王の腕
第二章「基準と地図」へ、ようこそお越しくださいました。魔術師失踪事件から、ひと月あまり。ラーメルトとフルメアの世界を測る旅が始まります。
布市場の一角で、男がふたり、怒鳴り合っていた。
「だから、これで三アール分だと言っておろうが!」
「ふざけるな! お前んとこの物差し、明らかに短いだろう! こっちの巻尺で測りゃ、二アールと半分がいいところだ!」
人だかりができている。ラーメルトはフルメアとともにその輪の後ろから様子を眺めていた。
布を売る側と、買う側。双方がそれぞれの物差しを手にしている。そして、その二本の物差しは――並べてみれば、ひと目で長さが違った。
「どっちが正しいのよ、あれ」
フルメアが小声で訊く。ラーメルトは少し考えてから答えた。
「どちらも、正しいのでしょうね。それぞれの町の、それぞれの物差しとしては」
アール、という長さの単位がある。元は、王の腕――肘から中指の先までの長さを基準にしたものだ。だが、王が代替わりするたびに、その「腕」は変わってきた。加えて、地方の職人が各々手ずから物差しを削る。同じ「一アール」と刻まれていても、王都のそれと、隣町のそれとでは、微妙に――いや、時には、あからさまに――長さが違う。
だから、こういう諍いが毎日のようにどこかで起きている。
「王都の物差しに合わせろ」「いや、この町の物差しが正しい」と、両者は一歩も譲らない。やがて、仲裁に入った衛兵が双方から話を聞き、面倒くさそうに頭を掻いていた。
フルメアがぽつりと言う。
「なんだか……可哀想ね。どっちも、嘘をついてるわけじゃないのに」
ラーメルトはすぐには応えられなかった。言い争う二人の男がふいにまったく違って見えてくる。
――どちらも、嘘をついていない。ただ、拠って立つ物差しが、違うだけ。
これを、なくす。誰もが同じ一本の物差しで測れるようにする。それが、王から課された仕事なのだ。頭では、わかっていた。だが、二本の物差しを目の前にすると、その難しさが、みぞおちのあたりにずしりと下りてくる。
布市場を離れ、ふたりは中心街を歩いた。
「ねえ、ラーメルト。結局のところ、どうすればいいの? 王都の物差しを、国じゅうに配って回るとか?」
「それも、ひとつの手ですが……」
ラーメルトは首を振った。
「では、その王都の物差しが、百年後も同じ長さだと、誰が保証してくれるのでしょう。それを削った職人が死に、原本が失われ、写しの写しの、そのまた写しが出回れば――結局、また、同じことの繰り返しです」
王の言葉が蘇る。王によらず、国によらず、時代によらず。
人の腕でも、王の権威でもない、何か。百年経っても、千年経っても、誰かが確かめようと思えば、いつでも同じ長さを取り出せる、揺るがぬ何か。
――そんなものが、この世に、あるのだろうか。
「難しい顔してる」
フルメアが下から覗き込んでくる。ラーメルトは苦笑した。
「ええ。……難しいのですよ、これが。考えれば考えるほど、足元がなくなっていくようで」
ふと、ラーメルトは足を止め、空を仰いだ。雲ひとつない、高い空だった。どこまでも青く、どこにも果てが見えない。
「フルメア。以前にも訊きましたが――この世界は、どれくらいの、大きさなのでしょうね」
フルメアは空を見上げ、前にもそうしたように、うーん、と首をひねった。
「前にも言ったけど、大きい、としか……。端から端まで歩いたことのある人なんていないものね」
「そう。いないのです。誰も知らない」
ラーメルトは掌を開いて、その空にかざした。
「長さの基準を作れ、と王は仰った。ですが、そもそも私たちは自分たちの住むこの世界がどれほどの広さなのかすら、知らないのですよ。一アールも測れずに諍うくせに、世界の大きさは、誰も測ろうとすらしていない」
あの夜にも口にした問いが、二本の物差しを目の前にしたことで、改めて重みを帯びていた。奇妙で――そして、途方もなく面白い問いだった。
布市場の諍いを解く道は、ひょっとすると、あの高い空のずっと向こうまで続いているのかもしれない。
「まあ、前にも言ったけど――なんとかなるわよ!」
フルメアがいつもの調子で、ラーメルトの背を叩いた。
「なんとか、なりますかね」
「なるなる。だって、あなた、そういう顔してるもの。難しいって言いながら、ちょっと、楽しそう」
――そうだろうか。ラーメルトは、己の頬に手を当てた。言われてみれば、確かに、口の端が、わずかに上がっている気がした。




