再び、妖魔の森へ
鈍い音とともに、地面に叩きつけられた衝撃で、目が覚めた。
被せられた布が剥ぎ取られる。今度は、岩を削り出した薄暗い洞穴の中であった。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
だが、それ以上に――鼻を、殴られた。
獣と、腐った肉と、その他。混ざり合って、もはや形すら持っている臭いであった。
手首に、鉄の重みがない。目を覚ます前に外されたのか、縄だけが、後ろ手に食い込んでいる。
「おっと。さすがに、この臭いは目が覚めるよなぁ?」
ゴロツキが顔を鷲掴みにし、地面に押しつけてくる。岩肌の尖りが頬を裂き、薄く血が滲んだ。
「おいおい。何を、やってるのぉ?」
入口に手をかけた魔術師が、不快げに言った。ゴロツキの手が離れる。
「寝起きの挨拶ってやつっすよ」
「そいつはそのままにして、女を探しに行った連中を連れ戻してきてくれないかねぇ。やることは、まだまだ山ほどあるんだよぉ」
へいへい、と悪態をついて、ゴロツキが出ていく。入れ替わりに、魔術師がラーメルトの前に立った。
「しばらく生かしておくつもりだったけど――死んでもらうことに、なりましたぁ。もちろん、ただ死ぬんじゃない。我々の役に立って、死んでもらうのだけどねぇ」
魔術師は入口へ向かい、声を発した。人の言葉でも、魔法言語でもない。何か、耳慣れぬ響き――いや。ラーメルトは、その響きを、どこかで耳にしたことがある気がした。
言い終えたとき、入口から、ゴブリンが入ってきた。
「ゴブリン? ……いったい、どういうことです?」
人間による妖魔の使役など、聞いたことがない。神代からの、敵同士なのだ。
「死にゆくあなたが、知る必要のないことですよぉ」
魔術師はゴブリンへ二言三言、あの響きで告げ、部屋を出ていった。
残されたのは、ラーメルトと、ゴブリンたち。
◇
馬を限界まで走らせ、それでも陽が西へ傾きかけた頃に、一行はようやくドルフェン近くの森の入口付近まで辿り着いた。グランツェでの騒ぎと、二棟の建物の捜索に、思いのほか時を食っていた。川辺に馬を休ませ、森へ入る算段を立てる。日暮れまでに、片をつけたい。
「森と言っても、広いからねー。どのあたりかまでは、わからないかなー」
地図を囲み、レオンハイトが口を開いた。
「馬車ごと入れる広さがあって、街道からは見つけにくい場所――と考えるのが、妥当ですかねー」
「私たちがゴブリン退治で入った場所は、街道から離れていて、馬車も入れそうな道でしたよ」
エノアの言葉に、一同が反応した。六人が並んで歩ける道だったのだ。エノアが地図を指す。正確さの乏しい地図だが、大まかな場所はわかる。
「でも、ゴブリンのいる場所に、隠れ家は作らないんじゃないかなー?」
エリヴィラの指摘に、一同は唸った。瀕死の重傷者が出るような場所に、拠点を? 助けに行って、ゴブリンに襲われては元も子もない。
「エノアは、どのあたりで襲われたか、覚えてるかしら?」
「確か、このあたりから入って……休憩の最中でしたから、この、あたり?」
指の先は、森のちょうど中央あたり。地図には、何も描かれていない。
「とりあえず、進むしかないのかしら」
「そうと決まれば、移動しましょうかー。馬は、置いていった方が良いかもねー」
馬上は狙われやすく、森では見通しも利かない。今回は奇襲である。入口までは馬で行き、そこで馬を放す。馬には帰巣の本能がある。乗り手を失えば厩へ帰ることも多いが――今回は、待っていてくれる方に賭けることにした。
各自が装備を検める。フルメアは短剣。エノアはドルフェンで買ったらしい、短剣より少し長い剣。レオンハイトは――布? 布の先端に、何かが包まれている、不思議な道具であった。エリヴィラは、相変わらず、何も持っていない。
◇
洞穴の牢で、ラーメルトはゴブリンを刺激せぬよう、ゆっくりと座る姿勢を取った。寝転んだままでは、何もわからない。
――我々の、役に立って、死んでもらう。
用途があって、生かして運ばれた、ということだ。それに、あの響き。ゴブリン語、とでも言うべきものか。学院ではそんな言語は一切教えないし、そもそも、ゴブリンが言葉を解するという事実すら、知られていない。あの男は、どこでそれを――
ふぅ、と全身の力を抜く。
移動の間に、縄を締め直された形跡はない。縛られるとき、全身に力を入れ、手の向きを変えておいた。力を抜けば、わずかに隙間ができる。隙間があれば、抜ける。
ラーメルトは、後ろ手のまま、静かに縄抜けを始めた。
ゴブリンは退屈そうにこちらを眺めていたが、やがて地面に座り込み、あくびを始めた。見張りには向かない連中だ、と感心している間に、右腕が、縄から抜けた。
右腕さえ抜ければ、あとは早い。両足を引きつけ、縄を解いていく。
さて。ラーメルトは、部屋のゴブリンを数えた。……五匹。多いな。武器もない。二匹までなら、素手でも。三匹目からは、毒の刃が、どこかで届く。
部屋を見回す。武器になりそうなものは、何ひとつない。
困りましたね。ラーメルトは、毒の一撃が己に届かぬことを、祈るしかなかった。
◇
一行が、エノアの言う森の入口付近まで来たとき――森の中から、馬が一頭、駆け出てきた。
人?! 警戒する一同。馬上の男は、フルメアを見ると、口笛を鳴らした。
ゴロツキであった。
「生きてたのかい? お嬢ちゃん。……あいつら、使えねぇな。こんなの一人捕まえきれねぇとか。しかもよぉ、よく見りゃ、他にも女がいるじゃねぇか」
エノアとエリヴィラを、上から下へ、舐めるように視線が這う。
不快を通り越して、虫が這うようであった。
「ラーメルトは、どこなの!」
「あーん? あの男か? あの男なら――これから死ぬぜ? ガハハ」
「嘘よ!」
「本当か嘘かなんてよぉ、言う必要がねぇんだよ! ここでお前らは、俺のもんになるんだからなぁ!」
ゴロツキが、馬の距離を詰めてくる。馬上の戦いなどしたことがない。フルメアが振り返ると、レオンハイトは静かに首を横に振った。えー……。頼みにしていた分、がっかりする。
「フルメアちゃん。馬を、降りましょー」
声は、後方の、下から聞こえた。エリヴィラは、既に馬を降りていた。馬上の方が有利なのでは? と思いつつも、フルメアはすぐに従った。レオンハイトとエノアも続く。
目の前で全員が馬を降りるのを見て、ゴロツキが笑い出した。
「なんだよ、服でも脱いでくれんのか? ガハハ」
そのとき。
ワッ! と、エリヴィラが大声を上げた。
馬たちが、驚いて一斉に前脚を跳ね上げる。
「うおっ!?」
ゴロツキが、馬の背から地面へ、したたかに叩き落とされた。
フルメアたちも懸命に己の馬を宥める。乗ったままだったら、全員落ちていた。
「馬はねぇ、臆病なのよー。いきなり大きな声を出すと、すぐ驚くのよー」
エリヴィラは得意げに言い、手綱を放して馬の尻を軽く叩いた。一行の馬たちは、一度だけ振り返り、やがてドルフェンの方へと駆けていった。
振り返れば、ゴロツキが腰を押さえて立ち上がり、剣を抜いていた。落ちたときに打ったのか、額から流れた血が、顎の先で溜まり、ぼたりと落ちる。それを拭いもしない。
言葉もなく、エリヴィラへ斬りかかった。
斜めに振りかぶった剣が、落ちる前に――エリヴィラは、ゴロツキの横にいた。振り下ろした剣を横へ薙いだときには、もう、後ろにいた。
剣筋が見えているかのような、なぜか当たらない動き。舞にも、見える。エリヴィラの動きに合わせて、ゴロツキのほうが剣を振らされている。
――そう見えた。
「いったい、なにもんだ! オラァ!」
声を上げても、剣は空を切るばかり。ゴロツキの息が、上がっていく。
エリヴィラが、ゆっくりと正面へ回った。
ゴロツキは再び斜めに振りかぶり――その途中で剣を止め、フェイントの横薙ぎに切り替えた。エリヴィラは、最初と同じく、既に横にいる。ゴロツキは薙いだ剣をそのまま、背後まで、力任せに振り回した。
――鈍い音が、森に響いた。
振り回して伸びきった腕の関節を逆に極め、そのまま肘を挫いたのである。
ゴロツキの腕が、曲がらぬ方向へ曲がっていた。激痛に、剣が手から落ちる。
その剣を拾い上げ、エリヴィラは、ゴロツキの首筋へ、刃を当てた。
静かに。
――その顔に、笑みは、なかった。




