命のやり取り
「レオンハイト、起きてください」
空が薄く色づき始めた頃、ラーメルトはレオンハイトを揺すった。
「んー……」
大きな伸びをひとつ。目覚めは良さそうである。
「交代を。フルメアと私は、少し眠ります」
「お願いねー」
ラーメルトとフルメアは外套にくるまって横になった。
レオンハイトは静かに起き上がり、鍋を洗い、冷たい水で顔を洗った。指の関節が、痺れるほどに冷たい。
かまどに薪を足し、鍋を火にかける。
やがて、湯気とともに、朝の空気へ良い匂いが広がりはじめた。
「……良い、匂い」
背後で、エノアの声がした。
「もう少し、眠っててもいいよー」
返事は、なかった。
やがて火の音に紛れて、規則正しい寝息が、また聞こえはじめる。
◇
「エノアは、どうするの?」
皆で朝食を終え、旅支度を始めたフルメアが、心配そうに呟いた。
「ドルフェンまでは、連れて行くしかないですね」
毒と深手を負った身で、王都まで歩かせられるはずもない。かと言って、食料も日数も、送り届けて戻る余裕はない。ドルフェンまで行けば、村で養生もできるし、王都へ報せを出すこともできる。迷っている時間の分だけ、陽は進む。選択肢は、それしかなかった。
「今から出れば、何ごともなければ、野宿なしで着けるでしょう」
エノアは荷馬に乗せた。その分の荷は、干し肉などの軽いものをフルメアが、酒類と重い雑貨をラーメルトが背負う。
「……すみません」
馬上から、細い声が落ちてきた。
ラーメルトは顔も上げず、鐙の長さを直してやりながら答えた。
「落ちないことにだけ、気をつけてください」
一行は野営地を均し、出発した。
◇
道中は幸い何ごともなく、空が薄暗くなり始めた頃、ドルフェンに着いた。
「着いたわ!」
人の背丈ほどの柵が、村をぐるりと囲っている。獣を止めるには、十分だろう。
柵の向こうから、炊事の煙。誰かが誰かを呼ぶ声。子どもの笑い。
――人の、いる音だ。
張り詰めていたものが、フルメアの肩から静かに抜けていった。
門を開けてもらい、ジョッキの看板の宿を探して、四人で眠れる大部屋を借りる。エノアをまず寝台へ寝かせ、レオンハイトが傷を検めた。
その様子を横目に、フルメアはラーメルトに、昨日から聞きたかったことを訊いた。ゴブリン三匹を、一瞬で斬った件である。
「あれだけ強いのだから、もっと早く助ければ良かったのに」
ラーメルトは、首を振った。
「あの状況では、ああするしかないのです。危険を承知で飛び込む必要は、ありません」
人を助けるために己を犠牲にする英雄の物語なら、学院の書庫で山ほど読んだ。それが間違いだとは言わない。だが。
「私は、英雄譚の英雄ではありません」
ラーメルトは、己の掌を無造作に開いてみせた。
「刀は一本。腕は、二本。……守れる背中の数は、それで決まります」
どれほどの腕利きでも、四方八方から寄ってたかって襲われれば防ぎようがない。ゴブリンは、その数の暴力で来る。そして敵は、強い者にばかり向かうわけではない。むしろ、弱い方を選んで襲う。あのとき私に来たから良かったものの、矛先があなたやレオンハイトへ向いていたら――
「あの場で私が飛び出して、森からさらに二十匹も湧いたら、傷ひとつ負わずに戦い抜くのは難しい。そしてゴブリン相手では、その一筋の傷が、命取りになる」
ラーメルトは、レオンハイトとエノアの方を見、それからフルメアをまっすぐに見た。
「戦えるのが、私ひとりなら」
声が、少しだけ低くなった。
「私が倒れることは――そのまま、全滅を意味します」
だから、わざと注意を引きつけた。刀を抜かずに立ち、油断を誘って、一瞬で仕留めた。逃がせば、群れを連れて夜道を狙ってくる。一匹も、帰すわけにはいかなかった。
「熟練の冒険者は、入念に備え、危険を数え上げ、潰せるものは必ず潰してから動きます。慣れてきた者や、駆け出しは、そこが甘い。どこかに綻びが出る。だから、崩れるときは一気に崩れ――全滅します」
エノアの体が、弾かれたように震えた。
「向こうも、死にたくないのですよ。だから、何でもしてくる。人間と、同じです」
毒。不意打ち。数。卑怯。
「命のやり取りに、そんな言葉は、一つも持ち込めません」
ラーメルトは、そこで一度、目を伏せた。
「死んだら、終わりです。やり直しは、きかない」
言い終えると、ラーメルトは静かに立ち上がり、寝台で布にくるまって震えるエノアへ、すみません、と短く詫びた。それから、フルメアへ向き直った。口の端が、ほんの少しだけ和らぐ。
「――ともに行くと決めた人を守ることに、限りを設ける気はありません」
エノアは、もう、ともに行く人だ。
「だから、大丈夫ですよ」
そう言い残して、ラーメルトは部屋を出ていった。
扉は、音を立てずに閉まった。
フルメアは、その一点から目を離せずにいた。胸の内側で、名前のつかない何かが、ゆっくりと形を変えていく。




