エリヴィラ
寝返りの拍子に、冷たい鉄の感触が眠りを破った。地下牢の隅である。
腹が、空いたな。こんな状況でも、腹は空く。喉も渇く。陽の光を浴びないだけで、時間の感覚はこうもずれるものか。
ラーメルトは鎖と天井を交互に眺めながら、考えていた。
建国百年の式典で、何かを行うつもりだとすれば――暗殺か。反逆か。魔術師の行方不明の正体が謀反の企てなら、王都の魔術師の立場は根こそぎ危うくなる。学院は封鎖。父を筆頭に、処刑。
……知らぬ間に、鎖を握りしめていた。
体を起こし、動く範囲で関節をほぐしていると、階段から足音がふたつ、降りてきた。
「お前をここから移すことになったよぉ。素直に応じれば何もしない。抵抗するなら――空間睡眠以外の魔法が来ると、思った方がいいだろうねぇ」
以外、ときたか。
この魔素の薄さで、別の魔法まで使えるという。連発できまいと高を括って、この失態である。ここは従うのが利口だろう。――が、素直に従うのも癪であった。
「空間睡眠以外の魔法があるなら、ぜひ拝見したいものですね。とはいえ、破壊魔法は受けても痛いだけですので、ここは従うことにします」
魔術師は挑発には乗らず、ゴロツキに縛り直しを命じた。手錠の上から、後ろ手に、縄が食い込む。ラーメルトは歯を食いしばり、腕に力を込めた。
続いて、足。
縛り終えたところで、腹に、鈍い衝撃が来た。
「ぐぶっ」
膝から崩れかけたところを、髪を掴んで引き起こされる。
「お前の女を殺しに行った奴ら、まだ帰ってこねぇんだわ。……手間取ってやがる」
もう一撃。髪を引かれ、肺の空気が抜けた瞬間を狙っている。人を殴り慣れた者の、手つきであった。堪えきれず、腹の底からこみ上げたものが、口から溢れた。
「ちっ、汚ねぇな」
吐瀉物を避けたゴロツキが、腹立ちまぎれに横顔を殴る。
その口の端が、吊り上がっていた。その顔は、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「急いでくれないかねぇ。女が生きているなら、ここは足がつきやすい。さっさと移りたいんだよぉ」
「へいへい、すまないっすね」
頭に布が被せられ、視界が落ちる。布越しに、空間魔素の凝る気配。
ラーメルトの意識は、また、そこで途切れた。
◇
ドルフェンの酒場の前。馬を二頭手配し、荷を括り終えたレオンハイトは、エノアの騎乗を手伝っていた。
「なんとか、大丈夫そうです」
「きつかったら、教えてくださいねー」
ふたりの馬は、朝のノルデン街道を、グランツェへ向けて駆け出した。道の途中、幌をかけた荷馬車と、すれ違った。
荷の積み下ろしにでも向かうのだろう。
――それだけのことだと、ふたりは思った。
馬は、止まらなかった。
◇
うんと伸びをする。気持ちのよい伸びが、できてしまった。
……ん? 仰向けで、寝ている?
フルメアはそっと目を開けた。見知らぬ部屋である。体を起こすと、隣で女が、微笑んでこちらを覗いていた。慌ててシーツを引き上げる。服は……着ている。よかった。
女の顔をじっと見るうち、昨夜の記憶が戻ってきた。ひとり旅の女。席に招かれ、酒を飲んで――そこから先が、ない。
またやってしまった。フルメアは頭を抱えた。
「すみませんでした……」
猛省して謝り、それから、もうひとつ思い出した。
「あ、えと……お名前、伺っていませんでした。聞いても、よろしいでしょうか」
「そうね……エリヴィラで良いわ。よろしくね。フルメア」
女は、にこにこと名乗った。
――で、良いわ?
それに、なんで私の名前を……酔ったときに言ったのだろうか。思い出せない。恐る恐る、何もしてないですよね、と昨夜のことを訊くと、エリヴィラはにこやかに、聞かされた愚痴の中身を教えてくれた。
フルメアは、両手で顔を覆った。指の隙間まで、赤かった。
◇
朝食の席で、フルメアはエリヴィラの行き先を訊いてみた。女のひとり旅など、怖くはないのだろうか。
「王都から来てるのよ。ドルフェン経由では、ないのだけどね」
王都からグランツェへ至る道は、ふたつ。
ひとつは、ドルフェンを経るノルデン街道。近いが、妖魔の出る森をかすめ、道も悪い。
もうひとつが、ヴェスター街道。王都の北東から西へ、大きく開けて延びる。旅人も商人も、もっぱらこちらを行く。
エリヴィラは、その遠回りのほうを選んできたのだという。
「それで、目的地は……」
訊きかけた、そのとき。酒場に、鎧をつけた男が三人、入ってきた。
匙が、皿の上で止まった。
――昨日の、襲撃者。
「……っ!」
鞄を掴んで立とうとした肩を、横から伸びたエリヴィラの手が、やわらかく押さえた。
「お知り合いの方?」
振り払おうとした。――なぜか、振り払えなかった。
その間に、三人は目の前まで来ていた。
「お前、昨日街道で逃げた女だろ? 一晩中探したぜぇ?」
舌なめずり。上から下へ、ゆっくりと這う視線。
腕の産毛が、逆立った。
男のひとりが肩へ手を伸ばした、その瞬間――エリヴィラの手が、それを払いのけていた。
「この娘はね、私の連れなのよねー。朝の食事中なの。用がないなら、向こうに行ってくれるかしら?」
強面の男を前に、にこにこしている。
払われた男は逆上し、卓の上のエリヴィラの食器を、腕で勢いよく薙ぎ払った。人の少ない酒場に、木の器の転がる音が響く。
エリヴィラは、気にする風もなく、手ぬぐいで口元を拭いた。
「食事を粗末にするなんて……悲しいわー」
緊張感のない声で席を立ち、床の器を拾い始める。
強面が、怒りに任せて剣を抜き、その背へ斬りつけた。
――振り下ろした先に、エリヴィラは、いなかった。
フルメアは、自分の目を疑った。剣が落ちきるより先に、エリヴィラは強面の左側面へと、移っていたのである。
「まったく危ないわねー。お母さん悲しいわー」
ぱこん、と軽い音が響き、強面の顔に、器の形の痕が綺麗に残った。鼻から、血が垂れる。
唖然としていた残るふたりも剣を抜き、エリヴィラを囲んだ。奥で店員が、衛兵を呼べ、と叫ぶ。
その声を合図に、髭面の男が斜めに斬り下ろす――エリヴィラがわずかに左へ躱すと、髭面は盛大に転び、卓の角で額を切った。
何が起きたのか。フルメアには、髭面がひとりで勝手に転んだようにしか見えなかった。
残る強面と傷顔の男が、前後から挟む。エリヴィラは丸腰である。なのに当人は、慌てるフルメアへ、片目をつぶってみせた。
その隙を突いて、背後の傷顔が突きを放つ。
――当たらない。
剣は、エリヴィラのいた空間をすり抜けた。切っ先の行き着いた先は、対面の、強面の鼻先。傷顔が、慌てて剣を止める。
だが。
逆上した強面の剣は、もう振り下ろされていた。エリヴィラを狙った、渾身の一撃。その勢いのまま、強面の喉が、止まったはずの切っ先へ吸い込まれていく。
――音が、二度した。
強面の剣が、傷顔の肩口を裂いた音。傷顔の剣が、強面の喉を貫いた音。
ふたりの男が、崩れ落ちる。床に、血が広がっていく。
フルメアは、息を吸うことを、忘れていた。




