。娘、無事。
彼女は今日の頁を開いた。
322という数字の隣に小さく書いてある。ラーメルト先生。
井戸端の老婆の名も書いてある。
この頁は十年後にも残る。この字が残っている限り、その人たちはこの日確かにそこにいたことになる。
ああ、と声が漏れた。
わたしはこれがしたかったのだ。
思ったところで、右の欄は埋まらなかった。
値がつかないのだ。
彼女は帳面を閉じた。
閉じても、その頁は頭の中で開いたままだった。
◇
扉が控えめに二度叩かれた。
「エノア? ……起きてる?」
フルメアだった。手にパンと干し肉と水の入った革袋を持っている。その後ろからひょっこりと間延びした声が覗いた。
「はい、夜食ー。食べないと、明日の鎖、持てないよー」
レオンハイトである。手にはなぜかもうひとつパンがある。自分の分だ。
「あの、私は」
「食べる。ほら」
フルメアは有無を言わせずにパンを押しつけた。それから、机の上の書状にちらりと目をやり――何も訊かなかった。
訊かない代わりに、彼女は椅子に座って、足をぶらぶらさせながら言った。
「あたしね、家、出てきたの」
「……はい」
「継ぐはずだったのよ。工房。……ううん、継げなかった。継がせてもらえなかったの。うちの家、いろいろあってさ」
フルメアはそこで少し笑った。
「だから、あたし、押し売りしてたわけ。あの日、あの人に。……で、どうなったと思う? 世界を測る旅よ。旅! ばかみたいでしょ」
「ばかみたいだねー」
「あんたは黙って」
レオンハイトがパンを咥えたまま肩を竦めた。
フルメアは立ち上がり、扉に手をかけた。振り返らなかった。
「……あたしは、選ばされて、こうなったの。エノアは選べるんでしょ」
取っ手が鳴った。
「――羨ましい。ほんとに」
◇
二人が出ていったあと、エノアはパンを齧った。
冷たかった。硬かった。宿場のパンである。ハンザールの家で食べていたパンとは、比べものにならない。
美味しかった。
それがいちばん困った。
彼女は机に向かった。
新しい紙を一枚置いた。宿の主人に頼み込んで、分けてもらった紙である。ハンザールの商館の紙よりずっと粗い。筆を走らせれば、きっとにじむ。
――拝啓。父上。
そこまで書いて、筆が止まった。
窓の外では荷馬車の御者たちがまだ荷を積み替えている。三日後の朝。日の出とともにあの荷馬車はハンザールへ発つ。是なら、秋に。否なら、否とはっきりと。
中途はいかん。父はそう書いていた。
筆先の墨が粗い紙に触れた。
じわり、と点がにじんだ。
「……にじみます」
とエノアは誰にともなく呟いた。
筆はまだ下りなかった。




