強襲された冒険者
「ところで、どこまで行くの?」
街道をしばらく進んだところで、フルメアが初めて口を開いた。行き先は「ノルデン街道の先」と大まかにしか伝えていなかったのだ。
「グストリア領の、グランツェのあたりですね」
「王都の貴族が自治を許された土地です。村から税を集め、その上前を国へ納める。国の手が届かぬ端を、貴族の面目ごと預けてしまう――そういう」
「ふぅん」
興味のなさそうな相槌に、ラーメルトの講義は行き場を失った。
「そう。じゃあ今日は、途中のドルフェンまで行けるかしら」
ドルフェンはノルデン街道沿いで王都に最も近い宿場村である。フルメア自身、王都へ出る道すがら、あの村で馬を休めていた。
「今の足取りだとー、その手前で野宿になりそうですねー」
後ろから、間延びした声が飛んでくる。
覚悟は、していたはずだった。それでも、フルメアの眉は正直に下がった。
「野宿かぁ」
顔だけでは、足りなかったらしい。慌てて前を向く。
街道の先に、大樹がひとつ。
子どもが幹の周りでかけっこをできそうな太さだった。大戦の前から、あの場所で同じ影を落としてきたのだろう。旅人はこの木を目印に、王都までの道のりを測る。
「今、どのあたりにいるの?」
レオンハイトが地図を広げ、大樹の印の少し手前を、指の背で叩いた。野営予定地までの、ちょうど半分ほど。
「そろそろ休憩にしましょー」
「そうですね。一度、休みましょうか」
ラーメルトは荷馬の鞄から干し肉と革水筒を出し、水を木の椀に注いで順に配った。陽は、真上。首筋を、汗がひと筋伝う。
水はぬるく、革の匂いがした。それでも、砂を噛んだような喉には、甘いほどであった。
「では、行きましょう」
小腹を満たした一行は、再び歩き出した。
しばらく行ったところで、フルメアは、ラーメルトの唇がかすかに動いているのに気がついた。
「さっきから、何をぶつぶつ言ってるの?」
「歩数です」
ラーメルトは事もなげに答えた。
「母の教えでしてね。自分の一歩の長さを、体に覚えさせておけ、と」
ラーメルトは、前を向いたまま続けた。
「歩幅が乱れるのは、疲れているときか、恐れているときです。……間合いも、同じですよ」
変わった教えもあるものね。
フルメアは首をかしげた。そして、気づかない。
――その歩幅が、王都の門を出た一歩目から、いまこの一歩まで、寸分も乱れていないことに。
◇
「そろそろかなー」
四方の開けた場所であった。少し先に森が見え、地図によれば、森の手前を川が流れている。水浴びができるかも、とフルメアは少し期待した。
「ここらで野営しますかー」
「まだ明るいわよ?」
陽は、まだ存分に照っている。もっと歩けるのでは、と問うフルメアに、ラーメルトが答えた。
「これから支度を進めると、あっという間に暗くなります。暗くなってからでは身動きが取れず、かえって危険なのですよ」
旅慣れたふたりの言うことには従った方がよさそうだ。フルメアは素直に頷いた。
「では、私は水を汲んできます。ふたりは火の支度を」
「あ、待って! 私も行く――」
フルメアが駆け出そうとした、そのとき。
森の方から、ひときわ高い悲鳴が聞こえた。
「助けて! 誰か! お願い!」
革鎧の女が、血まみれで森から走り出てきた。逃げるのに必死で、こちらにはまだ気づいていない。
「フルメアは私の後ろに。――レオンハイト」
名を呼ぶ声から、丁寧語が落ちていた。
「フルメアを、頼む」
いつになく厳しい口調であった。
女の後ろから、ゴブリンが数匹、追ってくるのが見えた。
「ゴブリンに追われてる……なんで助けに行かないの?!」
言い終える前に、口を塞がれた。
乾いた、硬い掌だった。剣だこの位置が、はっきりとわかる。
「――声を」
囁きは、耳の奥にだけ落ちてきた。
「数で負けていれば、こちらにも危険が及びます」
ゴブリンは、一匹なら駆け出しでも斬れる。
恐ろしいのは、群れることだ。狡いことだ。そして――毒だ。
麻痺の毒。遅効の毒。弱らせて、なぶる。
歴戦の冒険者でさえ、群れの只中で受けた掠り傷ひとつで、翌朝には冷たくなっている。
「もう少し、様子を見ます」
ラーメルトの目は、女の足だけを追っていた。
――まだ、動く。麻痺は、受けていない。森は静かなまま。距離は、開いている。
「――大丈夫そうですね」
荷馬の手綱を解いてフルメアに預け、腰の刀に手をかける。鍛冶場で受け取った篭手と胸当ては、まだ身に着けたままだった。
「何かあったら、迷わず逃げてください。……行きます」
短く言って、ラーメルトは走り出した。
「こっちへ!」
声に気づいた女が進路を変える。獲物の変針と、その先に立つ新たな人間に、ゴブリンたちも矛先を変えた。女は追いつかれる寸前で、ラーメルトの位置まで駆け込んだ。
「後ろに!」
直後、ゴブリンが三匹、眼前に並んだ。手にした短剣には、毒々しい色の液が薄気味悪く光っている。
ラーメルトは、鞘に手を添えたまま、対峙した。
獲物が増えたことに苛立ったか、牙を剥き、威嚇しながら、じり、じり、と間合いが詰まる。
やがて、痺れを切らした一匹が、飛びかかって――くるはずであった。
その膝が沈むより、早く。
――音が、遅れて届いた。
一匹目は、もう、二つになっていた。二匹目は、いつ返されたとも知れぬ切り上げに、胴と首を分かたれている。
黒く、緩く反った刀身が、陽の光を鈍く舐めた。
三匹目が、森へ身を翻す。
翻しきる前に、その妖魔は見た。
自分の腹から、黒い切っ先が生えているのを。
膝が落ちた。それきり、動かなかった。
ラーメルトは刀を振って血を払い、布で丁寧に拭ってから、鞘へ収めた。
地面に、三つの骸。染みが、ゆっくりと草を黒く変えていく。
風が、鉄と獣の匂いを運んできた。
フルメアは手綱を握ったまま、動けずにいた。掌が、じっとりと濡れている。
「……え? 一瞬で?」
「ラーメルトは、リザベラ様から剣を習ってたしねー」
神殿長の、一番弟子?
フルメアの頭の中を、疑問符が飛び交った。
◇
女は、恐怖から解き放たれたためか、膝から崩れて座り込んでいた。革鎧は赤黒く染まり、腹からは新しい血。肩口が紫色に変じている。――と、そこで意識を失い、倒れた。
駆けつけたレオンハイトが、すぐさま容体を診る。
「これは毒。幸い、掠り傷だから効きは弱い。問題は腹の刺し傷の方。……少し、深い」
いつもの間延びは、声から消えていた。
骸のそばから離れ、野営地へ女を運び、布に寝かせる。レオンハイトが祈りを捧げ、詠唱に入った。
掌の下に、淡い光が灯る。神々の戦いの折、人へ分け与えられたという奇跡の――その、残り火であった。
ラーメルトは川へ走り、フルメアは火の支度にかかった。
戻ってみれば、火はまだ熾きておらず、彼女はかまどの石を並べている最中だった。石を置く指先が、細かく震えていた。
女の腹の傷は、神聖術で塞がっていた。唇はまだ紫を帯びているが、頬には血の気が戻りつつある。
その色をそっくり譲り渡したように、レオンハイトの顔が白い。
ラーメルトは何も言わず、その肩を叩いた。神官は、間延びした声も出さずに、こくりと頷いた。
◇
空には星。かまどの火だけが、あたりを照らしている。
「……エノアと、いいます」
薪の爆ぜる静寂を破って、女――エノアが口を開いた。名乗れるほどには、力が戻ったらしい。フルメアが豆のスープの椀を渡す。レオンハイトが眠る前に作ったものだ。当人は、もう寝息を立てていた。
「六人で、来ていました」
スープをひと口、静かに飲み下し、エノアは語った。王都の酒場で、冒険者向けのゴブリン討伐の依頼を受けたこと。最初は三人だったが、同じ依頼を受けた三人と道中で合流したこと。
「森の中で、不意を突かれて……立て直す間もなく……散り散りに……」
言葉が、途切れた。
椀を持つ手が震え、豆がひとつ、ふたつ、火のそばへ零れ落ちる。エノアは椀を抱えたまま、声を殺して泣いた。
「あなたの他に、生き残りは……?」
「……逃げるのに、必死で」
エノアは、火を見ていた。
「ほとんど、見ていません」
フルメアは、それ以上を聞く気になれなかった。
◇
「私が見張ります。フルメアは寝てください」
「いいえ。エノアの様子を、見てるわ」
焚き火越しの視線は強く、ラーメルトはそれ以上言うのをやめた。
「わかりました。お願いします」
「これくらいは任せて」フルメアは小さく呟いた。
ラーメルトは火に薪を足しながら、森の暗がりへ目をやった。
――討伐に来た六人が、逆に狩られた。
それも、獲物を追って、森の外まで。ゴブリンは狡猾で、執念深い。だが本来、縄張りの森を出てまで一匹の獲物を追うことは、稀なのだ。
なぜ、あれほど執拗に。
薪が、ぱちりと爆ぜる。
問いは火の粉となって夜空へ昇り、答えを残さぬまま、星の手前で消えた。




