神殿長と押し売り娘
旅立ちの前に、挨拶をしておかねばならない場所がいくつかあった。
まず、鍛冶屋のグラディオを訪ね、研ぎ直しを頼んでいた黒い刀を受け取った。それから――神殿である。レオンハイトにも、これから旅に出ることを伝えておきたかった。ついでに、フルメアを母に紹介しておこうと思い立った。婚姻を、という話ではない。ただ、これから旅をともにする相手だ。神殿長である母には、一度顔を合わせておいてもらった方がいい。そう考えたのだ。
――が。この判断が思わぬ騒動を招くことに、ラーメルトはまだ気づいていない。
「へえ、ここがラーメルトのお母さんの……神殿長さんの神殿かぁ」
フルメアが大きな建物を見上げる。入り口で黒い刀を預け、広間を抜け、奥の区画へ。神殿長室の前に立ち、ラーメルトは扉を叩いた。
「ラーメルトです。母上、戻られていますか」
「あら、ラーメルト。お入りなさいな」
――今度は、いた。
しばらく神殿を空けていた母が旅から戻っていたらしい。ラーメルトは久方ぶりに聞く母の声に少しだけほっとした。扉を開ける。
「ご無沙汰しております。実は、旅の報告と……紹介したい人が」
言いながら、ラーメルトは半身を引いて、後ろのフルメアを前に出した。
神殿長――リザベラが、椅子から立ち上がり、フルメアへにこやかに目を向ける。
その瞬間だった。
フルメアの顔が浮かべかけた笑みのままこわばった。
「エ……エ、エリヴィラ!?」
――は?
ラーメルトはフルメアと母とを交互に見た。
エリヴィラ。その名は、洞穴の一件で、フルメアたちを助けてくれたという、あの謎の女性の名では。いつか会うことがあれば礼を、と自分も思っていた、あの。
「あら」
母はぱちりと目を見開き――それから、悪びれる様子もなく、にっこりと笑った。
「バレちゃったわね」
「なっ……何を、どういう……えっ!?」
混乱するフルメアの横で、ラーメルトの思考もぴたりと止まっていた。母の顔に、聞かされていた恩人の姿を、いくら重ねようとしても、像が結ばない。
母が。神殿長のリザベラが。あの、エリヴィラ?
「あの……母上。エリヴィラ、というのは」
「うふふ。旅先ではね、いつも別の名を使うことにしているのよ。神殿長が、ひとりでふらふら出歩いていたなんて知れたら、代理の子が卒倒してしまうでしょう?」
母は悪戯が見つかった子どものような顔で、しかし堂々とそう言ってのけた。
「あ、あの、あのとき、酔い潰れた私を運んでくださって……ヴォルトローネの隠れ家まで一緒に……えっ、じゃあ、あの強さは……」
「フルメアちゃん。積もる話は、後でゆっくりね」
母はしどろもどろのフルメアの頭をぽんぽんと撫でた。エリヴィラのときと寸分違わぬあの手つきで。
――待ってください。
ラーメルトは片手で額を押さえた。
では、あのとき。私が洞穴で気を失っている間、私を捜し、助けに来てくれた「エリヴィラ」は。剣も持たずにゴロツキを制圧し、髭面から隠れ家を聞き出したという、あの手練は。
――母だったのか。
思い返せば。以前、フルメアが自分の強さに驚いたとき、レオンハイトが言っていた。「ラーメルトは、リザベラ様の剣の一番弟子だしねー」と。母に剣を仕込まれた、と自分でも言った。その、剣を仕込んだ母が、あの場に。
「母上……なぜあの場に」
「あら。息子が危ない橋を渡るというのに、母親が、大人しく神殿で待っていられるとでも?」
母はけろりと言った。
「別の街道から先回りしていたのよ。……まあ、あなたが思っているより、ずっと近くでね」
――ずっと近くで。そう口にしたとき、母の目が、ほんの一瞬だけ、笑っていなかった。だが、それが何なのかは、まるで掴めない。母は、いつもそうだ。核心の一歩手前で、笑って、はぐらかす。
「と、とにかく!」
フルメアが真っ赤な顔で話を引き戻した。
「あのときは、本当に、ありがとうございました! あなたがいなかったら、私、ラーメルトも、みんな……!」
「いいのよ。それが母親というものだもの」
――母親、というものだもの。
その一言に、ラーメルトはなぜか、胸を突かれた。あのとき、エリヴィラは、剣を躱しながら言ったという。「お母さん悲しいわー」と。冗談だと皆が笑ったあの言葉は。まさか。
いや。考えすぎだ。ラーメルトは頭を振ってその思いつきを追い払った。
「まあ、それより」
母――リザベラが、話題を変えるように手を打った。
「あなたたち、旅に出るのでしょう? 長さの基準と、地図。……大それたお役目を、いただいたものね」
「ご存じでしたか」
「王都じゅうの噂よ。……ラーメルト」
母の声がふと静かになった。
「その旅で、あなたは、いろいろなものを見るでしょう。この国の隅々まで。……見たものを、そのまままっすぐに測りなさい。誰かの都合で、目盛りを曲げてはいけないわ。あなたのお父様と、私が――あなたに、託したいのは、それだけよ」
母はそのあいだ、笑わなかった。いつものように、核心の手前ではぐらかすことも、しなかった。ただ、まっすぐにラーメルトを見ていた。
なぜ、ここで、父の名が出るのか。なぜ、こんなにも、重く。
ラーメルトが問い返そうとしたとき、母はもういつもの笑顔に戻っていた。
「さ、餞別をあげましょう。ちょっと待っていてね」
母は奥の棚から、古びた小さな護符を取り出し、フルメアの手に握らせた。見たことのない、不思議な意匠だった。この国のものとも、どこか違う。
「旅のお守りよ。……いつか、その意匠の意味を知る日が来るかもしれないわ。そのときは、そうね……グレインに聞いてごらんなさい」
護符を握らされたフルメアがきょとんとする。ラーメルトも、その意匠を横目で見た。
――なぜ、父に。
問いだけがまたひとつ増えた。




