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世界は見たままの姿をしているか?  作者: 古代羊
第一章 魔術師失踪事件
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夜、それぞれの想い

 地面の、湿った臭いがする。

 ゆっくりと目を開けるが、何も見えない。指を動かす。動く。腕は――縛られていて、動かない。膝を開こうとすると、太ももと足首に痛みが走った。服の上から、縄が食い込んでいる。念入りに、丁寧に、締め上げられた縄が。

 その痛みだけが、濁った意識を、少しずつ現実へ引き戻していった。

 ふいに、目の前が明るくなった。顔に被せられていた布が外されたのだ。とはいえ松明の明かり程度である。それでも、闇に慣れた目には眩しすぎた。


「起きてますぜ、旦那」


 霞む視界に、男ふたりの影。布を手にしているのは、ゴロツキ然とした顔つきの男。旦那と呼ばれたのは――あの魔術師であった。見下ろす形で、ラーメルトの顔を覗き込んでくる。


「それにしても、厄介な人が出てきたものだねぇ。殺してその辺に捨てて、それがバレてごらんよ。一瞬で王都から軍が来ちゃうよぉ」


「こいつ、お偉いさんか何かですかい? 身代金でもふっかけられるんじゃ」


「お偉いさんも、お偉いさんだよ。魔術学院の導師ラーメルトだ。身代金の要求なんて出した時点で、こちらの居場所を教えるようなものじゃないか。こいつの後ろには、王城があるんだよ」


 それに、と魔術師は忌々しげにラーメルトを睨んだ。


「ゴブリンなどに殺されるようなヤツでもない」


 学院の学士程度なら、ゴブリンに殺されても不思議はない。だが、この男は違う。学院にいた者なら、誰もが知っている。

 ――魔術師の目が、そう言っていた。

 ゴロツキが、ラーメルトを足裏で踏みつけ、笑う。


「はっはっは。魔法で一発だったこいつ程度、ゴブリンにだって簡単にやられるんじゃないっすかね? なんなら、俺がここで斬っちまっても?」


「やめろ。お前では勝てない。――たとえそいつが、素手でもだ」

 語尾の、あの粘つく伸びが、消えていた。

 ゴロツキの喉が、鳴った。


「……ちっ」


 眠りの魔法は、とうに解けている。あの痛みで醒めぬはずもない。今、ラーメルトを縛めているのは、魔法ではない。幾重にも巻かれた、ただの縄である。抗いようがない。

 腹いせのように、蹴りが腹へ入る。


「ぐふっ」


 肺の底から、空気が絞り出される。咳が、止まらない。


「なら、縄を解いとくのは危ねぇんじゃ?」


「手錠をつけておけばいいさぁ。建国百年の祭が終わるまでは、死体が見つかっては困るんでねぇ。生かさず殺さず、ここに縛りつけておくのが一番さぁ」


 ――建国百年の祭が、終わるまでは。

 腹の痛みが、遠のいた。

 祭に、何かを仕掛けるつもりか。

 魔術師は牢の外へ出ていき、残ったゴロツキが、短剣を抜いた。髪を掴まれ、顔が上を向く。

 刃の腹が、ゆっくりと頬を這った。ひやり、と冷たい。


「だったらよ、やっぱり今殺しといた方がいいんじゃねぇの?」


「お前は、死体の臭いの上で寝起きしたいのかねぇ」


 牢の外から呆れ声が返り、ゴロツキは、そりゃ嫌だな、と品のない声で笑って、ラーメルトの両手に手錠を嵌めた。冷たい鉄の感触が、布越しに肌へ伝わる。


「どのみち殺されるにしても……考える時間だけは、頂けるようですね」


「ところで――逃げた女は、どうしてるのかなぁ?」


 牢の外から、魔術師の声。ゴロツキが髪から手を離した。


「探しに行ってまさぁ。見つけ次第とっ捕まえて、用が済んだら好きに始末しろと」


「早めに、頼むよぉ?」


 ――端から、生かしておく気はないのか。

 村へ走らせたのは、正しかったのか。

 鎖が、鳴った。握りしめていた拳を、ラーメルトはゆっくりと開いた。

 ゴロツキは背中をひと蹴りして牢の扉に鍵をかけ、耳障りな笑いを残して階段を上っていった。


◇


 その夜のグランツェの酒場は、天井まで声で膨れていた。

 汗と、麦酒と、肉を焼く臭い。打ち合う木のジョッキ。その隙間を、フルメアが酒瓶を抱えて縫っていく。無理を通した報酬、約束の酌である。

 心の中で兵士たちに詫びつつ、これも情報集め、と割り切って動く。ひとりずつ問い詰めるより、酒で口を軽くしてからの方が早い。――もっとも、樽が空いていくばかりで、実りは、なかったが。

 張本人のバルドロフは、誰よりも早く潰れ、卓に突っ伏して鼾をかいていた。

 最後の卓で酌をしていると、兵士のひとりが言った。


「そういえば、他にも、女の人がひとりで村に来てたな」


 珍しい。私には事情があったけれど――どんな目的で、女がひとり?


「あ、いた。あそこで飲んでる」


 兵士が指した先を、フルメアはじっと見た。

 年の頃が……わからない。

 若く見えた次の瞬間には、ずっと年上に見える。灯りの加減か、輪郭が、うまく像を結ばないのだ。

 女は視線に気づいたのか、顔を上げ、微笑んだ。

 その微笑みが、まっすぐに届いた。腹の底が、じんわりと温くなる。

 女同士なのに――耳が、熱い。

 女が、自分の席へと手招きをした。


「どうも、お招きありがとうございます」


「お疲れ様。あれだけの兵士に注いで回るなんて、大変ね。まあ、一杯飲みなさいな?」


 落ち着いた声と、あの微笑み。気がつけば、フルメアはジョッキに口をつけていた。気がつけば、ジョッキは空になっていた。

 気がつけば――


「私だってラーメルトの役に立ちたいのよ。わかる?」


 ――ひどい絡み酒を、始めていた。

 ラーメルト、という名が出た瞬間。

 女の睫毛が、一度だけ、止まった。

 もちろん、酔ったフルメアが気づくはずもない。


「グランツェの手前で襲われて、でもね、でもね、ラーメルトが囮になったかもで、心配で心配で、ふにゅふにゅ」


 語尾はもう言葉にならず、フルメアは、話の途中で眠ってしまった。

 女は少し困った顔をして、遠巻きに眺めていた兵士たちを呼んだ。


「この子、私の部屋まで運んでくれるかしら? ここで寝かせるわけには、いかないでしょ?」


 その夜、酒場の熱気は最高潮に達し、兵士たちは厳正なるくじ引きを開始したのであった。


◇


 ドルフェンの宿。

 匙を持つ指に、力が戻っている。エノアは、そのことに、自分で驚いていた。

 死ぬかもしれなかった自分を救ってくれたラーメルトと、傷と毒を癒やしてくれたレオンハイト。少し怖いけれど、もっともなことを言う人と、底抜けのいい人。


「もう少しすれば、動けるようになると思いますよー」


 ――動ける。

 その言葉が、あの日の森を連れてきた。肩が、勝手に跳ねる。

 エノアは唇を結び、それでも、口を開いた。


「私、昔から冒険譚が好きで……冒険者に、憧れていたんです。でも」


 うつむく。


「大きくなると、親は、家のために知らない人と結婚させようとしました。私はそれが嫌で……親の目を盗んで、ハンザールから王都まで来たんです。でも、何をしていいかもわからず、ひと月近く、宿と酒場を行き来するだけの日々を過ごして。そんなとき、声をかけられて」


 ハンザール出身か。レオンハイトは、つい先日までいた商都を思い出した。


「ゴブリン退治なら初心者でも大丈夫だと、仲間に誘ってくれて……森までは、順調でした。途中で仲間も増えて。だから、危険を感じなかった。それが、甘かった……」


 言葉が、詰まる。


「私だけが生きていて、良いのか。今も、苦しいんです」


 膝の上で握った拳に、しずくが、落ちていた。レオンハイトはエノアをそっと抱き寄せ、後頭部を優しく撫でた。


「その痛みは、あなたが生きている証です。消えは、しません。消してはいけないのです。――忘れるな、と。神は、そう仰っている」

「逃げても構いません。休んでも構いません。けれど前を向くときは、その痛みごと、向いてください」

「悲しみは、抱くもの。囚われるものでは、ありませんよ」


 エノアは、レオンハイトの胸の中で、声を上げて泣いた。


 泣き声の残る部屋に、扉を叩く音が重なった。夜分には大きすぎるノックである。レオンハイトはエノアを寝台に座らせ、衣服を正して扉の前に立った。


「どなたでしょうか」


「宿の者です。レオンハイトさん宛てに、早馬が」


 ――僕宛て?

 差出人は記されていなかったが、ここにいることを知るのは、ふたりしかいない。


「あ、お代は、レオンハイトさんから頂戴するようにと、言付かっております」


 ……差出人は、フルメアですか。

 苦笑いを浮かべて代金を渡し、封を解く。中身は、予想の通りで――予想の、外だった。


『ラーメルトが倒されたかも。捕まったかどうかはわからないけど、姿は見えない。グランツェに急いで来てください』


 短い文であった。

 ラーメルトが、倒された? ラーメルトを、倒す。

 そんな芸当ができる者を、レオンハイトは数名しか知らない。そしてその数名は、ひとり残らず、彼の味方であった。だが、文面に嘘の気配はない。

 封を持つ指先から、血の気が引いていく。

 その手に、エノアがそっと手を添えた。


「……どうか、されたのですか」


 その手を握り返し、レオンハイトはエノアの目を見た。


「今すぐにでも発ちたいところですが、夜道はかえって危うい。日が昇り次第、急ぎでグランツェへ行かねばなりません。――エノアは、どうされますか」


 いつもの、間延びした語尾が、なかった。残れば、ハンザールへ帰されるだろう。望まぬ結婚。次はもう、籠の鳥だ。ついていけば、また命を危険に晒す。足手まといになって、誰かを死なせてしまうかもしれない。あの日の、仲間のように。

 ――前を向くためには、痛みを忘れてはいけません。

 エノアは目を瞑った。胸の前で、手を、痛いほどに握り込む。

 息を、ひとつ。

「ついて、いきます」


 レオンハイトはその手を握り、抱き寄せ――すみません、と、小さく震える声で囁いたのだった。


◇


 冷たい手錠が、眠りを妨げる。

 鎖を眺め、ラーメルトはため息をついた。考えても、仕方がない。疲れるだけだ。

 鉄の冷たさごと、目を閉じた。


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