夜、それぞれの想い
地面の、湿った臭いがする。
ゆっくりと目を開けるが、何も見えない。指を動かす。動く。腕は――縛られていて、動かない。膝を開こうとすると、太ももと足首に痛みが走った。服の上から、縄が食い込んでいる。念入りに、丁寧に、締め上げられた縄が。
その痛みだけが、濁った意識を、少しずつ現実へ引き戻していった。
ふいに、目の前が明るくなった。顔に被せられていた布が外されたのだ。とはいえ松明の明かり程度である。それでも、闇に慣れた目には眩しすぎた。
「起きてますぜ、旦那」
霞む視界に、男ふたりの影。布を手にしているのは、ゴロツキ然とした顔つきの男。旦那と呼ばれたのは――あの魔術師であった。見下ろす形で、ラーメルトの顔を覗き込んでくる。
「それにしても、厄介な人が出てきたものだねぇ。殺してその辺に捨てて、それがバレてごらんよ。一瞬で王都から軍が来ちゃうよぉ」
「こいつ、お偉いさんか何かですかい? 身代金でもふっかけられるんじゃ」
「お偉いさんも、お偉いさんだよ。魔術学院の導師ラーメルトだ。身代金の要求なんて出した時点で、こちらの居場所を教えるようなものじゃないか。こいつの後ろには、王城があるんだよ」
それに、と魔術師は忌々しげにラーメルトを睨んだ。
「ゴブリンなどに殺されるようなヤツでもない」
学院の学士程度なら、ゴブリンに殺されても不思議はない。だが、この男は違う。学院にいた者なら、誰もが知っている。
――魔術師の目が、そう言っていた。
ゴロツキが、ラーメルトを足裏で踏みつけ、笑う。
「はっはっは。魔法で一発だったこいつ程度、ゴブリンにだって簡単にやられるんじゃないっすかね? なんなら、俺がここで斬っちまっても?」
「やめろ。お前では勝てない。――たとえそいつが、素手でもだ」
語尾の、あの粘つく伸びが、消えていた。
ゴロツキの喉が、鳴った。
「……ちっ」
眠りの魔法は、とうに解けている。あの痛みで醒めぬはずもない。今、ラーメルトを縛めているのは、魔法ではない。幾重にも巻かれた、ただの縄である。抗いようがない。
腹いせのように、蹴りが腹へ入る。
「ぐふっ」
肺の底から、空気が絞り出される。咳が、止まらない。
「なら、縄を解いとくのは危ねぇんじゃ?」
「手錠をつけておけばいいさぁ。建国百年の祭が終わるまでは、死体が見つかっては困るんでねぇ。生かさず殺さず、ここに縛りつけておくのが一番さぁ」
――建国百年の祭が、終わるまでは。
腹の痛みが、遠のいた。
祭に、何かを仕掛けるつもりか。
魔術師は牢の外へ出ていき、残ったゴロツキが、短剣を抜いた。髪を掴まれ、顔が上を向く。
刃の腹が、ゆっくりと頬を這った。ひやり、と冷たい。
「だったらよ、やっぱり今殺しといた方がいいんじゃねぇの?」
「お前は、死体の臭いの上で寝起きしたいのかねぇ」
牢の外から呆れ声が返り、ゴロツキは、そりゃ嫌だな、と品のない声で笑って、ラーメルトの両手に手錠を嵌めた。冷たい鉄の感触が、布越しに肌へ伝わる。
「どのみち殺されるにしても……考える時間だけは、頂けるようですね」
「ところで――逃げた女は、どうしてるのかなぁ?」
牢の外から、魔術師の声。ゴロツキが髪から手を離した。
「探しに行ってまさぁ。見つけ次第とっ捕まえて、用が済んだら好きに始末しろと」
「早めに、頼むよぉ?」
――端から、生かしておく気はないのか。
村へ走らせたのは、正しかったのか。
鎖が、鳴った。握りしめていた拳を、ラーメルトはゆっくりと開いた。
ゴロツキは背中をひと蹴りして牢の扉に鍵をかけ、耳障りな笑いを残して階段を上っていった。
◇
その夜のグランツェの酒場は、天井まで声で膨れていた。
汗と、麦酒と、肉を焼く臭い。打ち合う木のジョッキ。その隙間を、フルメアが酒瓶を抱えて縫っていく。無理を通した報酬、約束の酌である。
心の中で兵士たちに詫びつつ、これも情報集め、と割り切って動く。ひとりずつ問い詰めるより、酒で口を軽くしてからの方が早い。――もっとも、樽が空いていくばかりで、実りは、なかったが。
張本人のバルドロフは、誰よりも早く潰れ、卓に突っ伏して鼾をかいていた。
最後の卓で酌をしていると、兵士のひとりが言った。
「そういえば、他にも、女の人がひとりで村に来てたな」
珍しい。私には事情があったけれど――どんな目的で、女がひとり?
「あ、いた。あそこで飲んでる」
兵士が指した先を、フルメアはじっと見た。
年の頃が……わからない。
若く見えた次の瞬間には、ずっと年上に見える。灯りの加減か、輪郭が、うまく像を結ばないのだ。
女は視線に気づいたのか、顔を上げ、微笑んだ。
その微笑みが、まっすぐに届いた。腹の底が、じんわりと温くなる。
女同士なのに――耳が、熱い。
女が、自分の席へと手招きをした。
「どうも、お招きありがとうございます」
「お疲れ様。あれだけの兵士に注いで回るなんて、大変ね。まあ、一杯飲みなさいな?」
落ち着いた声と、あの微笑み。気がつけば、フルメアはジョッキに口をつけていた。気がつけば、ジョッキは空になっていた。
気がつけば――
「私だってラーメルトの役に立ちたいのよ。わかる?」
――ひどい絡み酒を、始めていた。
ラーメルト、という名が出た瞬間。
女の睫毛が、一度だけ、止まった。
もちろん、酔ったフルメアが気づくはずもない。
「グランツェの手前で襲われて、でもね、でもね、ラーメルトが囮になったかもで、心配で心配で、ふにゅふにゅ」
語尾はもう言葉にならず、フルメアは、話の途中で眠ってしまった。
女は少し困った顔をして、遠巻きに眺めていた兵士たちを呼んだ。
「この子、私の部屋まで運んでくれるかしら? ここで寝かせるわけには、いかないでしょ?」
その夜、酒場の熱気は最高潮に達し、兵士たちは厳正なるくじ引きを開始したのであった。
◇
ドルフェンの宿。
匙を持つ指に、力が戻っている。エノアは、そのことに、自分で驚いていた。
死ぬかもしれなかった自分を救ってくれたラーメルトと、傷と毒を癒やしてくれたレオンハイト。少し怖いけれど、もっともなことを言う人と、底抜けのいい人。
「もう少しすれば、動けるようになると思いますよー」
――動ける。
その言葉が、あの日の森を連れてきた。肩が、勝手に跳ねる。
エノアは唇を結び、それでも、口を開いた。
「私、昔から冒険譚が好きで……冒険者に、憧れていたんです。でも」
うつむく。
「大きくなると、親は、家のために知らない人と結婚させようとしました。私はそれが嫌で……親の目を盗んで、ハンザールから王都まで来たんです。でも、何をしていいかもわからず、ひと月近く、宿と酒場を行き来するだけの日々を過ごして。そんなとき、声をかけられて」
ハンザール出身か。レオンハイトは、つい先日までいた商都を思い出した。
「ゴブリン退治なら初心者でも大丈夫だと、仲間に誘ってくれて……森までは、順調でした。途中で仲間も増えて。だから、危険を感じなかった。それが、甘かった……」
言葉が、詰まる。
「私だけが生きていて、良いのか。今も、苦しいんです」
膝の上で握った拳に、しずくが、落ちていた。レオンハイトはエノアをそっと抱き寄せ、後頭部を優しく撫でた。
「その痛みは、あなたが生きている証です。消えは、しません。消してはいけないのです。――忘れるな、と。神は、そう仰っている」
「逃げても構いません。休んでも構いません。けれど前を向くときは、その痛みごと、向いてください」
「悲しみは、抱くもの。囚われるものでは、ありませんよ」
エノアは、レオンハイトの胸の中で、声を上げて泣いた。
泣き声の残る部屋に、扉を叩く音が重なった。夜分には大きすぎるノックである。レオンハイトはエノアを寝台に座らせ、衣服を正して扉の前に立った。
「どなたでしょうか」
「宿の者です。レオンハイトさん宛てに、早馬が」
――僕宛て?
差出人は記されていなかったが、ここにいることを知るのは、ふたりしかいない。
「あ、お代は、レオンハイトさんから頂戴するようにと、言付かっております」
……差出人は、フルメアですか。
苦笑いを浮かべて代金を渡し、封を解く。中身は、予想の通りで――予想の、外だった。
『ラーメルトが倒されたかも。捕まったかどうかはわからないけど、姿は見えない。グランツェに急いで来てください』
短い文であった。
ラーメルトが、倒された? ラーメルトを、倒す。
そんな芸当ができる者を、レオンハイトは数名しか知らない。そしてその数名は、ひとり残らず、彼の味方であった。だが、文面に嘘の気配はない。
封を持つ指先から、血の気が引いていく。
その手に、エノアがそっと手を添えた。
「……どうか、されたのですか」
その手を握り返し、レオンハイトはエノアの目を見た。
「今すぐにでも発ちたいところですが、夜道はかえって危うい。日が昇り次第、急ぎでグランツェへ行かねばなりません。――エノアは、どうされますか」
いつもの、間延びした語尾が、なかった。残れば、ハンザールへ帰されるだろう。望まぬ結婚。次はもう、籠の鳥だ。ついていけば、また命を危険に晒す。足手まといになって、誰かを死なせてしまうかもしれない。あの日の、仲間のように。
――前を向くためには、痛みを忘れてはいけません。
エノアは目を瞑った。胸の前で、手を、痛いほどに握り込む。
息を、ひとつ。
「ついて、いきます」
レオンハイトはその手を握り、抱き寄せ――すみません、と、小さく震える声で囁いたのだった。
◇
冷たい手錠が、眠りを妨げる。
鎖を眺め、ラーメルトはため息をついた。考えても、仕方がない。疲れるだけだ。
鉄の冷たさごと、目を閉じた。




