雨上がりの道
炉の火が、二度目に小さくなったころだった。
肩の重みがふっと消えた。フルメアが頭を起こし、目をこすりながら座り直している。
「交代。今度はあなたが寝て」
「まだ大丈夫です」
「起こしてって言ったのは私よ。起こされなかったのも、私」
そう言われると、返す言葉がなかった。フルメアは炉に細い枝を一本足し、ラーメルトの肩を軽く押した。
戸口の脇では、住人が同じ姿勢のまま座っていた。目が開いているのかどうか、火の届かないところでは分からない。
ラーメルトは壁に背を預けた。目を閉じても、しばらくは雨の音を数えていた。
次に目を開けたとき、音が変わっていた。
屋根を叩く細かな音が消え、軒から落ちる滴だけが、間を置いて土を打っている。戸口の隙間が白い。
炉の前ではフルメアが膝を抱えていた。目の下が少し暗い。ラーメルトが体を起こすと、彼女は戸口を顎で示した。
「やんだわ。少し前に」
エレシアは、粗い布にくるまったまま身を起こしていた。手を床について、ゆっくり立ち上がる。誰も手を貸さないうちに立てた。けれど一歩目を出すまでに、しばらくかかった。
ラーメルトは梁から外套を下ろした。一晩炉の熱を受けて、湿りはほとんど抜けている。表は乾き、縫い目のあたりだけがまだ冷たかった。
「これを着てください。布は、お返ししましょう」
エレシアは外套を受け取り、自分で袖を通した。それから肩の布を外し、端と端を合わせて畳み始めた。指の動きは遅かったが、畳み終えるまで誰にも渡さなかった。
畳んだ布を胸に抱えて、戸口の住人の前へ行く。
「……これ」
住人は布を受け取り、エレシアを一度見て、壁の元の場所へ掛けた。
住人はもう荷を背負っていた。立ち上がり、戸を開ける。冷えた朝の空気が、炉の煙を外へさらっていった。
小屋の前の道は、雨水が流れた跡で筋になっていた。
住人は道の下り側を指した。それから近くの幹を叩く。刃物で削った白い跡があった。
「下。これ、たどれ」
「里へ、ですね」
ラーメルトは、昨夜覚えた言葉を口にした。住人の眉が、わずかに上がる。
「里」
短く繰り返し、頷いた。
ラーメルトは礼の言葉を探した。丁寧に言えば、また通じないかもしれない。結局、頭を下げるだけにした。
住人は何も言わず、背を向けた。荷を揺らして道を上っていく。見送るでも、振り返るでもなかった。仕事へ戻っていくのだと分かった。
「行きましょう」
三人で、道を下り始めた。
来るときに数えた三百十二歩を、逆にたどった。
下りは上りより足が速く進む。そのぶん、ぬかるみで滑りやすい。フルメアはエレシアの横につき、道の端の、草が根を張っているところを選んで歩かせた。エレシアは外套の前を握り、足元だけを見ていた。
道が斜面を横切るところへ出た。倒木をどけた跡がある。ここで、あの住人と会った。
ラーメルトは道の脇の木々を見た。この先を六十歩ほど行けば岩陰で、そこから二十二歩で柱がある。
フルメアが、こちらを見ていた。
「今日は、行かないのよね」
「はい。里が先です」
フルメアは頷き、エレシアの歩調に合わせて先へ進んだ。
ラーメルトはもう一度だけ木々の奥へ目をやり、それから二人の後を追った。
道はそこからさらに下っていった。
白い跡は、幹から幹へ途切れずに続いている。ラーメルトはそれを一つ見つけるたびに、跡のある木の形と、道の曲がり方を頭の中に並べた。右へ大きく曲がったあとで、岩の割れ目を一つ越える。根の張り出した急な下りがあり、細い沢を渡る。
木々も、大陸の森とは違った。幹がまっすぐ高く伸び、樹皮が紙のように薄く剝がれている。足元には、手のひらを広げたような葉の草が一面に茂っていた。鳥の声も聞き慣れない。高く短く、三度ずつ鳴く。
沢の手前で、腕を叩かれた。
「あなた、顔が赤いわよ」
「そうですか」
「数えるのは、休んでからにして」
フルメアの言うとおりだった。歩数と目印と曲がり角を、同時に覚えようとしていた。息が上がっていることに、言われてやっと気づいた。
沢のそばの平たい岩に、三人で腰を下ろした。
エレシアは座るなり、外套の中で膝を抱えた。しばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……やすみたい。もう少し」
「ええ。いくらでも」
フルメアが答えた。沢の水は澄んでいて、冷たかった。ラーメルトが手ですくって飲むと、二人もそれに倣った。
日の当たる岩の上で、濡れた服が少しずつ温まっていく。ラーメルトは、自分の膝が細かく震えているのに気づいた。寒さのせいだけではなかった。
どれほど座っていたか、先に立ち上がったのはエレシアだった。
「……いける」
外套の前を握り直して、沢の石に足を掛けた。フルメアが慌てて立ち、その横についた。
日が高くなるころ、木々の間が明るくなった。
道が森の縁を抜けると、急に視界が開けた。
なだらかな斜面の下に、畑が広がっていた。土が黒く、細い畝がきれいに並んでいる。その向こうに、屋根がいくつも見えた。板と樹皮を重ねた低い屋根で、何本か細い煙が上がっている。
里だった。灰の上に描かれた、四角の集まりだった。
フルメアが長く息を吐いた。エレシアも、外套の前から手を離して、その屋根を見ていた。
畑の端に、人がいた。
籠を腰に下げ、畝のあいだにかがんでいる。その人が顔を上げた。
手が止まった。目が、森から出てきた三人の上で止まる。濡れた跡の残る服を、ラーメルトの外套を着たエレシアを、順に見ていく。
ラーメルトは足を止めた。
ここまで来れば、と思っていた。けれど、あの目は小屋の住人が最初に向けた目と同じだった。言葉も、来た道も、まだ何一つ伝わっていない。




