戸口の向こう
畑の人は、籠を腰に下げたまま立ち上がった。三人から目を離さずに後ずさり、それから背を向けて、屋根の方へ足早に歩いていった。
ラーメルトはその場から動かなかった。追えば、逃げる人を追う形になる。
畑の脇の道を下りきったところに、一軒の家があった。里の家並みの、いちばん山に近い端だった。畑の人はその家の戸口に何か声をかけ、自分は隣の家の陰へ入った。
戸が開いた。
出てきた人は、戸口の柱に片手をついたまま、外へは出てこなかった。袖をまくった腕に、粉のようなものがついている。仕事の途中だったのだろう。その目が、道の上の三人を測っていた。
「なんの用だ」
三人は道の上で足を止めた。戸口まで、十五歩ほど。
ラーメルトは一歩だけ前に出て、頭を下げた。
「突然お訪ねして、申し訳ありません。私どもは山で雨に遭い、難儀をしておりまして、もし差し支えなければ――」
「なに言ってんだか、分かんねえ」
途中で切られた。
家の人は、柱についた手に力を込めた。隣の家の窓から、誰かの顔が半分のぞいている。
「どこから来た」
その問いだけは、はっきり聞き取れた。そして、いちばん答えにくい問いだった。
ラーメルトは嘘を作らなかった。体を半分ひねり、三人が下りてきた森の方を、その奥の山を指した。
「あちらから」
「山?」
家の人の顔が、さらに硬くなった。
「あっちに家なんかねえ。山から人が下りてくるか」
言い終わる前に、目がラーメルトの服へ、フルメアの濡れ跡へ、エレシアの体に合わない外套へと動いた。どこの者とも分からない三人が、人の住まない方角から来た。そう見えているのだと分かった。
言葉を重ねれば、もっと分からなくなる。
ラーメルトは、言うことを三つに削った。指を三本立てる。
「三人」
それから西の空を指し、手のひらをゆっくり下ろした。日が沈む形だった。
「今夜」
最後に、両手を重ねて頬に当てた。
「休む場所を」
家の人は、ラーメルトの手を見ていた。
「三人……今夜」
繰り返して、眉を寄せた。
「あとから、まだ来るのか。仲間が」
早口だった。ラーメルトに拾えたのは「まだ来る」だけだった。何が来ると訊かれたのか、すぐには分からない。家の人の手が、戸の縁へ移った。閉めるための位置だった。
「三人だけ」
エレシアが言った。フルメアの横で、外套の前を握っている。
「ほかに、いない」
家の人の手が、戸の縁で止まった。
それから、目がエレシアに据わった。
「あんた、どこの子だ。名前は。なんで山なんかに」
問いが、エレシアにだけ向かって続けざまに飛んだ。エレシアの肩が縮む。唇が開いたが、言葉は出てこなかった。
フルメアが、半歩前に出た。
「この人、ずっと雨の中にいたの。冷えて、ふらふらなのよ」
言いながら、エレシアの手を取って家の人の方へ向けた。指先がまだ白い。
家の人の目が、フルメアへ移った。言葉が全部届いたとは思えない。けれど、手は見えたはずだった。
ラーメルトは自分の胸に手を当てた。
「ラーメルトです」
名前だけを言った。申します、とは付けなかった。
「フルメア」
フルメアも短く続けた。エレシアは黙ったまま、フルメアの横にいた。
家の人は、三人の顔を順に見た。もう、エレシア一人には問いを向けなかった。しばらく黙ってから、戸を大きく開けた。
「一晩だけだ」
中は、土を固めた広い土間だった。奥に一段高い板の間があり、その手前に竈がある。家の人は土間の、戸口に近い隅を足で示した。藁の束が積んであるあたりだった。
それから、板の間の縁の前で、足先を横に一度すべらせた。
「ここまで」
そこから奥へは上がるな、ということだった。三人は頷き、藁の脇へ腰を下ろした。
家の人は板の間の端へ戻り、木の鉢に手を入れた。粉をこねる仕事の続きらしい。三人に背を向けすぎない向きに座り、時々こちらへ目を上げる。
入るとき、戸口の板が鳴ったのを、ラーメルトは聞いていた。
フルメアも聞いていたらしい。座ったまま、戸口の方を見ている。戸の内側に一枚の厚い板が渡してあり、その下の土が黒く湿っていた。外では、軒から落ちた水が戸口の前に溜まり、板の下へ流れ込んでいる。
フルメアは立ち上がり、戸口の板の端を片足で踏んだ。板が沈み、下から泥水がにじみ出た。反対の端が、わずかに浮く。
家の人が鉢から顔を上げた。
「そこは、いじるな」
「いじらないわ。見てるだけ」
フルメアは板から足を下ろした。それから、浮いた端と、水の溜まった外を指でたどり、最後に自分の両手を合わせて、何かを据え直す仕草をした。
「直せる。たぶん。見てみないと分からないけど」
家の人は、しばらくフルメアの手を見ていた。
「……あした。明るくなってから、見て決める」
それだけ言って、また鉢の方を向いた。
日が傾くまで、三人は藁の脇から動かなかった。
エレシアは藁の束にもたれて、目を閉じていた。眠っているのかどうかは分からない。フルメアが、家の人の方を気にしながら声を落とした。
「さっきの、三つに切ったの。よかったわ」
「長く話すほど、通じなくなるようなので」
ラーメルトも小声で返した。
「短く、手と一緒に言う方が届きます。明日は、それで話してみます」
「明日は、私の手の方が役に立つかもね」
フルメアは、戸口の板の方へ目をやった。
家の人が竈に火を入れ、鍋を掛ける。やがて、木の椀が三つ、板の間の縁に置かれた。縁より奥へは上がらずに、手を伸ばして取れる場所だった。
ラーメルトが椀を取り、フルメアとエレシアに渡した。中には、刻んだ根菜と穀物を煮た、とろみのある汁が入っていた。湯気が顔にかかる。
エレシアは両手で椀を受け取った。すぐには口をつけず、しばらく手のひらで温かさを確かめていた。それから、少しずつ啜った。
ラーメルトも口に運んだ。熱いものが喉を通って、腹の底へ落ちていく。
「……ありがとうございます」
家の人は、竈の前から振り返らなかった。けれど、聞こえてはいたのだろう。鍋をかき回す手が、一度だけ止まった。
戸口の隙間から、夕方の光が細く差し込んでいた。隣の家の窓には、もう誰の顔もなかった。




